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ブックマーク / jyunku.hatenablog.com (64)

  • 2011-03-03

    呉清源『以文会友』に、呉と小田秀人の世界紅卍字会訪問が詳しく書かれていた。 第五局が始まる前の昭和十七年三月初め、私は小田秀人さんとともに、宗教上の用事でおよそ二か月にわたり、中国大陸と朝鮮を旅行した。旅行のおもな目的は大陸の紅卍を訪問し、健在ならば「璽宇」もかつての大教のように、紅卍と宗教上の交流を求めようというものであった。(略) 当時、北京には青木一男先生が大臣をしている興亜院という日の行政府の出先機関があり、私たちは、その出先機関で大陸における宗教の動向を調査、監督する仕事を担当している志智嘉九郎を訪ねた。志智氏は橋(宇太郎)さんと親しく、戦後、関西棋院の理事を務めたこともある人で、私たちを快く迎えてくれた。彼は紅卍についていろいろたずね、私たちはそれに対してていねいに説明を加えた。 翌日、私たちは志智氏を伴なって紅卍北京総院を訪れ、世界紅卍会の最長老である許蘭洲氏に面会して

    2011-03-03
  • 2011-02-28

    小川平吉の日記に竹内文献と思われる記述があった。 昭和12年11月1日 夜入江氏来訪、晩餐を共にす。神代史、竹内文庫の談あり。 「入江氏」は、13年11月16日の条に「増田一悦、入江種矩氏等来訪」とある入江種矩と見てよいだろう。入江種矩は、大内義郷『神代秘史資料集成解題』によると、天津教の外郭団体と思われる昭和17年頃結成の皇道世界政治研究所の発起人の一人である*1。大内氏もあげている昭和16年版の『人事興信録』によると、 入江種矩 陸軍大尉、大政翼賛会東京府常務委員兼理事、日及日人政教社主幹、国体擁護聯合会委員長 明治16年12月生。明治38年陸軍士官学校を卒業し、陸軍少尉。大正3年同大尉。5年予備役。同年満蒙に渡り、満蒙王国建設運動に参画し、勤王師扶国軍古巴札布将軍の参謀長として南北満洲蒙古地帯に行動。同9年露領に入り、運輸交通水田開墾事業等に従事し、同15年帰朝。大陸問題国体明徴

    2011-02-28
  • 坪内祐三氏の「『東京の女』をめぐる謎」の質問に答える(つもりだった) - 神保町系オタオタ日記

    『ちくま』11月号の坪内祐三「[探訪記者松崎天民・第三部]8・『東京の女』をめぐる謎」には、次のように書かれている。 十数年前に私が作った松崎天民著作目録には、最初に『新聞記者修行』(明治四十三年有楽社)が載っていて、続いて『東京の女』(明治四十四年発禁? 改版は大正四年五月磯部甲陽堂)とある。 この「明治四十四年発禁?」という一節は私の憶測ではなく、誰だったか専門家の記述を元に書き込んでおいたのだ。 坪内氏は、従来『新聞記者修行』(有楽社、明治43年6月)が天民の第一著作で、『東京の女』は出る前に発禁になった、幻の書のはずだと思っていたという。ところが、今回『東京の女』(隆文館、明治43年1月)が国会図書館にあることが判明したという。しかし、同書が刊行されていたことは確認できたものの、古書展や古書目録などでも目にしたことがないことなどから、市場に流布していたかどうかは確証が持てないとして

    坪内祐三氏の「『東京の女』をめぐる謎」の質問に答える(つもりだった) - 神保町系オタオタ日記
  • 『中外』の内藤民治と民衆図書館 - 神保町系オタオタ日記

    黒岩比佐子さんの『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』は、黒岩版日文壇史といった感もあって、今面白く読んでいる真っ最中である。さて、同書は、大正6年内藤民治が創刊した『中外』について、売文社が手伝っていたと言及している。この内藤民治が、阿部次郎の日記に出てくるのだが、そこには「民衆図書館」という語句も出てくる。これについては、先に書物蔵氏には示したのだが、氏にもわからんということで、謎のままである。せっかくなので、広く公開して知恵者の教示を待つものである。 大正9年12月11日 来書(略)内藤民治 12月14日 来書−−(略)中外社(民衆図書館相談図書館の専門家でもない阿部にどういうことを相談したのか、不思議な記述である。 ちなみに、阿部は、明治40年7月東京帝国大学文科大学哲学科卒。この頃は、慶應義塾大学と日女子大学校で美学・文学の講師。 また、内藤民治は、明治39

    『中外』の内藤民治と民衆図書館 - 神保町系オタオタ日記
  • 柳田國男に群がる図書館人(その2) - 神保町系オタオタ日記

    再び、「ジュンク堂書店日記」から引用させてもらおう。 多少好評(?)だった柳田國男の『炭焼日記』に見るズショカンインの話の第二弾。 1 大西伍一(後の府中市立図書館長) (昭和20年) 3月 9日 大西伍一君来、「村のすがた」一そろひを托し、片山氏に見せしめ、又自著若干を小出博士の文庫におくり了ぬ。 5月16日 大西伍一君リヤカーにてをはこびに来る。是が六回目、(後略)。 5月24日 午後大西伍一君来、けふにてあらかたをもつて行く、七回目か。 7月20日 大西君来、もう大抵は渡し終る。 大西の略歴 大西伍一 昭和16年10月 東京高等農林学校事務兼授業嘱託 21年 6月 東京農林専門学校(東京高等農林学校改称。現在の東京農工大学)図書館事務 27年 4月 図書館司書資格認定(文部省) 36年 4月 府中市立図書館長 43年12月 同館退職 大西の回想(『私の聞書き帖』慶友社、昭和43

    柳田國男に群がる図書館人(その2) - 神保町系オタオタ日記
  • 柳田國男に群がる図書館人(その1) - 神保町系オタオタ日記

    お許しを得て、閉鎖中の「ジュンク堂書店日記」さんから孫引き。 柳田國男の『炭焼日記』にズショカンの関係者が何人か登場する。 1 中田邦造日比谷図書館長 昭和20年 7月15日 中田邦造君来、文庫疎開の話をして行く。信州高遠がよからうといふ話などをする。加賀豊三郎氏の文庫も引受けた話など、又多くの書庫の焼けたことなど。 7月20日 中田邦造君へ手紙、番地をきく也。 7月24日 夕中田邦造君来、を疎開する打合、沖縄関係のものを預けることにする*1。 7月26日 日比谷図書館々員、生徒隊をひきゐてをとりに来る。沖縄に関係するもの一切、西洋四国の民俗学会誌、民間伝承の会出版物若干、考古学雑誌一揃ひなどわたす。別れの心細いことはも人も同じ。 8月19日 中田邦造君来、先日のは四千何百円に買ふといふ。都の役人の一向働かぬといふ話をする。図書館協会の是からの活躍の話など。 9月13日 夜中田邦造

    柳田國男に群がる図書館人(その1) - 神保町系オタオタ日記
  • 大正期には日本に上陸していたホメオパシー - 神保町系オタオタ日記

    新聞の一面にホメオパシーに関する記事が昨今載るようになった。このホメオパシーがいつ日に上陸したかは知らないが、少なくとも大正6年にはその薬を飲んでいた人物がいる。エロシェンコ像で知られる中村彝である。大正6年10月19日付小熊虎之助宛書簡*1によると、 私には今、あのホメオパシーと言ふ文字が何かバテレンの神秘的な秘法の様に響きます。私は当分今までの薬を止しませう。何もかもこの学派の方針と命令に従つてやりませう。 翌月2日付伊原元治宛書簡には、「この頃は医師の薬を廃して「ホメオパシー」学派の薬を飲んで居ります(五日許り前から)」とあるので、10月下旬から飲み始めたようだ。結果が良かったようで、11月7日付小熊宛書簡には、 どうも薬がきいたらしく、皆なからも「僕の顔色や元気がこの頃違つて来た様だ」と言はれます。ほんとに不思議ですね。僕の主治医は「ホメオパシー」なんて要するに迷信だと申して居り

    大正期には日本に上陸していたホメオパシー - 神保町系オタオタ日記
  • 2010-08-16

    明治末から戦前にかけて田端に存在した天然自笑軒について色々情報が集まってきた。 まずは、「天然自笑軒引札」*1を書いた森鴎外の日記。 大正7年5月13日 月。驟雨。参館。往天然自笑軒。修賀古啓小祥也。 「賀古啓」は賀古鶴所ので、一年前に亡くなっている。その一周忌が自笑軒で開かれたということらしい。自笑軒では、芥川龍之介の死後、河童忌の法要が自笑軒の空襲による焼失まで開催されることになる。 坪内逍遥の日記にも出てくる。 大正7年10月17日 日高只一 来廿日 田端自笑亭小会の件につき来る 10月18日 日高 明後二十日の会延期 日暮里に住んでいた野上弥生子の日記には、 大正14年9月13日 朝鶴田氏来訪。引きつづいて大嶋氏来訪。お昼に自笑軒に招待する。大島氏法政の借金のことで(彼の義父平尾氏より)わざわざ来て下すつたのである。 この他、『文藝時代』1巻2号(大正13年11月)所収の「同人

    2010-08-16
  • もし書物蔵の畏友オタどんが戦後の堀内庸村を調べてみたら - 神保町系オタオタ日記

    高校野球の女子マネージャーがドラッカー『マネジメント』を読んだりするらしいが、ちと難しそうなので、わしは畏友書物蔵氏の堀内庸村に関する論考*1を読んでみた。 この論考によると、堀内は、1930年代に青年日社を創設、昭和16年青年文化振興会と改称。昭和21年1月に同会を再開したという。 青年文化振興会はよく知られた団体であったようで、昭和23年度版『文藝年鑑』(同年9月)の「中央文化団体」に、日米図書館懇話会などと共に、「青年文化振興会・千代田区丸ノ内ビル七〇四号「堀内庸村」」とあがっている。また、同年鑑の「文化人名簿」には、 堀内庸村(評論家) 杉並区東田町一ノ二二 長谷川武雄方、名健一 明治三三年七月十三日兵庫生、早稲田實業学校卒、青年文化振興会主幹、「日の反省」「青年文化運動の構想」 とあり、以後毎年の年鑑に登場する。青年文化振興会主幹の肩書きが消えるのは、昭和29年度版(同年7

    もし書物蔵の畏友オタどんが戦後の堀内庸村を調べてみたら - 神保町系オタオタ日記
  • 日米図書館懇話会と中田邦造 - 神保町系オタオタ日記

    タイトルからは想像できないが、金沢文圃閣の『戦後初期の出版社と文化人一覧第1巻』で、戦後初期の文化団体が判明する。同書で復刻された『戦後文化人名簿第三輯』(文化研究会、昭和21年6月)がそれだが、その中に日米図書館懇話会が出てくる。 日米図書館懇話会 麹町区日比谷 日比谷図書館長 中田邦造気付 一.目的 近時米軍によつて各所に図書ライブラリーの如く一般に知られてゐるものがあるのに鑑み、日米図書館関係者が参集し交歓並に図書館運営に関して連絡懇談を重ねるを目的としてゐる 二.活動 五月四日設立 毎月二回会合を開く 三.スタッフ 中田邦造(日比谷図書館長) 小林文部省文化課長 桑原同事務官 バーネット中尉(CIEライブラリー館長) バーネットは9月まで東京CIE図書館長を務め、帰国。22年10月に第2代図書館担当官として再来日*1。「秋岡日誌」(『秋岡梧郎著作集』)には、 (昭和二十一年)五月四

    日米図書館懇話会と中田邦造 - 神保町系オタオタ日記
    wackunnpapa
    wackunnpapa 2010/06/25
    呼ばれてた(^^;)。調べてみますー
  • 柴野拓美の父と満洲映画協会 - 神保町系オタオタ日記

    山口猛『哀愁の満州映画』に、昭和12年設立された株式会社満洲映画協会の設立経緯が書かれており、その中に映画対策審議会の審議委員や満映の準備委員だった関東軍司令部の柴野為亥知少佐なる人物が出てくる。この柴野少佐は、先日亡くなられた柴野拓美の父親ではなかろうか。 柴野へのインタビュー(『塵も積もれば 宇宙塵40年史』)によると、 柴野 ちょっと込み入った話になりますが、僕が書いた小説を父が読んで、「面白いじゃないか。これはあの男に見せてみよう」って、当時の新東宝という映画会社の専務だった山梨稔という人に見せた。この人は昔、父が満州で関東軍の情報関係にいた時に満州映画という会社を設立するのに協力した人です。 とある。柴野少佐は、陸軍士官学校を卒業しているようだ(「http://www.purunus.com/index.php/%E6%9F%B4%E9%87%8E%E7%82%BA%E4%BA%

    柴野拓美の父と満洲映画協会 - 神保町系オタオタ日記
    wackunnpapa
    wackunnpapa 2010/06/08
    ということは,山梨総務部長は甘粕正彦に歓迎の挨拶を途中で怒鳴りつけられて中止させられたという,そのひとだったんですね。
  • 広瀬正の「後家探し」 - 神保町系オタオタ日記

    先日の朝日の「売れてる」は、瀧井朝世氏による広瀬正『マイナス・ゼロ』の紹介だった。全集の復刻後、担当編集者の瀧川修氏が、墓前に報告に行こうとしたが、墓が見つからなかったという。広瀬の来歴には不明な点が多いともあった。柳田泉ではないが、「後家探し」をしてもらわねば。広瀬の担当編集者だった河出書房新社の龍円正憲氏*1によれば、未亡人は富美子といったという*2。亡くなる前年には「巳和子夫人(四四)との二人暮し」と記述した文献*3もあるが、再婚したのであろうか。生前の住所は、茅ヶ崎市中海岸2の4の8とわかっているが、未亡人はとっくに亡くなっているだろうか。未亡人のルートがだめでも、生前親しかったSF関係者で墓の所在を知っている人を探すという手段もあるか。 - 小路幸也「会うは同居の始めかな」(前編)『青春と読書』5月号に、神保町の<我藍堂>(がらんどう)という喫茶店が出てきた。どこかで聞いたよう

    広瀬正の「後家探し」 - 神保町系オタオタ日記
  • 島田謹二と安藤更生 - 神保町系オタオタ日記

    島田謹二の自伝「この道あの道」に、大正8年に入学した東京外国語学校英語学科時代のこととして、 特に仏語学科の連中は、隣の教室にいるので親しかった。常連は川村重和とか、安藤更生とかである。(略)安藤は後年美術史家として名をあげたが、そのころはもっと文学青年のハシリめいた感じの悪童で、人の特色を見抜いて初対面からからかう。親父は早稲田大学でフランス語を教えているから、いま売り出しの詩人なんて大抵知っているぜ、謹ちゃん、会いたいなら連れていってやろうかと気がるに一人で合点して、小石川駕籠町の西条八十邸にひっぱっていった。これが生き身の詩人なるものにお目にかかったはじめである。 とある。 安藤更生の父忠義は、明治から大正にかけて早稲田大学でフランス語の教授を務め、大正9年6月没。 - 今週の黒岩さんの書評は、原克『美女と機械 健康と美の大衆文化史』(河出書房新社)でした。

    島田謹二と安藤更生 - 神保町系オタオタ日記
    wackunnpapa
    wackunnpapa 2010/04/08
    引用文中に「川村重和」が出てきてびっくり。直接には存じませんが,逸話はいろいろ伺ってます(^^;)。
  • 東大附属図書館司書増田七郎は増田義一の養子だった - 神保町系オタオタ日記

    古川緑波、名郁郎。明治36年8月13日、元貴族院議員で、医学博士の加藤照麿の六男として生まれる。加藤家は、長男以外は他家へ養子へ出す方針だったため、満鉄役員の古川家の養子となる。郁郎の弟七郎も、増田家の養子となり、のち東大附属図書館司書となる。 この増田七郎を『第十四版大衆人事録 東京篇』(昭和17年10月)で見ると、 増田七郎 東京帝大図書館司書 小石川区原町一二五 [閲歴]男爵加藤成之弟、明治卅八年四月生れ、増田義一の養子となる。昭和三年東大文学部国文科卒業 [家族]豊子(明四四)、陸大将尾野實信二女、御茶水高女卒 とある。 増田義一というと、実業之日社の増田と同姓同名だが、同事典の増田義一の項を見ると、同一人物であった。衆議院議員、実業之日社・大日印刷社長の増田養子として、「七郎(明治三七[ママ])同豊子(明四四)」とある。念のため、実業之日社編『増田義一追懐録』の年

    東大附属図書館司書増田七郎は増田義一の養子だった - 神保町系オタオタ日記
    wackunnpapa
    wackunnpapa 2010/02/21
    うわ,これは驚いた! 忘れないようにしなければ.
  • ある建国大学生が見た新京特別市立図書館 - 神保町系オタオタ日記

    西村十郎『樂久我記−満洲建国大学 わが学生時代の思ひ出−』にある図書館が出てきた。 昭和17年9月5日 午後図書館に赴いての勉強となつたが、火曜日の演習発表に備えての外出であつたのに目的に叶ふ書籍はなく、やつと二冊に眼を通したが、満鉄の付属図書館としての頃ならば許されるにしても、一国の首都の代表図書館となつた以上は、もう少し整備してほしいものだと、不満の捌口を向けるのであつた。 この図書館は、満鉄立の新京図書館の後身である新京特別市立図書館と見てよいだろうか。 - テレビの「筆談ホステス」を見かけたが、話が重たくやめた。 - 河出ブックスから吉村正和『心霊の文化史 スピリチュアルな英国近代』が出てた。

    ある建国大学生が見た新京特別市立図書館 - 神保町系オタオタ日記
  • 元々社の最新科学小説全集に関するちょっとした発見 - 神保町系オタオタ日記

    河出ブックスもやってくれる。長山靖生『日SF精神史 幕末・明治から戦後まで』。 ハヤカワ文庫JAからは福島正実『未踏の時代』。 さて、福島の書を見ると、元々社の最新科学小説全集について、次のような記述がある。 一九五六年には、元々社は、佐藤享一を中心とする企画チームによって、その<最新科学小説全集>を出版しはじめた。(略)このシリーズは、最初非常な反響をよび、ジャーナリズムも、かなりの反応を示した。/だが元々社は、翌五七年、二十冊のSFを残してもろくも倒産し、殆ど同時に石泉社が倒産した。 「二十冊」は、より正確に言うと、長山の書にも書かれているが、最新科学小説全集が18冊(昭和31年4月〜32年2月)、宇宙科学小説シリーズが2冊(昭和32年10月〜12月)である。元々社(神田駿河台2-1)の最新科学小説全集は、第1期12巻に続き、第2期も12巻を予定していたが、6冊を刊行して中断。残る6

    元々社の最新科学小説全集に関するちょっとした発見 - 神保町系オタオタ日記
  • 「書物ブログ」の分類 - 神保町系オタオタ日記

    南陀楼綾繁『一箱古市の歩きかた』(光文社新書)で「書物ブログ」の分類がされていたので、幾つかのブログを当てはめてみた。 ・情報系 「退屈男とと街」 ・購書・読書日記系 「手当たり次第の棚」 「晩鮭亭日常」 ・古ネタ系 「古書の森日記」 「daily-sumus」 「古屋ツアー・イン・ジャパン」 「はほへほ旅日記・書物日誌」 ・調査研究系 「書物蔵」 「観覧車通信」 「森茉莉街道をゆく」 「黌門客」 ・現場系 「屋のほんね」 「古ソムリエの日記」 「古書現世店番日記」 「往来座通信」 「神保町が好きだ!」 ・著者・販元系 「を償うにをもってせよ」 「okatakeの日記」 「ナンダロウアヤシゲな日々」 「今日の平凡社」

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  • 財団法人日本文化中央聯盟による日本文化図書館設立計画 - 神保町系オタオタ日記

    学が中心となって設立した*1文化団体に日文化中央聯盟がある。『昭和十八年版日文化団体年鑑』(日文化中央聯盟、昭和18年12月)によると、 財団法人日文化中央聯盟 所在地 東京都麹町区内幸町二ノ一ノ三 大阪ビル新館八階 設立の目的及事業 肇国の理想に則り我国文化の総合進展を図り、其の真髄を発揮し之を中外に宣揚し以て国運の伸長並に世界文化の興隆に貢献することを目的とし、次の事業を行ふ (略) 三.日文化史、日文化百科辞典、其の他の著作、編纂翻訳出版等を為すこと 四.国史記念館、日文化図書館、日民族博物館其他の文化施設を為すこと (略) 役員 会長 貴族院議員・公爵 島津忠重 理事長 貴族院議員・法博 小山松吉 常務理事 香坂昌康*2、文部省総務局長 藤野惠 理事(抄) 文部省教化(ママ)練成所*3長 伊東延吉 貴族院議員 江口定條 大蔵精神文化研究所長 大倉邦彦 文部大臣・

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  • 東京貸出図書館という名の貸本屋 - 神保町系オタオタ日記

    明治末期から大正初期にかけて「東京貸出図書館」という会員制の私設図書館があったらしい。「東京貸出図書館」(無署名)『読書之友』2巻11号(読売新聞読書会、大正2年11月)によると、 銀座四丁目の角なる書肆教文館に沿ふて曲ると、ガラス窓にTOKYO LENDING LIBRARYと金字で書かれてある、その手前の入口の扉を押すと四辺に洋書物をぎつしり詰めた書棚がずつと並んでゐる、事務を取る人が居て、そこの会員になつてゐる人は随意に書物を選択して貸[ママ]りて行く事が出来る。 以下、要約すると、 蔵書:洋書のみ三千五百冊。ほとんどが小説で、歴史旅行記事、書簡類(西洋人による日案内記)、児童書もある。 会費:年会費七円で一度に二冊まで借りられる。地方の人は、年五円で郵送可(ただし、送料は自己負担)。 会員数:八十五名。うち、日人は二名。男性より女性の方が多い。 会長:英国大使館リリーグリーン

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  • 宮本常一の日記から見る戦後図書館事情 - 神保町系オタオタ日記

    常一の日記*1に出てくる戦後の図書館を見てみる。 昭和21年4月15日 それより西宮に行き田岡氏とはなす。田岡氏図書館長となる。 「田岡氏」は田岡香逸、「図書館」は西宮市立図書館と思われる。 昭和22年4月21日 バスで鳥取へ出て更に若桜行のバスにのり八東に行く。(略)坂尾正巳氏をとう。(略)坂尾氏は乃木、東郷の信者で、図書館など経営している。考はいいのだが視野は必ずしも広くないようである。(略)坂尾氏は山林経営家、出来ることなら更に高い理想を以て進んでいたゞきたいものである。 4月22日 朝、図書館を見る。下は山林組合になっている。(略)併し二階の書棚はあまりにも雑然としている。もっと整理出来ないものか。 「図書館」は不詳。戦後まもない頃の地方の私立図書館は、誰ぞでも調査は難しいかしら。 昭和23年2月7日 鳳−西宮。(略)清文堂へ寄って中江君にあい、郷里の図書館へ送るを18冊注文

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