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長崎と原爆に関するusataroのブックマーク (10)

  • 核廃絶の「当事者」は自分たち 原爆75年、長崎で式典:朝日新聞デジタル

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    核廃絶の「当事者」は自分たち 原爆75年、長崎で式典:朝日新聞デジタル
    usataro
    usataro 2020/08/09
    以前はタカ派だからだと思っていたんだけれど、最近のポンコツぷりをみるに無能だからどうしていいかわからないし国際外交を見据えた政治的な判断能力もないんだなと思うようになった。
  • シゲちゃん 長崎原爆72年(1)あの日の恩人どこに - 西日本新聞

    長崎原爆の爆心地から南東700メートルにあり、入院患者50人以上が亡くなった長崎医大付属病院。2人は病棟の屋上で爆弾の破片探しに興じていた(米軍撮影、長崎原爆資料館所蔵) 写真を見る 命の恩人の「シゲちゃん」に会いたいと願う被爆者の池田道明さん 写真を見る 恩人のシゲちゃんに助けられ、戦後の小学校に通ったころの池田道明さん(中央) 写真を見る 写真を見る ミッちゃんとシゲちゃんは、一緒にエレベーターに乗り込んだ。1階に着き、扉が開く。1945年8月9日午前11時2分。一歩踏み出した瞬間、まぶしい光とともに爆風に吹き飛ばされた。  その日、長崎医大付属病院外科病棟の屋上は、焼け付くような暑さだった。6歳の少年2人は空襲の爆弾の破片を探して遊んでいた。午前11時ごろ、「あった! こいは太かばい」。自慢げなシゲちゃんだったが、すぐに「便所に行きとうなったけん下に降りよう」とミッちゃんに駆け寄った

    シゲちゃん 長崎原爆72年(1)あの日の恩人どこに - 西日本新聞
    usataro
    usataro 2017/08/16
    幼い頃の命の恩人「シゲちゃん」のその後を追ったていねいな取材。原爆が少年の人生を大きく変えてしまったこと、それでも戦後の社会を生き抜いたこと。戦後70年を超えた今だからこそできる記事。
  • 被爆者講話 校長が遮る - NHK長崎県のニュース

    未登録の場合は「登録」ボタンをクリックします。 登録したい都道府県を地図から選択します。 確認ボタンをクリックすると登録が完了します。 ※登録した都道府県を変更するには「変更」ボタンをクリックします。 去年7月、島原市の中学校で行われた平和学習の中で、被爆体験を語った被爆者が日戦争責任や、東京電力・福島第一原子力発電所の事故について触れたところ、校長がやめるように求めていたことが分かりました。 これは、31日、長崎市の被爆者、末永浩さんが(79)記者会見して明らかにしました。 それによりますと、末永さんは、去年7月1日、島原市の中学校で行われた平和学習で、全校生徒およそ340人に対し、原爆投下直後に親せきなどの安否を確かめようと長崎の爆心地近くに入って被爆した自身の体験について話したということです。 そのあと、中国韓国の博物館が旧日軍による侵略に関するものとして展示している写

    被爆者講話 校長が遮る - NHK長崎県のニュース
    usataro
    usataro 2015/08/02
    学校外の人間の講話すら遮ってしまうのは多様性の否定。ネトウヨはとにかく「正しさ」を教え込みたい欲望が丸出し。/もともと長崎なんてどうしょうもないくらい保守的風土。それも長崎じゃなく島原だからなあ。
  • 東京新聞:核不使用声明 日本賛同せず 「なぜだ」鬼気迫る市長:社会(TOKYO Web)

    「長崎平和宣言」を読み上げる田上富久長崎市長=9日午前11時7分、長崎市の平和公園で(内山田正夫撮影) 首相の目の前で、痛烈な政府批判を展開した。九日の長崎市の平和祈念式典で田上市長は、「核兵器の非人道性に関する共同声明」への不賛同やインドとの原子力協定を挙げ、国への疑念を表明。心中にはスイスで感じた政府へのいら立ちがあった。

    usataro
    usataro 2013/08/09
    「それは違う。いかなる状況でも核兵器を使用しないことが人類の利益であることは、被爆地としては当然だ。説明は納得できない」
  • asahi.com(朝日新聞社):英BBCお笑い番組、二重被爆者を「世界一運が悪い男」 - 国際

    【ロンドン=伊東和貴】広島と長崎で二重被爆し、昨年93歳で亡くなった山口彊(つとむ)さんについて、英BBCが昨年12月に放映したテレビのお笑いクイズ番組で、「世界一運が悪い男」などと紹介していたことが20日、分かった。在英日大使館はBBC側に書面で抗議し、番組プロデューサーは謝罪した。  問題となったのは、昨年12月17日に放映された人気の番組「QI」。司会者が、長崎出身の山口さんが広島に出張して原爆で大やけどを負った後に鉄道で長崎に戻ったことに触れ、「英国なら電車は止まっている」と英鉄道の不備を自虐的にとらえる内容だった。だが、ゲストのコメディアンが「長崎で入院したのか」とつっこむと、スタジオから笑いが漏れる一幕があった。  さらに、司会者が「山口さんが長崎に戻ると、また原爆が投下された」と述べると、観衆は爆笑。司会者は「二重被爆をして生き残ったのは、最も幸運か最も不運か」などと締めく

    usataro
    usataro 2011/01/22
    「日本人の強さを真に称賛している」そこじゃないだろ。プロデューサーの手紙がどういう内容だったかわからないが、やっぱり原爆のことをほとんど知らないんだろうな。
  • asahi.com(朝日新聞社):米国ルース駐日大使、長崎を訪問 原爆落下中心碑に献花 - 社会

    原爆落下中心地を訪問し、スーザン夫人とともに献花するルース駐日米国大使=26日午後、長崎市松山町、森下東樹撮影  米国のルース駐日大使が26日、被爆地の長崎市を初めて訪問した。長崎原爆資料館を見学した後、「深く心を打たれた。核兵器なき世界の平和と安全を求め、すべての国と共に働くというオバマ大統領の決意の重要性を、さらに強く認識させてくれた」というコメントを読み上げ、原爆落下中心碑に献花した。  また、土山秀夫・元長崎大学長や朝長万左男・長崎原爆病院長とも懇談した。原爆投下直後の土山さんの救護体験や、オバマ大統領の長崎訪問を求める署名活動などについて熱心に耳を傾けていたという。田上富久市長もオバマ大統領の長崎訪問を要請した。  ルース大使は今年8月6日に開かれた広島市の平和記念式に米国代表として初めて参列した。長崎市の8月9日の平和祈念式典は「スケジュール上の都合」を理由に参列しなかったが、

  • asahi.com:旧天主堂の痛み 銀座へ-マイタウン長崎

  • asahi.com(朝日新聞社):国連総長「核ノーモア、訴えよう」 長崎で市民に訴え - 社会

    広島は6日、原爆投下から65年の「原爆の日」を迎える。広島市中区の平和記念公園で午前8時から原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(平和記念式)が始まる。  今年の式には、原爆を投下した米国の代表として初めてルース駐日大使が参列。核保有国の英仏両国の臨時代理大使と、潘基文(パン・ギムン)・国連事務総長もそれぞれ初参列する予定で、節目の式となる。ロシアも参列予定で、核保有5カ国のうち中国をのぞく4カ国がそろう。全体の参加国は過去最多の74カ国にのぼる。  米英仏の出席には、昨年4月のプラハ演説で「核なき世界」をめざすと表明したオバマ米大統領の新たな核政策が影響したとみられている。  また、藤村修外務副大臣は5日の記者会見で、岡田克也外相が6日の広島平和記念式に出席すると発表した。外務省によると、外相の記念式参加は初めてという。  5日、国連事務総長として初めて長崎市を訪れた潘氏は演説後に浦上天主堂

    usataro
    usataro 2010/08/06
    「潘氏は演説後に浦上天主堂を訪問」
  • ヒロシマとナガサキ、二度の被爆を生きのびた人たち  (あすなろ書房 百名 朝彦) | 版元ドットコム

    日は最近刊行した書籍「キノコ雲に追われて」の話をしたいと思います。 皆さんは、「二重被爆者」という言葉を耳にしたことがありますか。二重被爆者とは、1945年8月6日に広島で被爆し、8月9日に移動した長崎でまた被爆してしまった方々のことです。彼らの存在は、戦後65年間、ほとんど歴史の中に埋もれていました。 書「キノコ雲に追われて」は、終戦から10年後、アメリカ人ジャーナリスト、ロバート・トランブルが、9人の二重被爆者を探しだし取材したことやインタビュウしたことをまとめたものです。アメリカで1957年に出版されていたのですが、日では刊行されていなかったのです。このたび、半世紀後ですが小社より刊行いたしました。 著者は、1954年から61年、そして1964年から68年の二度に渡り、ニューヨーク・タイムズ東京支局長を務めるかたわら、1955年から「二重被爆者」の取材をはじめ、2年をかけて執筆

    usataro
    usataro 2010/08/05
    西岡竹次郎(西岡武夫参院議長の父)は二重被爆者だったのか。知らなかった。
  • asahi.com(朝日新聞社):二重被爆者の山口彊さん死去 長崎、93歳 - 社会

    二重被爆の体験を語る山口彊さん=2009年6月、長崎市  広島、長崎両市で二度にわたって直接被爆した山口彊(やまぐち・つとむ)さんが4日午前5時38分、胃がんのため長崎市内の病院で死去した。93歳だった。近親者で密葬は済ませた。  造船所の設計技師として働いていた1945年8月6日、広島に出張中に爆心地から約3キロで被爆。長崎市に戻り、職場で上司に広島の惨状を報告中の9日に2発目の原爆に遭った。2009年3月になって、被爆者健康手帳に長崎に加え、広島で被爆したことも記入された。長崎市が把握する限り、二度にわたって直接被爆した人では初めての例だった。  被爆の影響で左耳が不自由なため、語り部活動はしてこなかった。だが、次男が05年にがんで亡くなったのを契機に、06年に記録映画「二重被爆」に出演し、体験を語った。同年、米ニューヨークの国連部での上映にも駆けつけ、核廃絶を訴えた。自伝に「ヒロシ

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