1910年(明治43年)、日本統治時代の台湾の台南県東石郡朴子街[4](現・嘉義県朴子市)に生まれる。父は呉獅玉(別名は呉阿獅)、母は呉千緑。父は資産家だったが、両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父・呉武のもと、台南市で育った。幼い頃から数字に異常なほど強い興味を持ち、足し算・引き算・掛け算を習得したという[5]。14歳で高等小学校を卒業[4]。学校と家が遠かったため、学生時代は東石郡守の森永信光宅に寄宿し通学した[6][7]。 「安藤百福翁像」 義務教育修了後、祖父の繊維問屋を手伝い、森永郡守の紹介で20歳ごろに町に初めてできた図書館の司書となったが2年で辞し、父の遺産で1932年(昭和7年)に台湾の永楽市場で繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立して内地から製品を仕入れて台湾で販売した[4]。当時の繊維業界の動きからメリヤスの需要が大きく伸びるという予測が当たり、事業