牧原憲夫氏は、足尾銅山が「生産合理性、経営合理性ではきわめて優れ」た、「当時の最先端技術を導入した近代的鉱山」だったことに注意を促している。 古河市兵衛は坑内外を民間初の電話で結び、選別機械や新型溶鉱炉を導入したほか、水力発電所を建設して排水ポンプ・巻揚機を電動化し、坑口と精錬所の間に電気鉄道を敷設した。また製品輸送のために、山を越えた日光との間をロープウェイで結び、東北本線を利用するルートを開発した。帝国大学卒の技術者や慶応出身の事務職も採用した。この時期、銅は生糸・茶などとともに日本の主要輸出品だったが、こうした努力の結果、九一年の産銅量は八八年の三七〇〇トンから七五〇〇トンに増大し、足尾だけで全国産銅量の三九%を占めた。労働者数も八三年の九〇〇人弱から九六年には一万人を超えた。「坑夫(タタキ)六年、溶鉱夫(フキ)八年、カカアばかりが五十年」と歌われたように、労働条件は劣悪で労働者の生
「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし。」(ここまでが引用) (真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし。) 田中正造が1912(明治45)年6月17日の日記に書いた言葉で、次の資料に記載されています。 ・『田中正造全集 第13巻 日記』 田中正造全集編纂委員会/編 岩波書店 1977 p.260 なお、上記資料の解題(p.547-558)によれば、この日記が書かれた当時は田中正造の最晩年。 治水問題へ熱心に取り組み、旧谷中村の遊水地化反対運動に関わっていた時期だったとのことです。 (谷中村は栃木県下都賀郡にあった村。1906(明治39)年に藤岡町へ併合。ちなみに、藤岡町は2010年に栃木市へ併合) Googleマップで谷中村を検索すると、「渡良瀬遊水地谷中村跡」という場所がありましたので、参考までにURLを記します。 http://goo.
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