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ブックマーク / jyunku.hatenablog.com (64)

  • 2011-11-01

    図書館雑誌』52号(大正12年3月13日)にヅウエイ大学附属図書館長シユウル・クウゼン「図書館の分類法に就いて」の翻訳を掲載した西脇経治郎の正体が偶然にも判明した。新倉俊一『評伝西脇順三郎』を見ていたら、西脇順三郎がイギリス留学から帰国してすぐ、大正15年7月5日弟の経治郎が東大の司書官としてフランス留学を目前に慶應病院で死去とあった。経治郎が東大附属図書館の司書官だったというのは確認できないが、大正12年10月1日現在の『文部省職員録』では同図書館司書、14年10月1日現在では文部省実業学務局の嘱託となっている。その他、生年は不明だが、大正8年東京帝国大学法学部仏法科入学、11年3月卒。『補習教育』大正15年5月号の「仏蘭西の農業補習教育」が生前最後の著作と思われる。 西脇経治郎が館界に残した足跡は極僅かであるが、オタどん版『簡約大日図書館先賢事典 未定稿』に収録してあげよう。 (参

    2011-11-01
  • 群馬県生まれの初代日比谷図書館長渡邊又次郎 - 神保町系オタオタ日記

    『大正人名辞典Ⅱ』によると、 渡邊又次郎 前水戸高等学校長、文学士、東京府士族 東京府豊多摩郡渋谷町下渋谷伊達跡1832 旧武州藩士渡邊諶太郎の二男。慶應2年11月生れ、明治26年帝国大学文科哲学科卒、31年大学院修了 中央大学・東洋大学講師、帝国大学図書館司書長、第二・第五高等学校教授、東京市日比谷図書館主事、東京市主事、東北帝国大学農科大学予科教授、北海道帝国大学附属大学予科教授・同主事らに歴任 次で水戸高等学校長たりしが大正15年9月辞す 『日児童文学大事典』によると、群馬県生まれ、昭和5年11月23日没。群馬県といってもいささか広いが、群馬のどこの生まれかは、いつかyukunikiさんが、解明してくれるだらう。 (参考)「竹貫少年図書館を開館した竹貫佳水と日比谷図書館児童室(補足)」 - 森茉莉著・佐野洋子画『魔利のひとりごと』のちくま文庫版が出ているが、「森茉莉街道をゆく」のち

    群馬県生まれの初代日比谷図書館長渡邊又次郎 - 神保町系オタオタ日記
  • 千代田区立日比谷図書文化館の開館を祝して - 神保町系オタオタ日記

    千代田区立日比谷図書文化館が11月4日開館。それを祝して、日比谷図書館児童室の職員だった中條辰夫の話の続き。 「中條辰夫と中村屋サロン」で言及した中條と秦学文やエロシェンコの関係から言って、中條が秋田雨雀の日記に出ているかもしれないと思っていたが、やはり出てきた。 大正5年2月19日 昼ごろ、秦君、中条君がきた。 このほか、中條は、大正9年8月11日付読売新聞にも出てきた。 詩人や画家の/揺籃/日比谷図書館の/児童室の雑誌 日比谷図書館に最近児童室が新築され子供達の楽園になつてゐます。 可愛らしい方々が低い椅子に腰かけて、青や赤など色どつた美しいをよんで居られました。この室の主任中條氏は「朝八時から午後は三時迄で時間の短い割に入りかはりたちかはり平均百人位の子供が見えます。年齢は尋常一年生から、女学校中学校一二年生位までゞです。 (略)をかしてよませると云ふ外に、なるべく子供の精神上の

    千代田区立日比谷図書文化館の開館を祝して - 神保町系オタオタ日記
  • 2011-10-16

    金子光晴『詩人』(平凡社、昭和48年12月。初出は『ユリイカ』昭和31年10月号〜32年6月号)の「「明治」という荒地の中で」によると、 肺尖カタルという病名で僕は、三ヶ月寝た。その頃僕は、保泉良弼、良親の兄弟と交際するようになった。保泉を僕に紹介したのは、中条辰夫だった。 この文学青年の一団は、『明星』を主流とした日詩歌のロマンチシズムの後塵を拝する時代の人たちで、殊に保泉の兄の方は、『東京景物詩』*1時代の北原白秋のディレッタンチズムに心酔していた江戸趣味の文学青年達だった。その仲間には水上おぼろ、森れじな、福田辰夫、邦枝完二等がいた。彼らは吉原仲ノ町の引手茶屋を発行所にして、雑誌『丹前』を出していた。(略)中条は、ドストイェフスキー心酔で、耽溺的な、重苦しい性格の青年だったが、このグループのなかで、いちばんながく僕との交際がつづいた。彼は、日比谷図書館に勤めていたが、おなじ図書館

    2011-10-16
  • 竹貫少年図書館を開館した竹貫佳水と日比谷図書館児童室(補足) - 神保町系オタオタ日記

    『日児童文学大事典』は調べて竹貫佳水は立項されていないと思っていたが、どうも調べていなかったようで、「竹貫佳水(たかぬきかすい)」がしっかり立項されていた。引用できないほどの分量がある。参考文献として、芦村居主人「故竹貫佳水氏の事業」、中条辰夫「大井冷光氏を憶ふ」(以上、一九二二・九「童話研究」)があがっていた。また、同事典の事項篇には、「竹貫少年図書館(たかぬきしようねんとしよかん)」が立項されていて、1903年北米に渡航し、公共図書館を見聞してきた竹貫が帰国後、06年10月千駄ヶ谷の自宅で開いた小図書館。竹貫は08年東京市立日比谷図書館嘱託となり、少年図書館の蔵書を児童室に譲渡した。子ども文庫のはじまりといわれている、とあった。 また、「日比谷図書館児童資料室」も立項されていて、「その歴史は古く、〇八年に創立した東京市立日比谷図書館の児童室を母体にしている。当時、中条辰夫が同室の主任

    竹貫少年図書館を開館した竹貫佳水と日比谷図書館児童室(補足) - 神保町系オタオタ日記
  • オタどん編著『簡約大日本図書館先賢事典 未定稿』 - 神保町系オタオタ日記

    『文献継承』15号(金沢文圃閣、2009年10月)の「長土塀の机上より」によると、石井敦編著『簡約日図書館先賢事典』を発展させた『日図書館関係人物事典(仮称)』という企画が、石井の生前にあったらしい。実作業はまだまだこれからで、どのように石井の遺志を継承していけばよいのだろうとあった。石井先生の事典に敬意を表し、私の過去の記事から、オタどん版『簡約大日図書館先賢事典 未定稿』を作ってみた。「先賢」ではないような図書館員も混じっているが、ご容赦を。 青木實 「満鉄図書館員と内山若枝」 朝倉無声 「帝国図書館司書としての朝倉無声」、「帝国図書館員朝倉無声の図書破壊疑惑(その1)」、「帝国図書館員朝倉無声の図書破壊疑惑(その2)」、「帝国図書館員朝倉無声の図書破壊疑惑(その3)」、 「『見世物研究 姉妹篇』を読む」、「帝国図書館員朝倉無声の図書破壊疑惑(その4)」、「帝国図書館員朝倉無声、

    オタどん編著『簡約大日本図書館先賢事典 未定稿』 - 神保町系オタオタ日記
    wackunnpapa
    wackunnpapa 2011/10/13
    わくわく(^^;)。
  • 竹貫少年図書館を開館した竹貫佳水と日比谷図書館児童室 - 神保町系オタオタ日記

    森銑三『明治東京逸聞史』を見てたら、日比谷図書館児童室が出てきた。 日比谷図書館の児童室(同上[『文藝倶楽部』明治]四十二・七) 思案の「町誌」に、六月一日、帰社の途次、竹貫佳水君の案内で、日比谷図書館を見た。建築が奇麗で、小ぢんまりしてゐる。殊に小児部を設置してゐるのは、都下でもここばかりで、同部主任の佳水君が鼻を高くするのも無理はない、としてある。 その児童室へは、私も数回行つた思出を有する。思案は、児童室としないで、小児部などとしてゐるのは正しからぬ。 この日比谷図書館児童室の竹貫は、『日近代文学大事典』によると、 竹貫佳水 たけぬきかすい 明治八・三・一〇〜大正一一・七・一二 小説家、編集者。群馬県前橋の生れ。名直次。のち直人と称した。攻玉社に学び、陸軍測量技師となったが、のち江見水蔭の門下となり(略)明治三七年博文館入社、「少年世界」「中学世界」の編集に従事した。児童文学に

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  • 中條辰夫と中村屋サロン - 神保町系オタオタ日記

    金子光晴の友人だった日比谷図書館児童部の中條辰夫。元図書館員の書物蔵氏をもってしてもその経歴調査に難航しているようだ。私が調べて判明していることを補足しておく。金子の年譜によると、大正4年頃、金子は中條と新宿中村屋の二階にエロシェンコを訪ねたというが、この記述の出典である「さまざまな亡命者」『伝統と現代』昭和46年1月号に興味深い人物が登場する。 最初に僕がみた亡命者の顔は、僕がまだ中学校を出ていくばくも経たない頃、新宿の中村屋というパン屋さんの店の裏のあき地にある木造西洋館の二階に住んでいたエロシェンコというロシアの亡命者を、友人の中条辰夫といっしょに会いに行ったときであった。(略)中条は、彼の友人の秦学文という朝鮮人の文学青年につれてゆかれたらしく、秦は、エロシェンコの北支滞在中から彼と親しかったもののようだ。 秦学文!ここで秦に出会うとは。秦については、 ・「篁白陽のすめら連邦構想」

    中條辰夫と中村屋サロン - 神保町系オタオタ日記
  • 中條辰夫という日比谷図書館児童部職員 - 神保町系オタオタ日記

    おはよう、書物蔵君。 今回の君の使命は、日比谷図書館員だった中條辰夫という人物の経歴を明らかにすることである。 中條は、金子光晴の「時間をかけて、わがままに」『文学的断層』に名前が出てくる。 日比谷には、僕の友人の中条辰夫がつとめていて、館長はじめ、同僚の原久一郎や、神君という文学青年にも紹介され、あそびには度々出かけたが、をよみにいったことはなかった。 更に、金子の年譜によると、中條とは次のような関係があったことがわかる。 大正4年 この頃、中条辰夫と新宿<中村屋>の二階にエロシェンコを訪ねる。 5年 中条辰夫の紹介で、保泉良輔(ママ、正しくは良弼)、良親兄弟と親交を結び、はじめて三十篇ほど詩作。 6年 中条との共同編集で『魂の家』を三号出す。 8年1月25日 処女詩集『赤土の家』刊行記念と渡欧送別会を、神田の牛肉店<常盤>で開く。参加者は、中条、井上康文、富田砕花、佐藤惣之助、佐佐木

    中條辰夫という日比谷図書館児童部職員 - 神保町系オタオタ日記
  • 日光図書館長藤井萬喜太 - 神保町系オタオタ日記

    秋田雨雀日記に謎の日光図書館長が出てきた。 昭和6年7月18日 商工会議所へゆくと藤井という日光図書館長がいて、日光史の話をしていた。山中菊子、椎橋君(エスペランティスト)*1、乳井秀夫君(官房主事をしていた人)、各新聞社の人々にあった。藤井氏たちとパンをたべた。開会と同時に藤井氏の「日光秘史」がはじまった。篤学な人らしい。 日光図書館とは、大正12年4月に開設されたという輪王寺附属日光文庫のことだろうかと推測していたら、それを裏付ける文献があった。藤井萬喜太『社会事業史』(白揚社、昭和16年3月)の藤井経雄「日社会事業史の終に」によると、経雄の父萬喜太は、 ・昨年(昭和15年)3月31日69歳で急逝 ・明治39年から大正7年まで郷里前橋市で前橋育児院と称する失恃児童救護の機関を経営 ・大正15年から昭和10年まで日光山輪王寺附設の特種図書館日光文庫の事務を嘱託された 藤井という人物、y

    日光図書館長藤井萬喜太 - 神保町系オタオタ日記
  • 満鉄哈爾濱図書館長栗栖義助と夫人つた子 - 神保町系オタオタ日記

    「民衆図書館」については、「『中外』の内藤民治と民衆図書館」(2010年10月10日)で言及したが、秋田雨雀の日記にも、「民衆図書館」が出てきた。 昭和6年4月18日 ハルピンの栗栖蔦子女史が民衆図書館を建てるのだといってやってきた。奥むめお、織貞代両女史に紹介してあげた。 この栗栖蔦子の正体が、西孟利編著『満洲藝術壇の人々』(曠陽社出版部、昭和4年9月)*1を見ると、判明した。 栗栖義助 生年月日:明治17年5月6日 現籍:山口県吉敷郡大道村 現住所:哈爾賓図書館 学歴:陸軍士官学校 職業:満鉄哈爾賓図書館長 満洲略歴と藝術過程:大正4年渡満、5〜6年遼東新報記者、7年満鉄入社、図書館勤務、後安東に転じて14(ママ)年来哈来任。この間『植民文藝』、『第一線』を発刊して植民地文藝の伸達に貢献ありし人。つた子夫人(明治27年生)も又文藝趣味には豊かな天分を持たれ短歌は最もフレッシュな性美に

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  • 金沢市立図書館長小河次吉=小河阿丘と装釘同好会 - 神保町系オタオタ日記

    昭和5年3月31日から6年5月28日まで金沢市立図書館長を務めた小河次吉という人がいる。『簡約日図書館先賢事典』によれば、 小河次吉 おがわじきち 1900−1931 1921/金沢高工(金沢大学)図書館,1927/理化学研究所図書館,司法省図書館,1930/金沢市立図書館館長 一方、小河阿丘という人物がいる。「形体美小論」『製』昭和3年3月号には、肩書きは「理化学研究所図書課」で、「附記」に「小河阿丘氏は嘗て金沢高工図書館に在り、その著「図書館及図書語彙」は斯界に珍重され、製装幀美学の一権威である」とある。また、4年3月10日、12日、13日の読売新聞に連載した「近頃装幀の雑談」の肩書きには「司法省調査課」と、5年4月28日付東京朝日新聞「と人」の末尾には「金沢市立図書館にて」とある。これらにより、小河次吉と小河阿丘が同一人物と判明した。 次吉の『英和図書館図書館語彙』(丙午出

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  • 第一書房の長谷川巳之吉と帝国図書館司書官林繁三 - 神保町系オタオタ日記

    図書館雑誌』昭和12年7月号の「彙報」欄で、第一書房の長谷川巳之吉が林繁三の紹介で日図書館協会の特別会員として入会していたことが判明。この林は、『簡約日図書館先賢事典』によると、 林繁三 はやし しげぞう 1896−1948 1籍又は生地:福岡、2最終学歴:1921/東大、3職歴:1927/台中州立図書館長,1929/図講聴講生修了,帝国図書館司書官,1945/退職,北海道水産会社に就職,1948/国立国会図書館部長に就任すべく上京中死去 昭和12年の帝国図書館というと松喜一館長に、岡田温、加藤宗厚、舟木重彦*1らが司書だった時代である。 林は長谷川郁夫『美酒と革嚢 第一書房・長谷川巳之吉』にも出てこない人物だが、どういう関係があったのだろうか。 美酒と革嚢 第一書房・長谷川巳之吉 作者: 長谷川郁夫出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2006/08/22メディア: 単行

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  • 小野忠重と本所図書館主任山田正佐 - 神保町系オタオタ日記

    坪内祐三氏も『週刊現代』の書評でほめてた駒村吉重『君は隅田川に消えたのか 藤牧義夫と版画の虚実』(講談社)。同書によると、小野忠重「回想の藤牧義夫」『藤牧義夫』(かんらん舎、昭和53年)に藤牧が昭和9年「隅田川両岸画巻」を描いたきっかけに関連して図書館長の山田正佐が出てくるという。孫引きすると、 その頃私の向島の家の近くの図書館長でまもなく日比谷図書館長となる故山田正佐さんの好意で、貴重書の「隅田川両岸一覧」が借りられて、私が彼に見せたのが直接の動機だった。館林から出ていらいほとんど隅田川周辺の東京にくらす彼が感激したのは当然であった。 小野が藤牧について書いた内容は、虚偽が多いとされるが、「貴重書」とある北斎の『隅田川両岸一覧』についても、大正6年の復刻版であることが、大谷芳久『藤牧義夫 眞偽』で明らかにされている。小野が山田の名前を出した意図は不明だが、山田の経歴を『簡約日

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  • 東京帝国大学附属図書館司書加藤素治=北原放二 - 神保町系オタオタ日記

    「雀隠れ日記」さんが、東京帝国大学附属図書館ネタを投入している→「北原放二」 そこに挙がっている北原放二(名・加藤素治)司書の同僚について、私の過去のエントリーをまとめると、次のとおりである。増田については、その後、書物蔵「屠れ米英われらの敵だ! 分捕れLCわがものだ!!`・ω・´)o ……。 ん?(・ω・。):図書館の日性論争(あったかもしれない大東亜図書館学 ; 3)」『文献継承』18号という決定版が出ている。 ・増田七郎 「東京帝国大学附属図書館司書増田七郎」(2007年7月8日) 「東大附属図書館司書増田七郎は増田義一の養子だった」(2010年2月17日) ・渋川驍(名・山崎武雄) 「東京帝国大学附属図書館司書渋川驍」(2007年5月11日) 「渋川驍が東大図書館を辞めた理由」(2008年6月22日) ・河合博・鈴木繁次 「図書館員も差配した中田邦造司書官」(2007年4月6

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  • 上海日本近代科学図書館の松井松次 - 神保町系オタオタ日記

    水島治男『改造社の時代 戦中編』に、上海日近代科学図書館の松井松次が出てきた。『改造』昭和12年10月号に「上海籠城日記」を書いた大和太郎という人物について、 戦争は長引くという。そこで上海在留邦人の生命をまもるため、軍務に関係のない非戦闘員は一時内地へ引きあげて、様子をみるようにとの通達があって、婦女子を中心として身よりをたよって東京へきたり、帰るため都合のいい長崎や神戸へ一時引きあげてきた人びとがあった。 「上海籠城日記」の大和太郎(ペンネーム)はその一人で、名は松井松次という。上海近代(ママ)日科学図書館勤務である。彼は東京についたその足で改造社をたずねてきて初対面だったが、私が面接すると上海市街戦の実況を話してくれたので、すぐとびついて原稿をたのんだ。 (略) 松井松次(前出)が上海近代(ママ)日科学図書館をやめて、東京へかえってきたとき、東亜公論社がはじまったばかりなので

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    wackunnpapa
    wackunnpapa 2011/07/28
    引用文中“中支の日本領事館警察を統轄していた島田叡副領事”とあるのは,戦前最後の沖縄県知事になり沖縄戦で戦死した島田叡その人。
  • 反ユダヤ主義を貫き通した四王天延孝 - 神保町系オタオタ日記

    小田光雄「古夜話112」は「 四王天延孝『猶太思想及び運動』と内外書房」。四王天のこのの出版祝賀会が昭和16年8月に開かれたことが、真崎甚三郎の日記に見える。 昭和16年7月17日 渡辺十二時半に来訪、来月四王天の著書出版の祝賀会を行ふにつき、予を発起人の一人に加はることを乞ふ。予は之を諾す。中野正剛も挙げられたりと云ふ。果して真か。 8月4日 十七時三十分松楼に至る。四王天中将の猶太思想及運動に関する著書の出版祝賀会に列する為なり。参会者百五十名余、盛会にして堀内、坂西中将、松島元大使*1、中島海軍中将、匠[ママ]瑳*2海軍少将、猪野毛代議士*3等の祝辞あり、最后に予の聖寿万歳を三唱して終り、二十一時半に帰宅す。 注:[ ]は、校訂者による註記。カタカナをひらがなに改めた。 四王天については私も何度か書いているので、経歴*4と併せて一覧にしてみた。 四王天延孝 しおうてんのぶたか

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  • 久米正雄「モン・アミ」の画家相澤八郎のモデル - 神保町系オタオタ日記

    武野藤介『文士の側面裏面』(千倉書房、昭和5年6月)の「誤失歩政策」は、久米正雄の「モン・アミ」について、 扨(さ)て久米正雄氏はこのチェッペリン伯飛行船に托して、小説「モン・アミ」一篇を「改造」へ寄稿して来たのだ。読んでみなくてもたいしたものではないことがわかつてゐる。 と揶揄している。実際にこの作品を読んだ小谷野敦氏も『久米正雄伝』384頁で、 『改造』に載った「モン・アミ」は、フランス到着以後の、画家たちとの交渉を描いたもので、相沢六(ママ)郎という、久米の知り合いの画家で鎌倉にいるパトロンから様子を見てきてくれと言われた男が、元娼婦のような女と同棲しているという話だ。出来は良くない。 と評している。さて、小説としてはつまらない作品ではあるが、登場人物のモデル探しは楽しい。既に、「久米正雄「モン・アミ」の登場人物を追って」(2010年10月2日)、「久米正雄と画家林倭衛」(5月23日

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  • 大正期日本のバハイ教徒 - 神保町系オタオタ日記

    『大七十年史 上巻』によると、 大とバハイ教との関係が最初にできたのは、一九二二(大正一一)年七月二八日、二代教主が伊豆にむかう途中のことであった。三島駅から大仁へむかう電車のなかで、二代教主の一行は、アンダ・エ・フインチという当年六六才の米国婦人にであった。彼女は三年前から、バハイ教宣伝のために来日しているということであった。 これが機縁となって同年の九月九日、突然フインチは綾部に二代教主を訪問した。(略) バハイ教のフインチが綾部にきてから、約八か月のちの一九二三(大正一二)年四月二二日に、彼女は同じバハイ教徒のルート女史をともなってふたたび大をおとずれた。 同書には「左よりフインチ 二代すみ子 王仁三郎 ルート 通訳・西村」とキャプションのある写真も掲載されている。バハイ教徒のフィンチやルートの名前は秋田雨雀の日記に見ることができる。 大正4年7月16日 福田君とともにアレキサ

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  • 久米正雄と共に東大英文科を卒業した面々のその後 - 神保町系オタオタ日記

    『東京帝国大学一覧 従大正五年至大正六年』で、東京帝国大学文科大学英吉利文学科の大正5年7月卒業者を見ると、 豊田實、芥川龍之助(ママ)、山崎大輔、近成多一、成瀬正一、鳴澤寡愆、長澤英一郎、伊藤堯識、久米正雄、工藤亀三郎、上野寵太郎、久野眞吉、鈴木榮源、宮城運作、浅井綱雄、北澤貞造、大場一司、岡田與三、内田信夫、元山嘉次郎 今では考えられないことだが、この順番は卒業席次順である。当時は、官報にも掲載された。この人達のうち、豊田、芥川、成瀬は、小谷野敦『久米正雄伝』に登場する。同書に登場しない人物のその後を、『第十四版大衆人事録』(昭和17年〜18年)で見ると、 長澤英一郎 明治22年1月生 学習院教授 伊藤堯識 明治22年9月生 大阪府立女子専門学校教授 工藤亀三郎 明治22年生 山形高校生徒主事兼教授(前掲書の索引には省略されているが、112頁に出ている) 久野眞吉 明治25年6月 弘前

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