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ライフハックと内田樹に関するtsuneaki02のブックマーク (39)

  • 内田樹 on Twitter: "@_lumineux_ ご質問承りました。僕の基本方針は「こちらの生きる力を損なうもの」からは「即、全速力で逃げる」です。何が「生きる力を損なうもの」で、何が「生きる力を高めるもの」かの判断は頭にはできません。身体に訊きます。"

  • バリ島すちゃらか日記 - 内田樹の研究室

    2月17日 久しぶりの休日は、一年ぶりのバリ島バカンス。 ほんとうに休みなく働いている。まさか退職した後にこれほど忙しくなるとは思っていなかった。 4月から「毎日が夏休み」になるかと思っていた。 実際には「毎日が月曜日」という悲惨な暮らしがそれから始まった。 退職したら、半年ほどは完全休養して、旅行にいったり、ふらりと温泉に逗留したり、映画を観たり、レヴィナス論を書き継いだり、カミュの「反抗的人間」の翻訳をしたり、多田先生のイタリアの講習会に行ったりして幸福な人生を過ごす予定だった。 そんなことを夢見て、大学での最後の数年を歯をい縛って耐えたのである。 でも、夢見たことはひとつも、ひとつも実現しなかった。 結局一年間ひたすらディスプレイに向かって締め切りに追われて原稿を書き、講演をし、取材を受け、対談をし、ゲラを直し、「残念ながら、もう新規の仕事を容れる余裕はありません。貴意に添えず申し

    tsuneaki02
    tsuneaki02 2012/07/12
    「こちらからの質問に対してかならず誠意ある応答がある」「『[…]、情報や情報評価[…](が)信頼できる』[…]人がさまざまな分野に[…]150人いれば、私たちの世界認識はかなり精度の高いものになるだろう。」
  • 日本のメディアの病について - 内田樹の研究室

    フランスの雑誌 Zoom Japon から「日のメディアについて」寄稿を求められた。 フランス人に日のメディアの劣化の病態とその由来について説明する仕事である。 どんなふうに語ったらよいのか考えた。 とりあえず人間の成熟とメディアの成熟は相同的であるということで説明を試みた。 こんなふうな言葉づかいで日のメディアについて語る人はあまりいないが、それは「外国人に説明する」という要請を私たちがものを書くときにほとんど配慮することがないからである。 いつもそうである必要はないが、ほんとうに死活的に重要な論件については、自分の書いたことが外国語に訳されて、異国の人々に読まれたときにもリーダブルであるかどうかを自己点検することが必要だと私は思う。 ではどぞ。 2011年3月11日の東日大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故は私たちの国の中枢的な社会システムが想像以上に劣化していることを

    tsuneaki02
    tsuneaki02 2012/06/14
    (日本)「[…]のメディア[…]は[…]想定外[…]に対応する力を毀損[…]」(されている。なぜなら、関与と非関与とに、分業され過ぎている為、)「[…]観察し、分析し、対処を論ずる道すじを自分で塞いで[…]いる」(から)
  • ツイッターとブログの違いについて - 内田樹の研究室

    『街場の読書論』というを書き上げた。 ブログコンピなので、ゲラをいただいたのは一年近く前なのだが、他の仕事が立て込んでいて、手が回らなかったのである。 ブログのコンピというのは、他にあまりなさっている方がいないようだが、私は「よいもの」だと思う。 書いているときに「これはいずれ単行に採録されるかもしれない」と考えている。 だから、そのときになってあわてないように、引用出典とかデータの数値とはについては正確を期している。 ブログ上で他の方の著書から引用するときに、発行年や頁数まで明記する人はあまりいないが、こういう書誌情報は「あとになって」調べようとすると、たいへんに時間がかかるものである。 ほんとに。 それにそうしておくと、ブログが「ノート代わり」に使える。 ブログには検索機能がついているので、キーワードを打ち込むと、そのトピックについて私が書いたことがずらずらと出てくる。 その中

  • 情報リテラシーについて - 内田樹の研究室

    朝日新聞の「紙面批評」に書いたものを再録する。 長すぎたので、紙では数行削られているが、これがオリジナル。 「情報格差社会」 情報格差が拡大している。一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」階層がおり、他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」階層がいる。その格差は急速に拡大しつつあり、悪くするとある種の「情報の無政府状態」が出現しかねないという予感がする。このような事態が出来した理由について考えたい。 少し前まで、朝日、読売、毎日などの全国紙が総計数千万人の読者を誇っていた時代、情報資源の分配は「一億総中流」的であった。市民たちは右から左までのいずれかの全国紙の社説に自分の意見に近い言説を見いだすことができた。国民の過半が「なんとか折り合いのつく範囲」のオピニオンのうちに収まっていたのである。これは世界史的に見ても、かなり希有な事例ではないかと思う。 欧

    tsuneaki02
    tsuneaki02 2011/10/08
    情報リテラシーが相対的に低い者に因る権利の濫用や放棄の発生は、社会不安と相関する波があります。但し、今回違うのは、マスコミが情報と既成品的世論を配給する事に因るリテラシー高低差緩和効果が弱い事です。
  • 人間が人間であるための神について - 内田樹の研究室

    前に「辺境ラジオ」で名越康文先生と西靖さんとおしゃべりしたときに、「うめきた大仏」の話が出た。 これは海野つなみさん(このペンネーム、今はちょっと口に出しにくいですね)というマンガ家さんが投稿してくれたものである。 大阪駅の北ヤード開発はずいぶん前から衆知を集めて議論されていたのだが、いまだに話がまとまらないようである。 昨日もある雑誌から「北ヤードの再開発について」、三菱地所の役員ふたりと鼎談して欲しいというご提案を頂いた。 もちろん私が「うめきた大仏」構想の推進者であるということなどご存じないままに出た案であろうから、「私の話を聞いたら、不動産会社の役員さんたちは激怒されることでしょう」とお断りした。 「激怒」くらいで済めばいいが、そのせいで「誰だ、ウチダなんて野郎を連れてきたのは!」と上司に叱責されて起案した担当編集者が進退伺いとか減俸処分とかいうことになっては気の毒である。 でも、

  • 原発供養 - 内田樹の研究室

    昨日の話の続き。 それぞれの社会集団は、「恐るべきもの」と折り合うために、それぞれ固有の「霊的作法」を持っているという話だった。 日人は外来のものを排除せず、それを受け容れ、「アマルガム」を作る。 ユーラシア大陸の東端にあり、これから先はない、という辺境民が採用したのは、いわば、「ピジン型」の文明摂取方法だった。 これはヨーロッパの辺境、アイルランドの文明史的地位と構造的に似ている。 聖パトリキウスはケルトやドルイドの土着の神々たちとのまじわりの中でキリスト教を布教した。 そのときに土着の神々を「根絶」するというユダヤの神の苛烈さを避け、地祇たちを生き残らせた。 それがアイルランドに今も生き残る「妖精たち」である。 前に中沢新一さんとおしゃべりしたときに、『伊勢物語』に出てくる「在原業平」というのは固有名詞ではなく、ある種の「集団」ではなかったのか、という話になったことがある。 彼らは「

  • 荒ぶる神の鎮め方 - 内田樹の研究室

    秋葉原のリナックス・カフェで、ラジオカフェの収録。今回はustで画像放映。 平川くん、中沢新一さんと、「カタストロフの後、日をどう復興するか」について、語り合う。 その中で、中沢さんが「第七次エネルギー革命」で人類ははじめて、生態系に存在しないエネルギーを、いわば「神の火」を扱うようになった、という話を切り出した。 そのときmonotheisticとい単語が出て来た。 原子力テクノロジーというのは、いわば「荒ぶる神」をどう祀るかという問題である。 そうである以上、それぞれの社会の「神霊的」なもののとらえ方をストレートに繋がるのではないか。 という話を中沢さんから聞いているうちに、いろいろなことが「がちゃがちゃ」っとつながった。 数千年前、中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるか

  • リスクヘッジについて - 内田樹の研究室

    「疎開」について書いたのはもう2週間以上前のことだ。 そのときにいずれ政府や地方自治体が主導するかたちで組織的な疎開が進むだろうと書いた。 でも、そうなっていない。 枝野官房長官は18日の段階で記者会見でこう語っている。 「集団疎開の問題が県知事レベルで出てきている。疎開という言い方が正しいのかはわからないが、妊婦や高齢者など災害弱者とも言うべき人たちがいて、その人たちが当面の生活をおくるために、全国各地の人に協力してもらうということは具体的に考え始めているところ。」 この段階としては適切な発言だったと私は思うが、このあと、集団的な疎開についての積極的な提言があったことを知らない。 同じ頃、私のところへ「疎開論を撤回せよ」という声が集中的に寄せられた。 理由は「首都圏からの疎開」が大規模に実施されると、ただでさえ低迷している消費活動が鈍化し、日経済に悪い影響を与えるからだという。 なるほ

  • 兵站と局所合理性について - 内田樹の研究室

    兵站についてツイッターに昨日少し思うことを書いた。 まず、それを再録しておく。 昨日言い忘れたことのひとつを思い出しました。logistics のこと。兵站学。義は「輸送、宿営、糧、武器、人馬の補給管理、傷病者の処置などに関する軍事科学の一分野」。日陸軍は伝統的に兵站を軽視したことで知られています。 司馬遼太郎が書いていましたが、日露戦争のとき、兵士は数日分の糧しか持たされず前線へ送られたそうです。「あとは現地で調達(強奪)せよ」ということです。伝統的に日陸軍はそうだった。 今回の震災の危機管理を見て、「これは日陸軍だ」と思いました。 「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」という戯れ歌のうちに大日帝国戦争指導部の兵站軽視は反映していますが、同じことが今も続いている。前線の「兵士」の活躍は大きく報じるけれど、それを支える兵站の仕事を高く評価する習慣はない。だから、みんな

  • 特殊な能力について - 内田樹の研究室

    京大の仏文の吉川一義先生にお招きいただいて、京大で講演をする。 吉川先生は東京都立大時代の同僚である。 同僚といっても、こちらは「お茶くみ、コピー取り」の助手であり、先生はプルースト研究者としてすでに一家をなしていたわけで、同列には論じがたいのであるが、まことにフレンドリーな先輩で、ご一緒したのは先生が東京女子大から赴任され、私が神戸女学院大学に去るまでの、二年間だけだったが、たいへん愉快な時間をともに過ごさせていただいた。 先生はフランス文学研究者としては例外的に「社会的常識のある方」である(という書き方をして仏文学者二千人をいきなり怒らせるというあたりに私の「社会的常識のなさ」は露呈しているので、そんな人間から「社会的常識のある方」と言われても「ウチダさんのその判断の蓋然性は誰が担保するのさ」と吉川先生は曇った顔をされるであろうが)。 世界的なレベルの学者でありながら、温厚で配慮の行き

  • Amazon.co.jp: 日本辺境論 (新潮新書 336): 内田樹: 本

    Amazon.co.jp: 日本辺境論 (新潮新書 336): 内田樹: 本
  • 才能の枯渇について - 内田樹の研究室

    クリエイティヴ・ライティングの今年最後の授業で、「才能」について考える。 天賦の才能というものがある。 自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」が人間にはある。 「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。 外部からの贈り物である。 私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。 才能は「贈り物」である。 外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。 それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。 どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。 私はそのように考えている。 才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。 私がこれまで見聞きしてきた限りのこ

  • 毎日新聞心のページ - 内田樹の研究室

    今日の毎日新聞心のページにレヴィナスについてのインタビューが載りました。 毎日新聞お読みでないかたのために、転載しておきます。 -レヴィナスとの出会いを。 三十数年前に修士論文を書いている時、参考文献として読み始めました。でも、何が言いたいのか、当時の私の知的な枠組みではまったく理解できなかった。でも、私が成長するために学ばなければならないたいせつなことを述べていることは直感的にわかった。レヴィナスが理解できるような人間になる、それがそれから後の私の目標になりました。 -レヴィナスから見たユダヤ教とは。 第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、レヴィナスは不思議な護教論を説いたのです。 「人間が人間に対して

  • ラジオで国会中継を聴く - 内田樹の研究室

    北朝鮮の砲撃問題のときの政府の初動対応の「鈍さ」が国会できびしく批判された。 昨日ちょうど、このやりとりをしているときNHKラジオで国会中継を聴いていた。 ラジオの国会中継がこんなに面白いものだとは思わなかった(テレビの中継の50倍くらい面白い)。 だって、テロップが出ないから。 質問のあと、答弁に立った閣僚が返答に窮して「・・・・」と無言でいると、空白の時間が流れる。 ほとんど「放送事故」である。 大臣も何か言わないといけないから、必死になって「答弁らしきもの」を口にするのだが、何も思いつかないと、ある段階からは「自動筆記」状態になる。 菅首相の答弁もとんちんかんな自己弁護に終始していたし、国家公安委員長や文科大臣の答弁に至っては、自分が何を言っているのかわかっていないほど、しどろもどろのものであった。 ラジオを聴きながら「困ったものだ」と思った。 国会の予算委員会審議は東アジアの軍事的

  • 自立と予祝について - 内田樹の研究室

    『ひとりでは生きられないのも芸のうち』が文春文庫になる。 鹿島茂先生がステキな(ほんとうにステキな)解説を書いてくれた。 私も文庫版のために「あとがき」を書き足した。 そのなかに「贈与」について書いたので、その部分だけここに抜き書きしておくことにする。 「贈与」というのは「コンテンツ」の問題ではなく、「構え」の問題だということ、程度の問題ではなく、原理の問題だということ。 それについて書いた。 このの最後に収められた「あなたなしでは生きてゆけない」という短文は「連帯を通じて自立する」ための逆説的な理路について書いています。 自立は「その人なしでは生きてゆけない人」の数を増やすことによって達成される。僕はそう書きました。 「その人なしでは生きてゆけない人」に対して、僕たちは必ずや「あなたにはこれからもずっとずっと健康で幸福でいてもらいたい」と祈ります。 その予祝の言葉に対しては必ず同じく祝

  • スーパークールな一夕

    新型インフルエンザ・リスクコミュニケーション・ワークショップというところのシンポジウムにお呼ばれして、感染症の専門のドクターの方たちと「リスク・コミュニケーション」についてセッション。ご一緒したのは、神戸大学の大路剛、国立感染症研究所の具芳明、神戸医療センター中央市民病院の林三千雄、神戸保健所の白井千香、近畿医療福祉大学の勝田吉彰、司会は神戸大学医学部の岩田健太郎の諸先生がた。いや、驚きましたね。みんな「話が早い」ので。かなりの早口で、かつ理路がはっきりしている。「なんだかよくわからないことをごにょごにょ言う」という態度がほとんど生理的に忌避されている。岩田先生は去年の8月に医学書院の仕事ではじめてお会いして、それからパートナーの土井朝子先生ともども何度かご一緒している。「私が会った中でいちばん頭の回転の速い人」のひとりである(横にいて息を潜めていると「クイ~ン」と頭の中で何かが高速回転し

  • 縮み行く世界

    スーさんのツイッターにサンケイのネットニュースのことが書いてあった。そういえば、その件についての電話取材を受けた。別にコメントすることはなく、言うべきことはブログに書いた通りなので、ネット上に発表したことを引用されるのはご自由に、とお答えしたら、こんな記事になっていた。 仏文学者の内田樹さん「スト」宣言に賛否 売れっ子新刊ラッシュに待った 「日辺境論」などのベストセラーで知られる仏文学者で神戸女学院大教授の内田樹(たつる)さんが、ブログ上で一部の自著の刊行にストップをかけることを宣言し、波紋が広がっている。旬の書き手に群がり、出版点数を増やす「バブル」を生み出しては、すぐにはじける。出版界のそんな“悪弊”を批判する行動だが、書き手たちの賛否は割れている。(海老沢類) 発端は大手書店の店長が書いた8月12日付のブログだ。「伝える力」が100万部を突破したジャーナリスト、池上彰さんらの「バブ

  • 池谷裕二さんの講演を聴く - 内田樹の研究室

    池谷裕二さんが中之島の朝日カルチャーセンターで講演をすることになったので、ご挨拶にお伺いする。 池谷さんは講演ということをされないのだが、どういうわけか去年の11月にここで私と対談をしたときに、モリモトさんに籠絡されて、また講演をすることになってしまったのである。 ふだんは郷の薬学部の奥まった研究室にこもって、世間に顔を出さない池谷さんを「なま」で見られる機会を得たことを私どもはモリモトくんに感謝せねばならぬ。 例によってものすごいハイスピードで、最新の脳科学の驚くべき知見を乱れ打ち的にご紹介いただく。 面白かったのは、「トム・クルーズ」ニューロンと「ハル・ベリー」ニューロンの話だったけれど、それは面白すぎるので、また今度。 忘れないうちにメモしておこうと思ったのは、スワヒリ語40単語を覚えるプログラムの話。 それをご紹介しよう。 スワヒリ語の単語40語を学習して、それから覚えたかどうか

  • 論争について - 内田樹の研究室

    ある月刊誌から上野千鶴子と対談して、「おひとりさま」問題について議論してくださいというご依頼があった。 上野さんと対談してくれという依頼はこれまでも何度もあった。 どれもお断りした。 繰り返し書いているように、私は論争というものを好まないからである。 論争というのはそこに加わる人に論敵を「最低の鞍部」で超えることを戦術上要求する。 それは「脊髄反射的」な攻撃性を備えた人間にとってはそれほどむずかしいことではない。 あらゆる論件についてほれぼれするほどスマートに論敵を「超えて」しまう種類の知的能力というものを備えている人は現にいる(村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』でそのような人物の容貌を活写したことがある)。 それは速く走れるとか高く飛び上がれるとかいうのと同じように、例外的な才能である。 でも、そのような才能を評価する習慣を私はずいぶん前に捨てた。 そのような能力はその素質に恵まれた人自