阪神教育闘争が起こったのは1948年4月24日です。 戦後、つまり在日朝鮮人にとっての解放後、「金のあるものは金で、力のあるものは力で、知恵のあるものは知恵で」を合言葉に、在日朝鮮人の手によって日本国内に数多くの民族学校が生まれました。阪神教育闘争の起こった1948年4月には全国で556校もあったそうです。 それらの学校は解放後すぐに祖国へ帰国しようとした若者たちが、自分たちが母国語を話せないことに愕然としたことに端を発したと言われています。在日朝鮮人はそれまで日本の同化政策によって、名前を奪われ、言葉を奪われてきました。解放を迎え、若者が自分の民族性を回復したいと切望したのは、自然な欲求でした。また子どもを「日本人」として育てざるを得なかった在日一世たちが、自分の子どもたちに民族性を取り戻して欲しいと願うことも。民族教育が爆発的に全国に拡がったのは、あまりにも当然でした。 そういう感情は