ロシア、モンゴルの国境近く、東シベリアに位置するトゥヴァ共和国、エニセイ川河畔のに埋葬されていた匈奴の女性の遺体が発掘された。 ここはアラ・テイ墓地と呼ばれる古代の共同墓地で、遺体は2200年前のものと推測されている。興味深かったのは女性の遺体と一緒に埋葬されていた、宝石がちりばめられた魅力的な石炭製のベルトバックルである。 美しく装飾された石炭製のベルトバックル アラ・テイ墓地に埋葬されていた女性たちは石炭でできた、準貴石のサンゴや紅玉髄、トルコ石、翡翠などで美しく飾られた、長さ20センチの大きなベルトを身に着けて、死後の世界へ旅立ったようだ。 また、両肩にも火炎のような模様のある青銅の飾りをつけていた。 この画像を大きなサイズで見るimage credit: Marina Kilunovskaya この画像を大きなサイズで見るimage credit: Marina Kilunovsk
「核ミサイル開発を急ぐ今の北朝鮮に、当時の米ソ以上の慎重かつ確実な核兵器マネージメントを望むことができるでしょうか?」と語るモーリー氏 『週刊プレイボーイ』本誌で「モーリー・ロバートソンの挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、核戦争から世界を救った男のエピソードから、北朝鮮の核・ミサイル開発問題に言及する。 * * * かつて"世界を救った男"が今年5月、ロシアの首都モスクワ郊外の自宅で、77年の生涯に幕を閉じていたことが判明しました。 彼の名はスタニスラフ・ペトロフ。米ソ冷戦下の1983年、旧ソ連の戦略ロケット軍の中佐を務めていた彼の任務は、敵からの核攻撃を人工衛星で監視すること――つまり、アメリカやNATO(北大西洋条約機構)諸国から核弾頭搭載ミサイルが発射された場合、それを上官に報告するという立場にありました。 「事件」は83年9月26日深夜
戦争や人権侵害から必死の思いで逃れ、日本にたどり着いた難民達。彼らを受け入れる難民条約を批准しているにもかかわらず、日本は先進国中、最悪の「難民鎖国」だ。トランプ政権ですら今年度5万人の難民を受け入れ予定であるのに対し、ここ数年、日本が受け入れる難民は、年間で十数人程度にとどまり、過去最多1万人以上の申請があった昨年もたったの28人のみ。そして、難民不認定の烙印を押された人々は、日本から出て行くように言い渡され、入国管理局の収容施設に拘束されたり、時には迫害が待つ母国に強制送還される場合もある。 今月4日、在日の難民やその支援者らが法務省・東京入国管理局(港区)の前でデモを行い、入管に収容されている難民の仮放免を訴えた。独房に数か月にわたって閉じ込めたり、命にもかかわる持病を持つ者を十分なケアもなく拘束しているのだという。 〇難民の家族を引き裂く東京入管「パパを返してー」東京入管前の路上で
戦国武将の明智光秀が本能寺の変を起こしたのは室町幕府の再興が目的だったとする研究成果を、新たに確認された光秀直筆の書状を基に三重大学の研究者がまとめ、光秀が主君の織田信長を討った動機をめぐる研究の進展が期待されます。 これまで写しだけが残されていましたが、三重大学教育学部の藤田達生教授が調べたところ、筆跡などから光秀直筆の原本と確認できたということです。 書状は「六月十二日」の日付があり、位の高い人という意味の「上意」という言葉を使って、その人物が「御入洛」、つまり京都に来ることになると伝えています。 藤田教授によりますと、日付は本能寺の変の10日後にあたり、信長によって追放されていた室町幕府の将軍、足利義昭が京都に戻って来ることを意味しているということです。 藤田教授は書かれた日付や内容から、光秀が室町幕府を再興させるために本能寺の変を起こし、主君の信長を討ったのではないかと指摘していま
原爆被爆者で、何十年も被爆者の地位向上などのため活動し、 署名活動をしたり、デモに参加したという祖母。 滅多に他人の批判や悪口を言わなかったけれど、そんな祖母が生前に一度だけ、 明確に「許せなかった」話をしてくれたことがあった。 テレビで被爆者のドキュメンタリー映像を見ていた時のこと。 なんとなく、「やっぱり被爆者手帳って嘘ついて持ってる人結構いるの?」と聞いてみた。 原爆被爆者に対する補助はかなり手厚く、年金ならぬ被爆者に対する援助のために 死にかけの親を何とか生かしてくれと頼む家族もいるくらいの代物である。 祖母はあっさりと、「そりゃそうよ」と言った。 「あの人原爆に遭うてないよねって人もおったよ。でも証人がおれば手帳貰えたからね」 「なんという税金泥棒。そういう人ムカついたりせんかった?」 「そりゃ良い気分はしなかったけど、でもねえ、もっと許せん人がおったけえね」 おばあちゃんでも許
かって読上手いう概念があった。 読上手とはなにか? つまらない文章 価値のない文章 どうでもいい文章 こういった文章から『味』や『良い点』を探し出せる能力を読上手と言う。 かって人類は、あまり読むものを持っていなかった。上手くイメージできない人は、今と200年前の年間出版点数の違い想像してみて欲しい。読上手でなくては、乱読できない時代がかってあった。 今や人類は、読むものを無限に持っている。品質の低いものと遭遇したなら、別のものを読めば事足りる。読上手である必要はない。むしろ読下手の時代であり、WEBでちょっとした表現の齟齬を目の色を変えて探し出し、必死の形相で指摘することは、ひとつのエンタメになっている。 読下手でも幸せでいられる今は良い時代で、読上手でなくては読めない時代は不幸だが、無理して読下手になる必要もないのかなというのが最近の感想である。
そして仙寿となる。チェコ在住の100歳以上になった老人たちの若かりし頃の姿を比較したビフォア・アフター画像 記事の本文にスキップ チェコ出身の写真家ジャン・ランガーは、チェコ在住の100歳以上の老人の若かりし姿と現在の姿を並べるプロジェクト「Faces Of Century」に取り組んだ。 彼は、1世紀以上にわたる長い生涯を過ごす人々をテーマに、身体的な若さや老いの特徴のみならず、個人的な体験や強く心に残った思い出などを添え、永遠にも思える彼らの一人一人の人生を簡潔に示したという。 100年という月日がもたらす変化と不変。さまざまな角度から時間や人生、寿命について考えさせられるポートレート写真の一部がこちらだ。 1. 20歳/102歳 この画像を大きなサイズで見るimage credit:janlanger 名前:Ludvik Chybik 生年:1908年 元の職業:郵便配達員 現在の居
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2011年4月) 梅岩塾の様子(ガレリアかめおか・京都府亀岡市) 石田 梅岩(いしだ ばいがん、旧字体:石田 梅󠄀岩、貞享2年9月15日(1685年10月12日) - 延享元年9月24日(1744年10月29日))は江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の開祖。諱は興長。通称、勘平。丹波国生まれ。小栗了雲門下。 略歴[編集] 丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市東別院)に、父石田権右衛門、母たねの次男として生まれる[1][2]。1692年、8歳で京都の商家に丁稚奉公し、7ヶ月ほどで故郷に戻ったが、1707年には再び奉公に出て商家の黒柳家で働く[1]。1724年ごろ、石門心学と呼ばれる独自の哲学を樹立し、1727年には黒柳家を辞し、1729年(享保
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く