このほど、2つのブラックホールが合体する際に発生した重力波が検出された。図はブラックホールの合体のシミュレーション画像。ブラックホールがお互いを飲み込む直前には、それ以外の宇宙全体よりも大きなエネルギーを放出する。(ILLUSTRATION BY SXS COLLABORATION) 100年におよぶ壮大な探し物に、ついに決着がついた。科学者たちはレーザーと鏡を使って、時空のさざ波「重力波」を直接観測することに成功した。 この重力波は、地球から約13億光年の彼方で、2つのブラックホールが互いに渦を巻くように回転して衝突したときに発生した。ブラックホールの1つは太陽の36倍の質量を持ち、もう1つは29倍の質量を持っていた。(参考記事:「21年後に巨大ブラックホールが衝突へ」) 重力波は池に生じたさざ波のように宇宙を広がり、2015年9月14日、地球上に設置された4組の鏡の距離に、ごくわずかだ
これもなーつかしいなあ(by佐藤允@独立愚連隊西へ!)。いまは廃刊になった雑誌「自然」の連載が中公自然選書になり、これも品切れになって岩波現代文庫で刊行された。残念なのは、中公自然選書に載っていた写真が削除されたこと。戦前の多くの研究所、大学、研究者、政治家などがのっていた。 中公自然選書(左)と岩波現代文庫(右) さて、科学史は通常学説史または個人史の集積として扱われる。この本での問題意識は「科学」がいかに、社会とのかかわりをもっていったかということ。「科学」と呼ばれるとき、その対象は大きい。方法や成果だけではなく、科学と実践する集団とそれに金と口を出す集団があり次世代の科学者を養成する集団がある。あわせて科学の成果を利用する、あるいは被害にある集団もある。こういう集団とのかかわりがこの国ではどのように行われたかをこの本で検討する。 もともと「科学」は少数の人々で行われてきた。生活に余裕
目の付け所が違うなあ。「あの戦争」を語るとなると、切り口はいろいろあれど、被害者か兵士であった日本人というところに落ち着く。空襲や機銃射撃、空腹、いじめ、買い出し、インフレ、物資不足、教練の記憶か、新兵訓練に外地派遣、死地、飢餓、収容所体験、そんな感じ。著者はそれはもちろん知っているが、でも戦争中にも庶民はいたでしょう(後述するように詐欺師も)と問いかける。古本屋で集めた雑誌に単行本を読みこなし、庶民の話題を集めてみると、そこには日常を残そうとする涙ぐましい、微笑ましい、愚かしい、ばかばかしいできごとがみつかる。なるほど、昭和20年になるまでは戦争は海の向こうの遠くにあって、それほど切実なものではない。ちょぼちょぼの生活が営まれ、平和時のわれわれとそれほかけ離れていない生活をしていたのだ、とわかる。この視点は重要。 取り上げられたトピックに寸評を交えて。 結婚相談所: 人口増と若い男性不足
明治時代、国家の近代化を目指す政府の殖産興業政策により、数多くの新産業が生まれました。 その1つとして、当時業績を伸ばしていた海運・貿易業に欠かせない海上保険会社を設立する動きがあり、1879年8月1日、資本金60万円をもって当社の前身である東京海上保険会社は誕生しました。 創業時の株主には、元徳島藩主蜂須賀茂韶以下華族団、岩崎弥太郎以下三菱関係者に加え、渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎などの一流財界人・華族など約200余名が名前をつらねていました。このように広範な株主構成をもつ企業であったため、いまでいうガバナンスの措置もしっかりと整っており、定款は取締役の権限と責任を明示するなど具体的で、分量的にも100条を超え、質量ともに充実していました。商法制定以前にこうした定款が作成されたことは画期的であり、その意味でも、わが国の本格的な株式会社の先駆け的な存在でした。 経営陣には、頭取に蜂須賀
130. 重力波検出の意義と今後の進展(2016/2/12) 重力波が検出されました。ここではその科学的意義と今後するべきサイエンス について解説し、私見を述べます。 まず、何がどのようにして観測されたか、ですが、 論文 にあるように、 36 太陽質量(太陽の質量の36倍)のブラックホールと 29太陽質量のブラックホール同士の合体です。起こった場所は正確にはわから ないですが、我々からの距離はわかっていて13億光年です。 何故重力波を観測したというだけでブラックホールであるとか質量とか距離が いきなりわかるのか、というと、ブラックホールの合体、というイベントを考 えると、その最重要なパラメータは質量です。合計の質量で最後の合体の瞬間 にでてくる重力波の周期が決まり、質量の比もわかると振幅の絶対値が決まります。 さらに、最後の合体の前の数回転でどれくらいの速さで軌道が縮んだか、とい うことか
リヒャルト・フォン・ミーゼス(Richard von Mises、1883年4月19日 - 1953年7月14日)は、オーストリア・ハンガリー帝国出身の数学者。流体力学、空気力学、航空工学、静力学および確率論に関する多くの業績を残した。 生涯[編集] 1883年、オーストリア・ハンガリー帝国領であった現在のウクライナのリヴィウに生まれた。現在のウィーン工科大学で学び、1907年に博士号を取得。第一次世界大戦中はオーストリア軍の航空機操縦士および航空機設計者として働いた。 戦後の1919年、ベルリン大学に新設された応用数学研究所に採用された。雑誌″Zeitschrift für Angewandte Mathematik und Mechanik″(『応用数学および力学雑誌』)を創刊し、自ら編集者となった。しかし、1933年にナチスが政権をとると、フォン・ミーゼス自身はカトリック教徒であった
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