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2017年1月2日のブックマーク (6件)

  • トップ | Old Japanese Photographs in Bakumatsu-Meiji Period

    MENU 長崎大学附属図書館 > 資料をさがす > 電子化コレクション > 上野彦馬コレクション 長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日古写真コレクション」の データベースです。

  • 2016年写真総括 - あたし、めりーさん。今、あなたが心の中にいるわ。

    個人的には今年は不作の年だったなぁ(特に後半)という感じなのだが、たぶん家の中での撮影が増えたせい。あと腕折ったりしたので重いカメラを持ち出せなかったりとか。でも毎年恒例なのでやります。ことしはトップ5とその他で。 過去のはこちら 2015年 2014年 2013年 2012年 2011年 2010年 1位: NikonD750, Nikkor50mm f1.4。 個人的にも思い入れが深いし、500pxではじめて90plusした一枚でもある。 2位 六義園の梅。Nikon U引退前の最後の稼働である(別にまだ使えるのだが)。レンズはSigma105mm。TMax100らしいコントラストなのだが、正直こんなにいい写りになるとは思っていなかった。時々そういうことがある。 特にストーリー性はないが、最新レンズとフィルムを組み合わせて使うとやばいぞと気づいた記念碑的な一枚である。 3位 珍しいNi

    2016年写真総括 - あたし、めりーさん。今、あなたが心の中にいるわ。
  • 決定版(?)ニコンFマウント解説 (By キンタロウ)

    昭和34(1959)年6月、Nikon Fから始まった「Fマウント」。60年超もの歴史を持つ「不変のFマウント」とはいえ、技術の進展に伴い細かな変更がなされています。 しかし露出計連動爪、露出計連動レバー、開放F値連動レバーとか、Ai-SやCPU連動、Gタイプ。。。など多数の用語や構造・構成について全体を一望できるサイトがないようでしたので、ここでまとめてみることにしました。 Fマウントの設計者が現在のようなデジタル一眼レフ時代まで予測していたとは考え難いですが、改めて見ると60年超もの間Fマウント(の基構造)を変更せずにここまで数々の機能を追加できたことは正に驚異であると思います。 その一方、あまりにもレンズ・ボディのバリエーションがあり過ぎて、物理的に装着できない組み合わせや装着できても機能制限があるものなど混乱の極みとなっているようです。 例えば旧来のオールドニッコール(非Ai)の

    決定版(?)ニコンFマウント解説 (By キンタロウ)
    tvsk
    tvsk 2017/01/02
    ニコンFマウント機構図説. 50年以上の歴史があるが複雑..
  • 画像センサー(CCD・CMOS)の大きさ比較

    正直言えば、何番煎じだよという感じのネタですがデジカメで使われている、CCDやCMOSの大きさを比較してみました デジカメのセンサーは、大きいほど、高画質にしやすいという特徴があります 詳しい理由は 画素数=画質? 素子サイズと画質の関係 あたりを、読んでいただけると助かりますが、軽く説明すると、同世代の素子であれば素子サイズが大きい素子は小さい素子に比べ、同じ画素数(解像力)であれば、低ノイズで高感度の画質がよくしやすく、同じ画素ピッチ(ノイズに影響)であれば、画素数が多く解像力が高くなります 自分でステータスを割り振ることの出来るゲームをやってる人ならば、割り振れる数字が多いキャラクターが大きい素子、割り振れる数字が小さいキャラクターが小さい素子ってイメージでもいいでしょう(素子の大きさは、ちょうどキャラクターのレベルみたいな感じでしょうか) もちろん、センサーサイズだけですべてが決ま

  • http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter2/pdf/n2_s2_2.pdf

    tvsk
    tvsk 2017/01/02
    明治時代中国からの留学生
  • 小川一真 - Wikipedia

    小川 一眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま、万延元年8月15日(1860年9月29日) - 昭和4年(1929年)9月6日[2])は、日の写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日の写真文化の発展に影響を与えた。写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(1869-1951)は実弟。 略歴[編集] 万延元年(1860年)、武蔵国埼玉郡忍藩(現・埼玉県行田市)に生まれる[2]。忍藩培根堂で学んだのち[3]、明治6年(1873年)に旧藩主松平忠敬から学費の支給を受けて、有馬頼咸が開設した東京の報国学舎(有馬学校)へ入学し土木工学を学んだ[2][3][4]。一眞は同校在学中に写真術に興味を持ったという[2]。明治8年(1875年)に同校を卒業して帰郷し、熊谷の写真師吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学び、上州富岡町で自身の写真館を開いた[3]。同地

    小川一真 - Wikipedia
    tvsk
    tvsk 2017/01/02
    日本を代表する写真師. 帝室博物館の貢献者で全国行脚して収集候補品の目録作成に従事する. 漱石の写真を撮った人