ブックマーク / diary.lylyco.com (24)

  • 自分嫌いの人に贈る言葉|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「自分なんて面白くない、つまらない、嫌い」という人へ。 自分が面白くて仕方がない。そんな人はそういない。思春期をすぎて大人の階段をのぼって、それでも自分が面白くて仕方がない、なんて人は少しオカシイ。或いは、あえて自分を見ずに生きているんだろう。そういう人生の愉しみ方はあると思う。予測精度の低い人生は賭けの要素が強いけれど、しっかりセルフコントロールできることが最良とも限らない。大抵は自分との付き合いが長くなればなるほど自分がどんな人間か見えてくる。否、見えてくるような気がする。自分自身が常に予想外だとかいう人は、それが意図的でないなら少し格好をつけているか単に馬鹿なんだろう。 要するに自分がツマラナイのは、およそ自分が予測範囲内の存在だからだ。明日も明後日も来週も、たぶん、今日とそれほど変わらない日常を生きていて、その中で起こる事件はこれまでにもあったような出来事の変奏にすぎず、自分がうま

  • ダメな人間を分析しても無駄なたったひとつの理由|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ・【第6話】ダメな人間の10パターン:日経ビジネスオンライン それは、決して「瑕のない人間が成功する」わけではないからだ。 人の振り見て我が振り直せという言葉がある。これは自戒の言葉であって成功への道を説いた言葉ではない。そんなことは小学生でも知っている。それをまるで成功への秘訣でも隠されているかのように人の欠点を論うなどいい大人のやることではない。失敗の法則は失敗の法則でしかない。裏返してみたところで成功の法則にはならない。そして、残念ながら成功の法則はない。あらゆる成功譚は、成功者だけが振り返ることのできる一回性の物語でしかない。まず、再現性はない。成功以前の松下幸之助がいま転生したとしても、再び成功者となる可能性は他の誰とも変わらない。 向上心溢れるビジネスパーソン諸氏がリンク先の記事を読んで、自らを鼓舞する暗示を覚え、じっくり取り組む姿勢を手に入れ、外に出て行く勇気と気力を持ち、交

    tsumoyun
    tsumoyun 2009/05/30
    “あらゆる成功譚は、成功者だけが振り返ることのできる一回性の物語でしかない。”
  • 暴走する兄、ギリギリな妹|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    人の死で始まる物語なんて、ぼくは大嫌いだ。 ナルシスティックな死の物語。思春期の漫画家志望が描く公募原稿じゃないんだから。まったく、クソだ。それにしても、いったいぼくは何に悪態をついてるんだろう。と、体中に痛みを感じて目を覚ます。酷く気分が悪い。肌がガサガサする。不快に身を捩りながら体を起こすと、こびりついていたシーツがバリバリと剥がれていく。赤黒いシミを見て、腑に落ちる。ああ、ぼくはぼくの人生に悪態をついていたのだ。包帯だらけの自分を見て苦笑する。いったい、どれだけ自分を切り刻んだんだろう。昨日のことはあまり記憶にない。ケータイの時計を見る。もう午を過ぎている。 隣室からテレビの声が聞こえる。インターネットで薬を買って死ぬのが流行らしい。母がいるということは、今日は店が休みなんだろう。いい歳をして働きもしない息子によくも愛想を尽かさないものだと思う。父の稼ぎで三昼寝付きを満喫するべきは

  • 「今何をやりたいか」なんて瑣末な問題にすぎない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「やりたいことを探しなさい」なんてアドバイスを信じてはいけない。 ・新社会人の憂 未熟なぼくたちが「今やりたいこと」なんてたがか知れている。選択肢が少なすぎる。世の中にどれだけの「やるべきこと」があるか、ぼくたちは知らない。選択肢がどこまで広がるのか、ぼくたちは知らない。そんな狭い狭い選択肢の中からいくら「今やりたいこと」を探したって大したものは見つからない。結局、思っていたのと違う、と失望するのがオチだ。が好きだからと書店員になっても、デザインが好きだからとデザイナーになっても、ジャニーズが好きだからとタレントになっても、やっぱり、思っていたのとは違うといって失望するだろう。これではキリがない。 有名デザイナーが斬新な装丁を手がけたが話題になる。その装丁でそのを出すために、どれだけの人が、どれだけの知恵が、どれだけの才能が、どれだけの技術や職能が必要だったのか。それに関わった人た

  • ある種のネト充やオタクたちは決して「リア充」にはなれない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「リア充」という言葉、案外、廃れない。 どころか、じわじわとネト充圏外へと侵攻し始めている気配すらある。それだけインターネットが一般的になったということだろう。それにしても、リアルで充実とはややこしい概念だと思う。何しろ現実を真摯に見つめれば見つめるほど、大抵、充実からは遠ざかってしまう。現実とは来、身も蓋もないものだ。だから、充実の多くは夢や幻想や妄想に担保される。コンパやサークルの虚構性など今さらいうまでもない。そこにある人間関係も性関係も、所詮は個々人が抱く幻想同士の部分的な重なりにすぎない。解り合うことはおろか、認め合うことすらほとんどできはしない。 金持ちになることにも、異性にモテることにも、長生きすることにも、教祖になることにもさしたる意味はない。すべては等しく無意味である。一方で、巨乳を見れば揉みしだきたい衝動に駆られ、木陰で放尿する幼女の姿に興奮する。満たされぬ欲望はどこ

  • 完璧主義という便利ないい訳|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    完璧というのは、そもそも「できる」人が目指すものだろう。 うまくできないことを理由にすぐに投げ出す。過去の自分や周囲の他人を顧みるに、そういうことは往々にしてある。人の絵を描くのに顔ばかり描いて投げ出してみたり、小説を書くのにプロローグばかり捏ね回した揚句に投げ出してみたり、とにかくやりきる前に理想通りにいかないといってやめてしまう。大抵の場合、いくら理想的なディテールを持った目を描けても人間は描けないままだし、いくら魅力的な冒頭の一文が捻り出せても小説は書けないままである。おそらく、これは順序がおかしいのである。ディテールの完成度なんて全体を仕上げられる人が考えることだろう。 もちろん、ディテールを積み上げて全体に至るという人もいる。たとえば、裸婦を描くときはアタリなど取らず乳首から完璧に仕上げていく…なんて芸当をやってのける。ただしこれは、全体に至るまで決して投げ出さないという人にだけ

  • 差別は自然な感情だからこそ|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    なくしたいなら教育や啓蒙によって差別心を矯正するしかない。 およそ素朴な差別心というのは「差異」に対する違和から発するんだろうと思う。侮蔑からくる差別も畏怖からくる差別も、ある域値を超えた「差異」からくるという点では変わらない。そして、その域値にはかなりの個人差がある。たとえば、限りなく域値が小さい人は、一般的な意味での差別は不可能である。何故なら、そもそもすべての人間に違和を感じるはずだからである。全員が差別対象ということになれば差別のしようがない。実は、この状態は域値が無限に大きいというのとほとんど同義である。そして、域値を大きくすることは、おそらく教育によって可能である。 域値をできる限り大きくしてやることで、否応なく差異を受け入れさせる。そう考えたとき、来あるべき「みんな」の差異を必要以上に平板化したり隠蔽したりすることは、明らかに逆効果である。当はまったく違うはずの「みんな」

    tsumoyun
    tsumoyun 2009/03/18
    “差別心を矯正するためには、すべての人間が無数のグラデーションの上に位置し、「みんな」などいないことを知るところから始めなければならない。”
  • 経済脳の恐怖 ~「ためにならない」行為とその意味|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    あなたのその行為にいったい何の意味があるのか? こうした問いは、ときにぼくを困惑させる。そもそも、ここでいう「意味」なんてものは、極めて限定的にしか存在しない。そのことに自覚的な問いはいい。戸惑わずにいられないのは、無自覚な問いが少なくないことだ。たとえば「ブログを書くことに何の意味があるのか?」という問いに一般的な意味で答えることはできない。「あなたにとって」という条件ならいくらでも適当に答えられるし、「社会にとって」というなら意味など求めていないと答える。或いは、「哲学的に」とかいう話なら意味なんてないと答えるしかない。ぼくが生きていること自体、意味なんてない。 この「意味」をやたら経済効率の文脈で問おうとする人がいる。これが結構、参る。いや、「効果を測るため」に経済の言葉を援用するのはいい。ある行為のコストとリターンを定義して、効果について考える。これは分かりやすい。ぼく自身、使うこ

  • 未婚率や離婚率の上昇は悲しむべきことか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    未婚や離婚が増えることを悲観する人がある。 ぼくにはそれがよく理解できない。ぼくたちの社会はあらゆる人間関係をパブリックとプライベートに分断し、プライベートから「感情」以外のものを不純物として排除してきた。もちろん、結婚も例外ではない。結婚というのは、元々社会が要請した非常にパブリックな制度である。それは感情のままに男女が交わったり別れたりすることを制限し、男女関係をシステムの下に縛り付ける役割を果たしてきた。けれども、先人たちはその「縛り」を是としなかった。「感情」の優先順位をあげるために社会の形を変え続けてきた。そして結婚は限りなくプライベートなものになった。 当然のことのように自由恋愛恋愛結婚こそが男女がツガう最上の方法となった。感情を蔑ろにするシステムは糾弾され改善が叫ばれた。男女間の画一的な役割分担が男女関係の自由を奪うとなれば、雇用機会の平等化などの改善が試みられた。いまだ問

  • 「ワーク・ライフ・バランス」に代わる指針|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    結論からいえば、生産と消費のバランスではないか、といまのところ思っている。 よりよく生きるための指針として、ワーク・ライフ・バランスということが一時期よくいわれた。けれども、ぼくにはどうもしっくりこなかった。そもそもワークとライフはそう単純な包含関係でも、対立概念でもない。日常生活に含まれるものは仕事以外にいくらでもある。確かに、多くの労働者にとって仕事人生の大半を占めるだろう。やりたくもない仕事に追われていると考える人は多いのかもしれない。およそ生きるためにやらざるを得ないことをやって人は生きている。が、だからといって仕事の時間を減らせばよりよく生きられるというのは、少し違うんじゃないかと思う。 そこで、人生におけるあらゆる行為を、仮に「生産行動」と「消費行動」に分けて考えてみる。決して「生産行動=ワーク」「消費行動=ライフ」ではない。いや、そう定義してもいいのだけれど、一般に誤解を生

  • 仕事を「えり好み」する失業者のいない世界は怖い|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    たとえば、失業者たちが体を張って仕事を「えり好み」しているという。 ・甘えるな!!元派遣社員…仕事えり好み、覚悟サッパリ:ZAKZAK ・怒るみの「なんでまず仕事しないのか」 「仕事ミスマッチ」応募サッパリ: 朝ズバッ! :J-CAST テレビウォッチ ぼくにそれができるか、といわれると無理かもしれないと思う。労働条件がどんなに悪くてもとにかく働き口を探さねば。そんな風に考えてしまいそうだ。これは素晴らしいことだろうか。否、だろう。そんなものを「覚悟」とは、たぶん、いわない。あえて酷いいい方をすれば、「いま貰えるもので我慢しよう」という至って消極的な態度にすぎない。背に腹は代えられない選択なんて、別に褒められたものではない。それでも失業者の「えり好み」が就業者に批難されるのは、「自分だって不満はあるけど我慢して働いてるんだ」という意識がどこかにあるからじゃないかと思う。 人口100人の世界

  • 向こうからやってくる嘲笑は避けられないが…|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    人を陥れ、嘲笑し、傷付けることが愉しいという人間は、たぶん、いるんだろう。 ・クリスマスイブ こういうことが平気でできる、或いは、わざわざ進んでやる人がいる。もちろん、匿名ダイアリーのそれが事実なのかネタなのかは分からない。が、そういうメンタリティの存在を否定する材料はない。もちろん、人を貶めて喜ぶような人間はそうしないと自己肯定もできないショボいやつなんだとかいったいい方は可能だろう。けれども、たとえ真実がそうであったとしても、件の匿名氏のような被害者が救われるわけではない。すでに固くなりつつあった殻は、いっそう固くなるだろう。将来、当の善意や好意に出会ったとき、もうそれを信じることはできないかもしれない。 虐げられ、卑屈になり、それで余計に蔑まれ、ますます人間不信になっていく。典型的な負のスパイラルである。そうやって、不幸になっていく人は、ややもすると「自ら不幸に突き進んでいる」よう

  • ロリコンを馬鹿にできる人の無邪気なメジャー信仰|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    男が成熟した女に欲情する。それはまったく自然なことではない。 自然なのは「欲情する」ことだけで、「成熟した女に」は実のところ学習の結果にすぎない。いい換えれば、人間は欲望の対象を能的に「正しく」選ぶことなんてできないのである。周囲に犬しかいない環境で育てば犬に欲情し、犬と山羊がいればその中からたまたま気に入った方に欲情する。木の枝に擦り付ける以外に快楽を知らなければ、形の良い木の枝に欲情する人間ができても不思議ではない。人間の性欲などそんなものだとぼくは思っている。つまり、異性に欲情するにはまず異性が性的なものとして確かに存在し、他の何よりも快楽を期待させる存在でなければならない。 昔は、女を抱く素晴らしさを喧伝する大人がいて、快楽を期待させる異性が周囲にごろごろ転がっていた。また、ひとりの人間の生活空間は今ほど隔絶されておらず、性的場面との接触可能性もずっと高かったろう。そして、向こう

  • あらゆる批判に予め勝つためのエントリーの書き方|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    簡単にいえば「自分の真意を語らない」、或いは、そのように振る舞うことである。 ある主題について、「自分の意見」ではなく「ひとつの考え方」を提示する。そういうキャラクターとして自らを認知させる。つまり、書き手の思考は書かれたものよりも遥か高みにあって、カウンター意見をも織り込み済みでやっているのだ、というメタ視点キャラを確立するのである。これは、批判者にとってはやり難いことこの上ない。そういう手法そのものを批判することはある程度有効だろうけれど、書かれた内容について突っ込むことはほとんど「ネタにマジレス」に近い。或いは、釈迦の掌の上の孫悟空状態だろうか。これほど書き手に有利なやり方はそうないと思う。 これに近い手法でエキサイティングな極論を繰り出す人気サイトのひとつが「分裂勘違い君劇場」だろう。そもそもぼくには難しくてよく分からないことも多いわけだけれど、ある種のフレームワークを提示し、寄せ

    tsumoyun
    tsumoyun 2008/12/09
    「分裂勘違い君劇場」について
  • 本当のことをいうと「告白」は邪道|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    別に、報われない努力をすることは悪いことではない。 ・非モテは行動力がないとよくいわれるので 少なくとも「努力しても無駄だから」と努力しないよりは、希望が叶う可能性は高まる。もちろん、希望が叶わないことを受け入れるなら、努力しないという選択肢もある。要するに、自分にとって努力に値する希望なり欲望かどうか、というだけの話だ。リンク先の人には異性と付き合いたいという欲望がある。だから、努力を始めた。極めて妥当な選択だと思う。あきらめるかどうかは、その欲望と努力を天秤にかけて、重い方の声に従って決めていくしかない。欲望が勝るうちは努力し続ける。努力抜きに手に入らないなら、それは支払わざるを得ないコストと割り切るよりないだろう。 そういう前提で話を進める。そして、いきなり要点からいこう。「告白」を「自分の気持ちを伝える」ために使ってはいけない。特定の誰かと付き合う。それは一般に結構なリスクを伴う。

  • 恋愛のきっかけにグダグダとこだわる不毛|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「特定の誰かが好き」ではなく「彼女が欲しい」と思うことはそんなに深刻なことか? ・彼女がいる人に質問です。 彼女が欲しいです。 彼女が欲しいが、作れない人が 足りないことは何でしょうか。 具体的、現実的に詳しくお願いします。 その回答を参考にすれ.. - 人力検索はてな ・「彼女がいない」より、「惚れない」ことのほうが深刻なのでは? - シロクマの屑籠(汎適所属) そんなもの今も昔も普通に決まっている。若者が持て余すものといえば、性欲に承認欲求と相場は決まっている。彼女が欲しいというのは、単にそれら二大欲求をまとめて満たしたいというだけのことだ。眠いときに寝たいと思うくらい自然な話である。しかも、この場合の承認は彼女からのみならず、世間からの承認まで期待できる。独りでモンモンとしている人間にとって、二人称の承認と三人称の承認の同時獲得は、最大の心の健康ともいうべき一人称の承認、つまり自己肯

  • 仕事は何のためにするべきか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    今の日で生きるためにはお金が要る。 これはたぶん変えられない。たとえ先祖代々の土地があっても、自給自足はできないようになっている。行政サービスを受けないという選択肢がないのだからしようがない。納税は国民の義務だという。つまり、日に生きているというだけでお金がかかる。川で水を汲み、かまどで火を熾し、家庭菜園の作物だけをべる。そもそも、そんな生活を試みたところで、広大な山林でも持たない限り、お金を使わずには薪一手に入れることも難しい。きっと、菜園の維持にもお金はかかる。来、水汲みも薪割りも耕作も立派な仕事だ。けれども、それで自足することは許されない。 そこで、お金を貰える仕事をしようということになる。この場合、仕事の目的はお金である。それも、生きるためのお金、だ。ここまでなら、生きることと仕事をすることはほとんどイクォールに近い。ここでよく出てくるのが「オレは何のタメに生きているのか

  • 処女萌えが嫌われるのは妄想度が低いせいである|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    まず前提として、処女萌えを嫌うのはただ好みの問題にすぎない。 ・★ 電脳ポトラッチ: 処女萌えを嫌悪するのは処女である 処女信仰をジェンダーの問題とする議論は可能だろうけれど、ここでは単に恋愛対象としての処女萌えに限った話をする。リンク先にも書かれている通り、多くの処女萌えは妄想の産物である。特に童貞のオタクにとって処女は妄想を育てやすい属性なんだろう。一方で、非童貞のモテが処女を喜ぶのは、稀少性や自己顕示欲によるところが大きいように思う。程度の差はあれ、脱がせてみたら巨乳だった、というのと同じである。これらに対する典型的な批判としては、リンク先にもあるように、前者には「妄想の気持ち悪さ」、前後者に共通して「属性で選別する非礼」がある。 まず、オタクの処女妄想が気持ち悪いというのは文字通り好悪の問題である。エロゲやらエロ漫画やらの影響が色濃いとなればなおさらだ。個人の欲望に基づく妄想みたい

  • 自己責任という名の利己的な楽観主義|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    自己責任ほど肥大した自己を感じる言葉はない。 自分が被った不利益の責任は自分にある。何という思い上がりだろう。人はそんなことがいえるほどに全能ではない。無力である。自分が被った不利益の“一因”は自分に“も”ある。いえても、せいぜいその程度だ。そして、「原因」は「責任」とイクォールで括れるようなものではない。自己責任なんていう人は、自分が失敗さえしなければ不利益を被ることはないとでも思っているのだろう。心配は要らない。不幸はちゃんと理不尽にやってくる。要するに、あなたがまだレイプされていないのは単に運が良かったからにすぎない。別にあなたがしっかりしているお陰じゃない。 もちろん、「原因」を減らす努力はした方がいい。不幸な事件から教訓を読み取ることも有用だろう。それは自己責任論とは別の話である。何故なら、あらゆる不幸を想定してその原因を取り除くことはできないからだ。逆にいえば、どんな不幸も原因

  • 社会に出る前に捨てておくべき3つの財産|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    大上段からものがいいたくなったので勢いで書く。 1.価値観を捨てる 社会に出るくらいの歳になれば、各自色々な価値観を持って生きていると思う。まずはここから捨てていく。大抵の価値観は「自然と」身に付いたものだろう。だからこそ、一度、意識的に捨てた方がいい。自然と身に付いたということは、考えて身に付けたわけじゃないということだからだ。命は大切とか、暴力はイケナイとか、子供は社会の財産とか、お金はないよりある方がいいとか、結婚して家庭を持つのが幸せとか、学校の勉強は社会で役に立たないとか、モテる人間は勝ち組とか、とにかくどんな価値観でも自分で検証した記憶のないものは一旦捨ててみる。 何しろ、自然と身に付いた価値観のほとんどは他人の価値観だ。自分なりの幸せをつかみたいなら、他人の価値観を規範に生きるというのは非合理的だろう。もちろん、一旦捨てた価値観をもう一度自分の意思で拾い上げるのは構わない。そ