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2011-10-16
金子光晴『詩人』(平凡社、昭和48年12月。初出は『ユリイカ』昭和31年10月号〜32年6月号)の「「明治」... 金子光晴『詩人』(平凡社、昭和48年12月。初出は『ユリイカ』昭和31年10月号〜32年6月号)の「「明治」という荒地の中で」によると、 肺尖カタルという病名で僕は、三ヶ月寝た。その頃僕は、保泉良弼、良親の兄弟と交際するようになった。保泉を僕に紹介したのは、中条辰夫だった。 この文学青年の一団は、『明星』を主流とした日本詩歌のロマンチシズムの後塵を拝する時代の人たちで、殊に保泉の兄の方は、『東京景物詩』*1時代の北原白秋のディレッタンチズムに心酔していた江戸趣味の文学青年達だった。その仲間には水上おぼろ、森れじな、福田辰夫、邦枝完二等がいた。彼らは吉原仲ノ町の引手茶屋を発行所にして、雑誌『丹前』を出していた。(略)中条は、ドストイェフスキー心酔で、耽溺的な、重苦しい性格の青年だったが、このグループのなかで、いちばんながく僕との交際がつづいた。彼は、日比谷図書館に勤めていたが、おなじ図書館に