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写真と原子力に関するwackunnpapaのブックマーク (16)

  • 写真特集:広島、長崎に原爆(2011年8月掲載) [写真特集1/49] | 毎日新聞

    【広島】木造建築の毎日新聞広島支局(右付近)は周囲の建物とともに、強烈な熱線と爆風で一瞬にして倒壊炎上し、跡形もなくなった=1945(昭和20)年8月9日

    写真特集:広島、長崎に原爆(2011年8月掲載) [写真特集1/49] | 毎日新聞
  • 「世界の記憶」候補の広島原爆の写真と映像、アーカイブサイトで公開:朝日新聞デジタル

    国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」の国内候補として推薦されている「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」について、申請した朝日新聞社などは7月31日、資料を閲覧できる日語のアーカイブサイト(https://www.visual-archives-hiroshima.jp)を公開した。英語版もある。 閲覧できるのは朝日新聞社、広島市、中国新聞社、毎日新聞社、中国放送、NHKの6者が共同で登録申請した資料のうち、写真1526点と映像2点。申請した写真は1532点だが、プライバシーに配慮し、6点はサイトに載せていない。昨年11月に日政府が「世界の記憶」への推薦を決めた。サイトの構築には、資料の一部を所有・保存してきた共同通信社も加わっている。 写真は、人類史上初めて原爆が投下された広島で、約14万人が死亡したと推計される1945年8月6日から同年12月末までに、日の計

    「世界の記憶」候補の広島原爆の写真と映像、アーカイブサイトで公開:朝日新聞デジタル
  • 広島原爆写真、ウェブサイト公開 ユネスコ申請資料を一覧可能に | 毎日新聞

    2階建ての下村時計店は、1階が押しつぶされ、アーチ窓の2階と時計台の残骸が残った。手前に男性と女性の姿が見える。右端に見えるのは袋町国民学校=広島市平田屋町(現広島市中区通)で1945年9月11日ごろ、山上圓太郎撮影 広島市と毎日新聞社など報道機関6社の計7者は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶(世界記憶遺産)」への登録を目指して申請した広島原爆の記録写真と動画を紹介するアーカイブサイト(日・英両語)を共同製作し、31日から公開を始めた。米軍が原爆を投下した1945年8月6日~同年末に報道機関や軍関係者、市民らが撮影した写真1526点と動画2点。巨大なきのこ雲や破壊された街、大やけどや放射線による爪痕など人体への被害を伝えている。 登録申請した「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」を構成する資料。サイトは撮影地域(14ブロック)や撮影時期(投下当日、投下翌日~1カ

    広島原爆写真、ウェブサイト公開 ユネスコ申請資料を一覧可能に | 毎日新聞
  • 原爆翌日、遺体のそばに立つ少女 写真の龍さん死去:朝日新聞デジタル

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    原爆翌日、遺体のそばに立つ少女 写真の龍さん死去:朝日新聞デジタル
  • 「焼き場に立つ少年」はあの子?謎追う被爆者 ローマ法王注目の写真 | 西日本新聞me

    亡くなった弟を背負った少年が、真っすぐ前を見つめる。原爆投下後の長崎で撮影したとされる写真「焼き場に立つ少年」は、11月に来日予定のローマ法王フランシスコが世界中に広めるよう呼び掛けたことで注目された。法王は言う。<このような写真は千の言葉よりも伝える力がある>。だが少年の身元も撮影場所も分かっていない。長崎市のある被爆者は今も、写真の謎を追っている。 写真は、米軍の従軍カメラマンだった故ジョー・オダネルさんが1945年に長崎で撮影。少年が焼き場で弟を火葬する順番を待っている場面だとされる。 「あの子じゃなかろうか」。長崎市の元小学校長、村岡正則さん(85)は10年ほど前、写真が長崎で公開されることを伝えるニュースを見て驚いた。同じ銭座国民学校(現銭座小)に通っていた少年にそっくり。学級は違ったが、何度か校庭で遊んだことがある。丸顔でおとなしい性格。転校生だったと記憶するが、名前は思い出せ

    「焼き場に立つ少年」はあの子?謎追う被爆者 ローマ法王注目の写真 | 西日本新聞me
  • 占領軍が記念撮影したヒロシマ 人気観光地だった爆心地:朝日新聞デジタル

    広島平和記念資料館(広島市中区)は10日、被爆直後から占領期にかけての広島市内の様子を伝える写真32枚を報道機関に公開した。米国とニュージーランドで調査し、新たに収集したものだ。爆心地付近で米国人らが記念撮影をする姿など、占領軍にとって広島が「訪れたい地」だったことをうかがわせる。 広島県内には1945年10月から米軍が進駐し、46年3月にニュージーランドも加わる英連邦軍が引き継いだ。今回収集したのは、この時期に各国の軍人らが撮影した写真だ。 45年秋ごろ撮影された写真では、広島市役所の看板が「CITY HALL」と掛け替えられていた。「CENTER OF IMPACT」(爆心地)と看板に書かれた無線用の鉄塔の前に2人が並ぶ写真は、48年12月に連合国軍総司令部(GHQ)職員が夫婦で旅行した際のもので、個人のアルバムに残されていたという。 原爆ドームそばの碑の前に並…

    占領軍が記念撮影したヒロシマ 人気観光地だった爆心地:朝日新聞デジタル
  • 広島原爆:きょう72年 8カ月後の息吹 | 毎日新聞

    被爆から約8カ月後のカラー写真。旧広島瓦斯社(中央)の右奥には旧燃料会館(現・レストハウス)、右端に旧川国民学校も見える=原医研提供 1946年春ごろに広島原爆の爆心地から500メートル圏内を写したカラー写真が、広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)で見つかった。写真は米軍病理学研究所(AFIP)から73年以降に返還された資料の一部で、原爆の威力を調べた米戦略爆撃調査団が撮影したとみられる。被爆から約8カ月後でも爆心地付近は焼け野原のままだが、バラックなどが確認できて少しずつ復興する様子がうかがえる。 当時、カラー写真の撮影技術があるのは米軍などに限られ、原医研は「被爆の実相が詳しく分かる貴重な資料」としている。

    広島原爆:きょう72年 8カ月後の息吹 | 毎日新聞
  • 広島原爆アーカイブ:「近寄るな」軍人、病床で最期の抵抗 | 毎日新聞

    大野陸軍病院で患者を診察する米国マンハッタン管区調査団。中央は東京帝国大の都築正男博士=広島県大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 広島原爆の投下から約1カ月後、広島県大野村(現廿日市(はつかいち)市)にあった大野陸軍病院を米軍の調査団が訪れていた。同行取材した毎日新聞記者が撮影した写真には、負傷者を囲むように立つ米軍人らが写っている。72年前の写真を手にした同病院の元看護師、古原(こばら)ユキエさん(92)=島根県浜田市=の耳に、原爆で傷を負った若い軍人の怒声がよみがえった。「近寄るな!」 写真は1945年9月10日の撮影で、古原さんは日米開戦の41年ごろ病院に勤め始めた。瀬戸内海を望む衛生的な職場だった。

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  • 長崎原爆:黒焦げの少年、身元判明か 法医学者ら写真鑑定 | 毎日新聞

    谷崎昭治さんの可能性がある少年の写真を手に説明する深堀好敏さん(右)と、谷崎昭治さんの妹西川美代子さん=長崎市の長崎原爆資料館で2016年6月13日午前10時25分、今手麻衣撮影 長崎原爆投下翌日に爆心地付近で黒焦げになった状態で写真に撮影された少年が、旧制県立瓊浦(けいほ)中1年だった谷崎昭治さん(当時13歳)の可能性があることが13日、分かった。谷崎さんの妹で長崎市の西川美代子さん(78)と長崎平和推進協会写真資料調査部会長の深堀好敏さん(87)らが市内で記者会見し、明らかにした。西川さんらが名乗り出たため、法医学者らが少年の写真を鑑定していた。 写真は、旧陸軍報道部の山端庸介氏(1917〜66年)が撮影。焼死した少年があおむけに倒れている。長崎原爆資料館に展示されているが、少年の身元は分かっていない。

    長崎原爆:黒焦げの少年、身元判明か 法医学者ら写真鑑定 | 毎日新聞
  • 「黒焦げの少年」身元判明か 長崎原爆 妹2人名乗り出て鑑定 「71年かかりやっと会えた」 - 西日本新聞

    谷崎昭治さん(左端)と西川美代子さん(右端)が写る、鑑定に使用された家族写真 写真を見る 長崎原爆資料館に展示されている写真「黒焦げとなった少年」=13日午前、長崎市の長崎原爆資料館 写真を見る 記者会見する(左から)谷崎昭治さんの妹、山口ケイさん、西川美代子さん、深堀好敏会長=13日午前、長崎市内 写真を見る 長崎原爆の写真調査を続ける長崎平和推進協会写真資料調査部会は13日、長崎原爆の投下翌日に爆心地近くで撮影された「黒焦げとなった少年」に写っている人物が、長崎市岡町の当時中学生の13歳、谷崎昭治さんの可能性があると発表した。昨夏、写真を見た谷崎さんの妹2人が「兄ではないか」と名乗り出たため、同会が専門家らに依頼し鑑定した。被爆から71年、原爆の悲惨さを世界に伝えてきた写真の少年が誰なのか、解明に近づいた。  写真は1945年8月10日、写真家の故山端庸介さんが撮影。故伊藤一長前長崎市

    「黒焦げの少年」身元判明か 長崎原爆 妹2人名乗り出て鑑定 「71年かかりやっと会えた」 - 西日本新聞
  • 復帰前沖縄の核兵器写真見つかる 実戦配備、生々しく - 共同通信 47NEWS

    沖縄の米軍嘉手納基地で戦闘航空団技師によってF100戦闘機に装着される水爆「マーク28」。最大1・4メガトンの破壊力を持つ。撮影日はキューバ危機が深刻化していた「1962年10月23日」となっている(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵)  沖縄・米軍嘉手納基地内で台車に備え付けられる核弾頭「マーク7」。潜水艦攻撃に使われるほか、複数のミサイルに搭載可能。爆発力は1~70キロトンとされる。撮影日はキューバ危機の最中の「1962年10月23日」となっている(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵)  核巡航ミサイル「メースB」。キャプションには「沖縄」とだけ書かれている。撮影日は「1962年4月」。メースBには爆発力1メガトンの核弾頭「W28」の搭載が可能。コンクリート製の格納庫で発射命令に備えていた(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵)  土復帰前の沖縄の米軍基地

    復帰前沖縄の核兵器写真見つかる 実戦配備、生々しく - 共同通信 47NEWS
  • 被爆した長崎の真実、後世に 惨状撮影のカメラマン:朝日新聞デジタル

    爆風、熱線、みえない放射線……。あの瞬間を「地獄絵だった」と振り返る被爆者もいる。朝日新聞西部社写真部の富重安雄カメラマン(1997年に死去)は被爆から間もない長崎に入って惨状を撮影した。爆心地付近や浦上天主堂などをとらえた写真には貴重なものも多い。朝日新聞は写真を修復してデジタル化を進めている。

    被爆した長崎の真実、後世に 惨状撮影のカメラマン:朝日新聞デジタル
  • 被爆翌年、爆心地に草 長崎市が未確認写真150枚発見 [長崎県] - 西日本新聞

    被爆翌年、爆心地に草 長崎市が未確認写真150枚発見 [長崎県] 2013年10月22日(最終更新 2013年10月22日 14時25分) 爆心地を示す矢羽根状の目印。周りに植物が見られる原爆で崩壊した山里国民学校のそばに、簡易な民家が建ち始めている=米国立公文書館蔵 米国立公文書館で長崎原爆に関する資料を調査した長崎市の職員らが、これまで未確認だった写真150枚を見つけた。米国の原爆傷害調査委員会(現放射線影響研究所)の研究者だったポール・ヘンショー氏が撮影したとみられる40枚の中には、被爆翌年の爆心地付近を撮った写真があり、調査をした長崎原爆資料館の奥野正太郎学芸員は「復興の状況が分かる貴重な資料」としている。 ヘンショー氏が1946年12月に撮影したとみられる写真には、爆心地を示す目印の周辺に植物が生え、原爆で崩壊した山里国民学校の北西(現在の橋口町付近)に簡易な造りの民家が立つ光景

  • 長崎 原爆: 被爆1年後写真 露でソ連が写した13枚発見- 毎日jp(毎日新聞)

  • 河北新報 東北のニュース/東電、原発事故 新たに写真2145枚を公開

  • 浦上天主堂:消失宗教画の乾板発見 入江泰吉が撮影関わる - 毎日jp(毎日新聞)

    長崎の原爆で消失したキリスト教絵画を撮影したガラス乾板を手にする松夏樹さん=堺市堺区で、幾島健太郎撮影 長崎への原爆投下で消失した浦上天主堂の宗教画「馬利亜十五玄義図(マリアじゅうごげんぎず)」のモノクロ写真乾板(ガラス製のネガ)を、大阪芸術大非常勤講師の松夏樹さん(59)=堺市堺区=が保管していることが分かった。奈良・大和路の風景や仏像を数多く撮影したことで知られる写真家の入江泰吉(1905~92)が撮影に関わったもので、02年に大阪市内の古美術品店で購入したという。入江の戦前の原板は少なく、貴重な資料といえそうだ。 馬利亜十五玄義図は日画の材料を用い、キリストや聖母マリアの生涯が15コマに分割して描かれた縦64センチ、横54センチの絵画。江戸時代に隠れキリシタンの家に伝わったとされ、明治時代以降、浦上天主堂が保管していた。 その写真は美術史家の西村貞が1945年1月に出版した専門

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