ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (14)

  • 私は通俗小説をバカにしているわけではない。 - jun-jun1965の日記

    私は通俗小説とか娯楽ものをバカにしているわけではなくて、常に、巧みなストオリイテリングで楽しませてもらいたいと思って読み始めて、失望するということが多いのである。 藤村の『破戒』というのはあれはストーリーテリングが巧みなのである。ところが藤村自身は、それ以後、二度とああいう手腕を見せなかった。中村光夫は、そのことを言えばいいのに、社会性がどうとか言ったために、以後の批評を歪めてしまったのである。 今日、ストーリーテリングの巧みさを言われることが多いのは、漫画映画やドラマである。『めぞん一刻』後半の巧みさは誰も言うところで、例のお墓のエピソードなど、当時みな讃嘆したところである。ただ結局それが「漫画」という、いくらか荒唐無稽でも許されるジャンルだからであることは、重要で、だからあの漫画映画化しても成功はしない。 ここに厄介なのは、ストーリーの巧みさは、パターンがいく通りかに決まっているの

  • 石原氏の退任を惜しむ - jun-jun1965の日記

    石原慎太郎が芥川賞の選考委員を退任するようだ。まことに残念なことである。私は以前、石原の意向がどの程度受賞に反映しているか、調べたことがある。実際には大して反映されていないのだが、まるで石原が反対したために、そいつらの好きな作家が受賞できないかのごときデマを振りまいたり、石原と宮輝の意見は選評を見たって一致しないことが多いのに、まるで二人がいつも結託して同じことを言っているかのごとくに言うデマゴーグが後を絶たない。 石原や村上龍の選評は、いつも溜飲を下げさせてくれたもので、今回の候補作罵倒にしたって、候補から漏れた私にしたら痛快でしたとも、ええ。 石原を悪く言う連中というのは、都知事としてとか、保守派政治家としての発言とかが気に入らないのだろうね。しかし橋下と石原では、橋下は政策がファシズムなのに対して、石原はそうではないということ。そしてもちろん、それは文学者としての作品への判断とも別

    石原氏の退任を惜しむ - jun-jun1965の日記
  • ホモソーシャルについて - jun-jun1965の日記

    前川直哉の『男の絆』について私が書いた一点のアマゾンレビューが時おり話題になるので、いちおう説明しておく。 上野千鶴子の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』もそうだが、なるほど、こういうことは一般にはまだ知られていなかったのかと思ったもので、こうした話は、学者(文学研究者、社会学者)の間では、1990年代にさんざん議論されていたことで、上野著にも前川著にも、私を含めそれらの人は、別に新しいものは何も見出さなかったであろう。 特にいずれも、物故したイヴ・コゾフスキー・セジウィックが『男同士の絆』の序文で言ったことをそのまま信奉している。なおセジウィックのこのが、邦訳される前、おそらく日で一番早く紹介したのが、私の『夏目漱石を江戸から読む』(1995)なのだが、まあそれはいい。 セジウィックはその序文で、ホモソーシャルという概念を打ち出している。ただこの概念をセジウィックが作ったというわけで

    ホモソーシャルについて - jun-jun1965の日記
  • 「能は死ぬほど退屈だ」 - jun-jun1965の日記

    (活字化のため削除) - http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100730-00000134-san-soci 杉秀太郎ってのはつくづく謎の人で、何ほどの業績があるのかよく分からないのに藝術院会員だし、このインタビューも、漱石と植物を誰もやってないってそれは塚谷裕一が怒るぞ。あと「筆で立つと決めて」ってあんたずっと大学と研究所の教授だったでしょうに。それを「筆で立つ」というのかいな。

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  • 雉も鳴かずば - jun-jun1965の日記

    『週刊朝日』と『文學界』の連載のおかげで、東浩紀ってのはアニメとゲーム以外に碌な教養がないということが分かってきた。今月の『文學界』なんて、まるで修士課程の院生のレポートだ。「アウシュヴィッツのあとで詩を語るのは野蛮である」なんて、性格の悪いアドルノの思いつきでしかないだろう。『啓蒙の弁証法』なんてのもインチキで、いくら教育したってバカはバカってことでしかない。 だいたいヘーゲルからして出鱈目なんだからね。東の文章を見ていると、ああ留学したことがない奴だなというのがよく分かる。「スタンフォード日センター」って別にスタンフォードにあるわけじゃなくて京都にある。 - これも東が言いだしたのじゃないかと思うが、「顕名」ってまあもとは法律用語を「匿名」とは違うものとして言うのだが、そりゃ十分に匿名の一種である。 筆名というのもあるが、じゃあ「狐」が筆名だと主張したら? 「東川端三丁目」なんてすで

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    uumin3 2009/08/12
  • 原体験あり - jun-jun1965の日記

    あ、そうだ。映画『童貞放浪記』はエンドクレジットのあとまで観て下さい。 http://d.hatena.ne.jp/maasha/20090808/p1#c UBCでの博士論文執筆資格審査試験に落ちた時のことは前に書いた。その時鶴田欣也が、私の答案の非論理をいちいちあげつらったことも書いた。 しかしその中に、三島が川端について「文体がない」と書いたことについて、鶴田先生は「これは歴史がないということだ」と言い、私は「ヘーゲル的な」と呟き、鶴田はイエスと言った。 だが、のちのちまで、このやりとりが気になった。三島の「文体がない」という簡単な言を、いかなる学問的手続きによって「歴史」と解釈するのか。また、ヘーゲル的歴史とは何か。論理性を指摘した鶴田のその日の発言の中で、この個所だけが浮いていた。 帰国後、私はヘーゲルを読もうとした。しかし、歯が立たなかった。歯が立たない、ということを、一般的に

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  • 有吉佐和子と純文学 - jun-jun1965の日記

    有吉佐和子が「不遇」だったことはよく知られている。人気作家、ベストセラー作家でありながら、純文学の世界での評価は低く、かといって瀬戸内晴美や曽野綾子のように、大衆作家として居直ることもなく、常に純文学に憧れつづけた。 最近、岩波文庫に有吉作品が入っているのは、死んで20年以上たつからだろう。数年前には論文集『有吉佐和子の世界』が出たが、私は一部しか見ていない。 さて、私自身は、有吉の作品にしばしば挫折している。長編で読み通したのは、『華岡青洲の』と『和宮様御留』くらいで、前者はともかく、後者は通俗小説ではないかと思った。『出雲の阿国』は、文庫版全3冊を買ったのに、あまりに通俗なので上巻だけで挫折した。『香華』は、映画を観てから読み始めたら、まるで映画のノヴェライゼーションを読んでいるようなのですぐやめた。『恍惚の人』も、その文章が耐えられなくてすぐやめた。 そしてこのたび、英訳もされてい

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    uumin3 2009/07/07
    有吉佐和子でも辻邦生でも面白ければOK。肌にあわなかっただけじゃないかな。ジャンルのくくりは不毛。
  • 学問の裏道 - jun-jun1965の日記

    何かを調べていて、よく知らない人の論文に当たったら、私はまずその著者について調べる。素朴に学問を信じている人からしたら、そんなの不要だと思うだろうが、これがそうでもないし、実は多くの学者がやっていることである。というより、たとえば近世文学が専門なら、これは誰々の弟子だなということを最初から把握していて論文を読むだろう。 人文学の論文などというものは、ちょっとした表現ひとつでニュアンスが違ってくることがあるから、その著者の経歴を知っていると、ああこの人はこれ学派出身だからこっちへバイアスが掛かっているな、と分かるのである。分かりやすい例でいえば、田中優子がなぜ『週刊金曜日』の編集委員になってしまったかといえば、広末保の弟子だからである。広末は左翼であり、実証的というより文藝評論的な学者だった。しかし近世文学の世界では、まず翻刻・注釈・文校訂などをして40、50になるのが普通で、しかし田中は

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    uumin3 2009/03/08
  • 国会図書館事件 - jun-jun1965の日記

    いや今度は図書館員と争ったのではない。カードを検索装置のところに置き忘れたのである。もっとも、置き忘れたと最初から分かったわけではなく、戻って探しに行ったら、私が使っていた椅子にはもう人がいたので、ああここではない、と思って受付で、届出はないですかと訊いたら、なく、あちら(新館入り口)で訊いてみてください、と言われた。 そちらへ向う途中、藤田敏八のような顔をしたおっさんが、私の左手1.5mほどのところを並んで歩きながら「カード亡くしたら閉館まで出られませんよ。他人が使ったかもしれないとか言って。閉館は九時…」とぼそぼそと言った。まさかと思いつつ受付へ行ったら、やはりないので、困って戻り、ふと、先ほど私が坐っていたところに指してあるカードを見て、ありゃ、と思い、近寄ってよく見ると、まさに私のカードである。男が坐ってせっせと検索している。 私はカードをとりあげ、「ちょっと、これ私のカードでしょ

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    uumin3 2009/02/18
    議論
  • 全共闘世代のバカ左翼・黒古一夫 - jun-jun1965の日記

    別に「全共闘世代」といわれる世代がみなバカなわけではないのだが、「全共闘世代的意識」なるものが実に愚劣な日文化のクズであることはもはや言うまでもない。 http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/m/200808 これは黒古一夫という筑波大学教授(元は図書館情報大学教授、統合により筑波大教授)だが、まさにそのようなクズの一人である。栗原さんはもちろん、問題になった作品をみな読んで書いている。『黒い雨』について自分が書いたものが参照されなかったのが不満なようで、それはお気の毒というしかないが、この書き方ではまるで栗原さんが豊田清史の肩でも持っているようである。栗原さんは豊田と相馬正一の論争を紹介しつつ、できるだけ客観的に記述しているのだ。だいいち、『重松日記』が公刊された2001年以後は、誰もがこれと『黒い雨』を比較して自分で判断できるようになっているのだから、黒古がガ

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    uumin3 2008/09/06
    "三浦綾子の『氷点』は、殺人犯の娘が殺人犯と同じ罪を背負っているかのごとくに書いた「差別小説」だと前から告発している"
  • 昭和30年代へ行け樋口康彦 - jun-jun1965の日記

    樋口康彦『崖っぷち高齢独身者−30代・40代結婚活動入門』(光文社新書)というのを先日からぼちぼち読んでいる。著者は1965年生、関西大学および大学院出、専門は教育社会心理学、おそらく数年前から、富山国際大学専任講師。五年前から、お見合いパーティーや結婚相談所で約300万円の金をかけて結婚相手を探したが成婚には至っていない。書はその自己ルポと、著者がひねり出した教訓を書いたものである。 だいたい、関西大学の大学院へ行くなどというのがかなり危険な行為である。関西では二流かもしれないが、全国的には三流大学で、そんなところで大学院へ進むのは、半ば人生を捨てたようなものだ。ただ樋口の場合、1980年代、バブル経済期のことなので、一概には責められない。 しかし樋口は身長170cm、体重59kg、顔もそうまずくない。酒も煙草もギャンブルもやらないという。 ところが、読んでいくと、どうもこの方の考え

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    uumin3 2008/08/23
  • 誰にでも小説は書ける? - jun-jun1965の日記

    (活字化のため削除) 吉隆明はどうやって生計を立てていたのだろうと思ったら、44歳の時に著作集が出ていた。すごい。今なら福田和也だって著作集なんか出せないだろう。しかし、高橋英夫とか大笹吉雄とかも、どうやって生計を立てていたのか、と思う。 小田島先生は東大に勤めていても、官舎の四畳半に一家四人で住んでいたという。1960年代のことだ。今の人なら耐えられないだろう。その辺が、誰も餓死するわけでもないのに格差社会とか大騒ぎする連中がいる理由なのだろう。 (はっきり言わないと分からない奴がいるようなので書いておくと、経済政策論ならどうぞやってもらって構わんが、雨宮処凛のような感情論だけの馬鹿をあちこちで起用する愚を私は言っているのだ。澤地久枝が正しく指摘していたが、小林多喜二は泣いてほしくて蟹工船を書いたのではない。革命を起こすために書いたのだ) (小谷野敦)

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    uumin3 2008/08/22
  • 新書の題名 - jun-jun1965の日記

    私より二つ年上で、東大英文科の大学院にいたことのある中尾知代という岡山大准教授がいる。私は面識はないのだが、第二次大戦中ビルマで日軍の捕虜になった英国人らの問題をずっと研究してきた人だ。まあ私に言わせれば、インドからシンガポールまで植民地にした悪の帝国なんだから、ビルマにいたのが悪いのだが(しかも英国は誰にも謝罪していないし)、中尾さんが今般初めての著書をNHK出版の生活人新書から出した。が、その題名が『日人はなぜ謝りつづけるのか』である。副題はもちろんあるのだが、これじゃ最近のバカ新書みたいではないか。バカ新書は「なぜ・・・か」「日人」「・・・力」などが題名に入っているのが特徴である。ちょっとかわいそうである。 - 数日前の日経新聞(これがけっこう禁煙ファシスト新聞である)に「批評の衰退」とかいう取材記事が出ていて、新潮新人賞に批評部門を設けたがあまり育っていないという話で、『新潮

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    uumin3 2008/08/09
  • 史上最低の芥川賞受賞作 - jun-jun1965の日記

    最近でいえば、中村文則と双璧をなす。漢語表現をそのまま使っているほか、変な日語が散見される。中味にしても、何ら小説である必然性がなく、これなら、ドキュメンタリーかノンフィションを読んだほうがいいだろう。白英露とかいう女の描写も中途半端だし、「梅」とかいうに至っては、何も描かれていない。まるで明治40年以前の青春小説の出来損ないで、青年二人が主人公なのに、尾崎豊がどうのこうの言っているだけで、「性」については何も書いていないというのが、いかにもシナ人らしい。同人雑誌に載って埋もれていくべきレベルの「小説」である。 石原慎太郎は欠席したそうだが、選評は文章で書いてくれるのではないかな。もっとも、石原が出席しても、受賞作に変りはなかっただろう。 豊崎由美は今回の受賞作に激怒しているが、小川や川上に気で期待していたのか? 豊崎と大森望の「メッタ斬り!」が始まって以来、芥川賞の選考は文学オタク

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    uumin3 2008/07/23
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