川ではありません。神通川(じんづうがわ)の氾濫により、水があふれた街中を、いかだで移動している様子です。これは、明治43年9月の水害の記録した写真集の中の1枚です。この写真のほかにも、鉄橋の上端ぎりぎりまで迫っている濁流や、切れた堤防の様子などが収められています。 神通川は度々このような氾濫を繰り返し、市街地に水害をもたらしました。こうした水害を克服するため、富山の人々は何を考え、何を行なったのでしょうか。 今回は、この神通川がテーマです。 江戸時代の富山町は、周囲を川に囲まれていました。町にとって、川は防御線である反面、度々氾濫し、町に被害をもたらす存在でもありました。特に、大河川である神通川は、市街地の北を蛇行していたため、水害をもたらしやすく、明治時代になっても富山の人々を悩ませました。 そこで水害を減らすため、川幅を拡幅すると共に、蛇行部分のバイパスとなる分水路を設ける工事が行われ