タグ

田中正造に関するwhaleboneのブックマーク (11)

  • 伊方原発「死ぬまで反対」貫いた広野さんの資料、保存へ:朝日新聞デジタル

    伊方原発(愛媛県伊方町)の敷地にい込むように、四国電力に売却されなかった「畑」がある。いまは森になった。地主の男性は2005年に92歳で亡くなるまで原発反対を訴え続け、千点を超える資料をのこした。原発の建設が地元に与えた影響を物語る貴重な記録として、研究者らが保存に乗り出した。 伊方1号機の原子炉建屋の南約800メートル。瀬戸内海に滑り落ちそうな斜面の中ほどに、敷地と隔てる柵で囲まれた約1600平方メートルの森がある。農家だった広野房一(ふさいち)さんが四電に売らなかった畑で、今は親族が受け継いでいる。 伊方町は原発建設計画が明らかになった1969年7月、四電と「敷地の確保に関する協定」を結んだ。委託を受けた町が町議会とともに地主を説得。翌70年4月には65万平方メートルの地主計123人と契約締結が完了した――。87年発行の町誌は経緯を淡々とつづる。 広野さんは、大学ノートに売買をめぐる

    伊方原発「死ぬまで反対」貫いた広野さんの資料、保存へ:朝日新聞デジタル
  • 『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』 | 散歩の変人

    『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』(布川了 随想舎)読了。先日、足尾鉱毒事件の史跡をめぐって佐野周辺と足尾を歩き回ってきたのですが、その際にたいへん重宝したガイドブックです。まず史跡めぐりの心構えとして銘肝したい一文が「あとがき」にありましたので、紹介します。正造は、見学者の眼と心を次のように分類した。 以上の毒野も、ウカト見レバ普通の原野ナリ。涙ダヲ以テ見レバ地獄ノ餓鬼ノミ。気力ヲ以テ見レバ竹槍、臆病ヲ以テ見レバ疾病ノミ。 これは、死を覚悟して直訴しようとする三日前に、甥の原田定助に書き送った書簡の一節である。このガイドブックを手に歩かれる際、心していただければ、より真実が見えてくると思い、引用しておく。(p.134) 軽忽と臆病を排し、涙と気力をもって史跡と向き合う。しかと肝に銘じました。 書は、足尾鉱毒事件および田中正造に関する史跡を、足尾、日光、あかがねの道、東・黒保根・大間々、渡

    『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』 | 散歩の変人
    whalebone
    whalebone 2015/05/07
    『以上ノ毒野モ、ウカト見レバ普通の原野ナリ。涙ヲ以テ見レバ地獄ノ餓鬼ノミ。気力ヲ以テ見レバ竹槍、臆病ヲ以テ見レバ疾病ノミ』
  • 田中正造 - Wikipedia

    田中正造生家 田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日の幕末から明治時代にかけての村名主、政治家。日初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の重鎮であり[1]、明治天皇に直訴しようとしたことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、救済を政府に訴えた。 生涯[編集] 生い立ち[編集] 父の跡を継いで小中村の名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。なお、この時の牢は縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、立つことも寝ることもできない過酷な構造だった。翌年に出所。 明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角

    田中正造 - Wikipedia
  • 黒澤酉蔵 - Wikipedia

    黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月28日 - 1982年(昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(現在の雪印メグミルク)、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)の設立者。日の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、"日酪農の父"や"北海道開発の父"と呼ばれる[1][2]。 生涯[編集] 誕生、上京[編集] 生地跡に建つ酉和館脇の「黒澤酉蔵先生生誕之地」碑 1885年(明治18年)3月28日、茨城県久慈郡世矢村小目(現在の常陸太田市小目町)で貧しい農家の四人兄弟の長男として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父の飲酒癖がもとで負債までつくり家計は常に苦しかった。そんな家を母は、巡業などもして苦労して支えた。母は「お前は大酒飲みにならないよう

    黒澤酉蔵 - Wikipedia
  • 47NEWS(よんななニュース)

    自民・安倍派の刷新部メンバー、10人中9人が週内にも資金収支報告書を修正へ 首相の人選に求心力低下必至

    47NEWS(よんななニュース)
  • http://www.cnet-ga.ne.jp/syozou/

  • 「襤褸の旗」…日本百年のデジャ・ヴュ

    仕事が順調に進んだので、きょうは一日休みをとることができた。 しばらく映画を観ていないので、映画でも…と思ったが、 もうひとつ指の伸びるプログラムがない。 ポランスキーの新作にはちょっと興味を惹かれたが、 結局、京橋のフィルムセンターに、 吉村公三郎監督の遺作「襤褸の旗」を観に行くことにした。 三国連太郎が足尾鉱毒事件の田中正造に扮した作品である。 1974年に作られた映画で、封切りで観た覚えがある。 1974年といえばぼくが大学に入った年だが、 どんな感想を抱いたのか、いまとなっては明瞭な記憶がない。 ただ三国連太郎の限りなく狂気に近い熱演が印象に残っている。 この映画をもう一度見たくなったのは、 福島原発事故による放射能汚染の取材を続けているからだろう。 せっかくの休みだから 気分転換できるものを見ればよさそうなものだが、 どうも現実を引きずってしまって、そういう気にはなれなかった。

    「襤褸の旗」…日本百年のデジャ・ヴュ
  • 郷土博物館|佐野市

    佐野市郷土博物館のホームページは以下のリンク先に移動しました。 ブックマークなどの登録変更をお願いします。 =========== ■休館日 毎週月曜日(祝休日の場合は開館、翌日休館)、祝日の翌日(祝休日の翌日が土・日曜日の場合は開館)、年末年始、展示替え期間 ■開館時間 午前9時から午後5時 ■観覧料 無料(ただし企画展開催中は有料) ===========

    郷土博物館|佐野市
  • 足尾銅山鉱毒事件をめぐって 2 - heuristic ways

    牧原憲夫氏は、足尾銅山が「生産合理性、経営合理性ではきわめて優れ」た、「当時の最先端技術を導入した近代的鉱山」だったことに注意を促している。 古河市兵衛は坑内外を民間初の電話で結び、選別機械や新型溶鉱炉を導入したほか、水力発電所を建設して排水ポンプ・巻揚機を電動化し、坑口と精錬所の間に電気鉄道を敷設した。また製品輸送のために、山を越えた日光との間をロープウェイで結び、東北線を利用するルートを開発した。帝国大学卒の技術者や慶応出身の事務職も採用した。この時期、銅は生糸・茶などとともに日の主要輸出品だったが、こうした努力の結果、九一年の産銅量は八八年の三七〇〇トンから七五〇〇トンに増大し、足尾だけで全国産銅量の三九%を占めた。労働者数も八三年の九〇〇人弱から九六年には一万人を超えた。「坑夫(タタキ)六年、溶鉱夫(フキ)八年、カカアばかりが五十年」と歌われたように、労働条件は劣悪で労働者の生

  • 田中正造が言ったという、「真の文明は、山を荒らさず」の正確な文章を知りたい。 | レファレンス協同データベース

    「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし。」(ここまでが引用) (真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし。) 田中正造が1912(明治45)年6月17日の日記に書いた言葉で、次の資料に記載されています。 ・『田中正造全集 第13巻 日記』 田中正造全集編纂委員会/編 岩波書店 1977 p.260 なお、上記資料の解題(p.547-558)によれば、この日記が書かれた当時は田中正造の最晩年。 治水問題へ熱心に取り組み、旧谷中村の遊水地化反対運動に関わっていた時期だったとのことです。 (谷中村は栃木県下都賀郡にあった村。1906(明治39)年に藤岡町へ併合。ちなみに、藤岡町は2010年に栃木市へ併合) Googleマップで谷中村を検索すると、「渡良瀬遊水地谷中村跡」という場所がありましたので、参考までにURLを記します。 http://goo.

    田中正造が言ったという、「真の文明は、山を荒らさず」の正確な文章を知りたい。 | レファレンス協同データベース
    whalebone
    whalebone 2012/08/04
    福島県立図書館
  • 城山三郎『辛酸――田中正造と足尾鉱毒事件』 - heuristic ways

    この小説は1961年(昭和36)、今からちょうど50年前に発表されている。常盤新平氏の「解説」によると、当時は田中正造の存在はほんの一部にしか知られておらず、「公害という用語さえ、なじみのあるものではなかった」(中央公論社版の作者あとがき)らしい。 辛酸―田中正造と足尾鉱毒事件 (角川文庫 緑 310-13)作者: 城山三郎出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング発売日: 1979/05メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 23回この商品を含むブログ (15件) を見る  武田晴人『高度成長』によると、「深刻化する環境破壊は、五〇年代後半にはすでに熊県水俣地方の「奇病」の発生や、大気汚染、水質汚染、地盤沈下などの問題として認識されていた。しかし、これらが企業活動に伴って発生している人為的な加害に基づくものであるとの認識は薄かった」という。政府がようやく「有機水銀説を認め、水俣病

  • 1