ブックマーク / wienandme.blogspot.com (12)

  • 完成しなかったネタ案を、ここに記して成仏させよう

    デイリーポータルZに掲載予定の次回記事「存在しないことになっている水上スラムに行く」をもって、私のライター活動は休止となる。 これは当初から(私の意向で)計画されていたことだ。いつか再開できたら嬉しいけれど、月1-2のペースで原稿を書き上げる生活は、ひとまずは今月で区切りとなる。 持てる力を出しきって、我が生涯に一片の悔いなし。そう言い切れたらカッコいいのだが、残念ながらそうではない。「準備不足などで完成に至らなかったネタ」がいくつかある。 拙ブログについても、サラエボ、オフリド、ロンドンなどの旅行記を書けずじまいだった。それはもう放念するしかない。ここではデイリーポータルZ向けに考えていたネタ帳の中身を公開したい。「くだらないネタばっかりだな」と笑ってくれたら望だ。 会計前の「つまみい」はどこまで許されるか ジョージア旅行中に、商店でレジ前の行列に並んでいたお爺ちゃんが、やおらコー

    完成しなかったネタ案を、ここに記して成仏させよう
    vovo
    vovo 2020/07/01
  • 所持金はすべて盗まれたけれど、私は元気です(キエフ)

    「パパ、お金をBad Manに取られちゃったの?」 当時5歳の息子が言った。 「おかね、なくなった」 当時2歳の息子が言った。 「お金がなくなった」 当時36歳の私が言った。「地下鉄にも乗れなくなった」 私は餓えた狼のような目つきになって、Bankomat(ヨーロッパのATM)を探し歩いた。 Bankomatは難なく見つかり、オーストリア銀行のカードも通用したが(日クレジットカードは駄目だった)、ここでひとつの問題が生じた。 銀行口座の残高が、32ユーロしかなかったのだ。 これは、どういうことか。 不逞の輩に、たちまち引き落とされてしまったのか。 そうではない。 私はこのころ給料の大半を日の銀行に振り込んでおり、それなのにイランとトルクメニスタンへの旅行お金を濫費してしまい(現地でスマホなどを衝動買いしたのが敗因だった)、さらには子どもたちの学費のまとまった支払いが重なり、十数年前

    所持金はすべて盗まれたけれど、私は元気です(キエフ)
  • 「中央アジアの北朝鮮」に行ってきた(トルクメニスタン)

    (2)先月、仕事ロシアに行ってきた。 そこで知り合ったロシア人、カザフスタン人、ウズベキスタン人に、(気軽な雑談として)トルクメニスタン旅行の話をしたところ、 「Satoru、おまえ大丈夫か?」 「狂った独裁国家で、国民が悲惨なことになってるんだろう?」 「あそこがいまどうなっているのか、全然わかんないんだよね」 とのコメントが寄せられた。 「中央アジアの北朝鮮」の異名をとるトルクメニスタン。 旧ソ連圏の仲間たち(?)からも、やはりそうしたまなざしを注がれているのであった。

    「中央アジアの北朝鮮」に行ってきた(トルクメニスタン)
    vovo
    vovo 2019/07/07
    (そうして私は、以前の職場でお世話になった課長のペニスが、寝起きざまに私の口のなかに押し込められている状態を想像した)
  • 「世界の半分」でフライトキャンセルに喘ぐ(イスファハーン)

    テヘランを東京とするなら、イスファハーンは京都である。 16世紀末に、サファヴィー朝のアッバース大帝がここを首都に定めた。技術の粋を凝らした宮殿、寺院、バザールがつくられ、後世の人びとにEsfahan nesfe jahan(イスファハーンは世界の半分)と言わしめた。賛辞はそのまま古都の代名詞となり、現在に至る。 世界の半分、イスファハーン。 ゲーム「ドラゴンクエスト」の最終ボス・りゅうおうは、主人公に「もし わしの みかたになれば せかいの はんぶんを XXXXに やろう」と持ちかけて、日全国の小学生に衝撃を与えた。 あのときの「せかいの はんぶん」とは、つまりイスファハーンのことだったのだ。

    「世界の半分」でフライトキャンセルに喘ぐ(イスファハーン)
  • 経済制裁下のイランに、それでも行くべき3つの理由(テヘラン)

    イランに行くには、それなりの覚悟が必要となる。 具体的には、イランと緊張関係にある国(例:イスラエル、サウジアラビア、アメリカ)に渡航する難易度が跳ね上がることを覚悟しなければならない。 イスラエルには昨年末に旅行したので、「まあ仕方ないか」と思えるが、近い将来にサウジアラビア出張を控える身としては、苦しい展開が予想される。 そして、ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ。 私はこの国の大学院を卒業した。上の息子はこの国で生まれた。そのときの医療費は州政府が全額負担してくれた(我々は低所得世帯にカテゴライズされていた)。この国にはずいぶんお世話になった。これからお世話になる機会も必ずやあるだろう。 だが、イランの渡航歴を獲得したとき、私とアメリカの関係性は一変する。アメリカ国籍を持つ男児の父から、テロリスト渡航防止法の対象者に降格(または昇格)するのだ。 アメリカだけが世界ではない 「ウィ

    経済制裁下のイランに、それでも行くべき3つの理由(テヘラン)
  • 子どもたちは笑顔で中指を突き立てた(パレスチナ)

    装甲車の窓がゆっくりと開いて、軍用スコープの照準が私の姿を捉える。 そのとき私は、荒野にも似たパレスチナの農園を抜けて、イスラエルの高速道路に立ち入っていた。泥まみれの格好で、ぼろぼろの自転車を担いで歩いていた。 外形的には、私はテロリストと同じような行動を取っていたのである。 ※ これは「理想の光、暴力の影(イスラエル)」の続篇ですが、この記事だけを読まれても特に支障はありません。 ガザ地区に行くのは断念した はじめは、ガザ地区に行こうと考えていた。特別な許可がなければ立ち入れないエリアだが、そこで暮らす日人もわずかにいると聞いていた。 せめて国境線(という言葉も使い方が難しいのだけれど)の近くで、その空気に触れてみたかった。そして私には、そうした方面における個人的な「ツテ」がないわけではなかった。 しかし最終的には断念した。出発まぎわに、治安面でかなり緊張が高まっているとの一報があっ

    子どもたちは笑顔で中指を突き立てた(パレスチナ)
    vovo
    vovo 2019/03/03
    そのとき私が瞬間的に思い出したのは、村上春樹の「遠い太鼓」で、村上さんがシチリア島のパレルモで犬を怒鳴りつけるシーンだった。
  • 航空機を愛するが客船も気になる、この気持ちを何と呼ぶ

    vovo
    vovo 2018/09/03
    航空機のサプライチェーンを細かく追っていくと、うんこのサプライチェーンにたどり着くのである。
  • そして帝国は滅んだ(ウィーン軍事史博物館)

    「家族がだめになっていく話」を読むのが好きだ。 たとえば、チェーホフの「桜の園」。 たとえば、北杜夫の「楡家の人びと」。 たとえば、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」。 かつて栄華を誇った一族が、いろいろな要因がからまって、避けようもなく衰退してゆく。ゆるやかな滅びへと向かってゆく。 それでも生きていかざるを得ない、よるべなき人たちの群像の物語。そういうものを、学生の頃からいままで、ずっと愛好してきた。 家族とは最小単位の共同体である。そして究極の共同体といえば、これはやはり国である。 だから私は、同じ文脈で、「国がだめになっていく歴史」を追うのも好きだ。 たとえば、古代ローマ帝国。 たとえば、ビザンティン帝国。 たとえば、ヴェネツィア共和国。 生まれてほどなく死んでしまった国よりも、何百年も続いて、世界を掌中におさめるような時代もあったのに、やがて衰亡し、消滅してしまった国のほうに心惹か

    そして帝国は滅んだ(ウィーン軍事史博物館)
    vovo
    vovo 2018/08/23
    ・・・・ そのように不思議なハプスブルクの歴史を、主に戦争の観点から切り取ったミュージアムがウィーンにはあって、その名をウィーン軍事史博物館(Heeresgeschichtliches Museum)という。
  • 死ぬ前にここを思い出したい(ハルシュタット)

    こんなものなど、いかにも「アルプスの秘境」といった写真が並んでいる。 それらは、あまりに美しすぎて、あまりに幻想的すぎて、当は実在しないのではないか、なにか肝心なところで騙されているのではないか、という胸騒ぎを起こさせる。 いざ行ってみたら、暴力団構成員みたいな人たちが、どこからともなく現れて、たこ殴りにされるのではないか。 不安は高まるばかりである。 けれども私は、「アルプスの秘境」としておそらく最も有名な場所へ、ひとつ覚悟を決めて行ってみることにした。 秘境は、しっかりと実在していた。騙されてはいなかった。暴力団構成員みたいな人たちがどこからともなく現れて、たこ殴りにされることもなかった。 たしかに美しく、幻想的だった。 いつか私が死ぬとき、ここで見た風景が、子どもたちと手をつないで見た風景が、まぶたの裏によみがえったらどんなに素敵だろうか。 ハルシュタット(Hallstatt)は、

    死ぬ前にここを思い出したい(ハルシュタット)
    vovo
    vovo 2018/08/23
    いつか私が死ぬとき、ここで見た風景が、子どもたちと手をつないで見た風景が、まぶたの裏によみがえったらどんなに素敵だろうか。  ハルシュタット(Hallstatt)は、そう思わせるような場所だった。
  • 息子が英語を話しはじめた

    私が最も尊敬する同僚は、イラン人のMさんだ。 Mさんは、イランの大学を出てから、英国で博士号を取って、国際機関に入った。そこから実績を重ね、最終的にはDirector(日の中央省庁でいえば審議官/部長クラス)に出世した。定年後はコンサルタントとして再雇用され、私の所属する部署に身を置いている。 これまで仕事で訪れた国は、ソ連とか、DDR(東ドイツ)とか、ユーゴスラビアとか、いまでは絶対に行けない国も含めて、実に119ヵ国という。大変な国際人なのである。 そんなMさんの持ち味は、人生の酸いも甘いも噛みわけた、注意深く濾された茶葉のようなユーモアセンスだ。 ある日、ギリシャ料理店でMさんは言った。 「ギリシャ・コーヒーを飲むとき、最も注意すべき点を知っているか?」 「なんでしょう」 「トルコ・コーヒーと言わないことだ。もし言えば、きみは店から追い出される」 「なるほど。でもトルコとギリシャの

    息子が英語を話しはじめた
  • 英語の幼児教育は難しい

  • ヒトラーが愛した街は、皆が愛する街だった(リンツ)

    2歳の息子は、アドルフ・ヒトラーと同じ誕生日である。 ウィーンに来てから、そのことを知った。ご存じの方も多いと思うが、アドルフ・ヒトラーは、オーストリア出身でありながら、ナチス・ドイツを率いて、オーストリアを半ば強制的に併合(アンシュルス)させた人である。 ナチスに関する話題は、だからいまでも非常にセンシティブだ。オーストリア北西部にあるヒトラーの生家は、2年前に政府が取り壊すことに決まった(ネオナチによる聖地化を防ぐため)のだが、今年になって「やはり保存されることになった」との報道が出ている。 また、ドイツでは「18」という数字がタブー視されていて(アルファベットの1番目と8番目はAとHで、Adolf Hitlerを連想させるから)、「18回も洗濯できます!」と表記したP&Gの洗剤が販売停止に追い込まれたこともあったという。 ウィーンに暮らしていても、街中を注意深く観察していると、ふと「

    ヒトラーが愛した街は、皆が愛する街だった(リンツ)
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