タグ

ブックマーク / atamatote.blog119.fc2.com (3)

  • 「ブラタモリ」の裏側は現場力を持った最強チームが作っていた。 - 十三のいま昔を歩こう

    「ブラタモリ」が大阪にやってきた。 【ご報告】 大変光栄な事に案内人の1人として出演しております。 最初に連絡をいただいたのは真夏の7月。はじめてお会いしたディレクターさんは女性の方で、炎天下の中を午前中から日が暮れるまで上町台地を中心に、空堀商店街や真田丸跡、通天閣などを2日間ご案内しました。歩数を確認すると25,000歩と30,000歩。よく歩きました。その後、8月後半にもう1人のディレクターさんが加わり、その方もご案内しました。その時は1日でなんと38,000歩。今回は私以外にも大阪歴史をずっと研究されている方々も案内人として出演されます。ブラタモリの台はこのディレクターさん達が自分の足で歩き、調べ、様々な方とお会いして話を聞き、作り上げています。プロデューサーの方々は、その台をさらに良くするためにアドバイスをし、撮影から仕上げまでのすべての責任を持たれています。 この番組の特

    「ブラタモリ」の裏側は現場力を持った最強チームが作っていた。 - 十三のいま昔を歩こう
  • 大阪にも大津波・安政大津波(浪)碑 - 十三のいま昔を歩こう

    約150年前の先人が 我々に残してくれたメッセージ 大地震両川口津浪記石碑(安政大津波碑) 9月4日の淀川です。 各地に大きな被害をもたらした台風12号が去った後。 あふれんばかりの水位ですね。 (asahi.com) そういえば先日、大阪府が将来くるであろう津波の高さの想定を2倍にしたというニュースがありました。防災について関心が高まっています。 ところで大阪に大津波が来た歴史はあったのだろうか? 大正橋東詰、ここに安政大津波の碑があります。 安政2年(1855年)7月に建立されている。 その前年、嘉永7年(安政元年1854年)11月に大地震による大津波が大阪を襲ったようです。 大地震両川口津浪記。 裏面と側面にはびっしりと文字が刻まれている。 当時の被害状況がこまかく記録されているのだ。 これには全文が書かれているがちょっと今の時代の人には読みにくいかも。 これは読みやすい。 大地震両

  • 大阪砲兵工廠って? - 十三のいま昔を歩こう

    大阪砲兵工廠って? 大阪城公園内にレンガ造りの古い建物があります。ここは旧大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)の化学分析場跡なのだそうです。「大阪砲兵工廠って何?」恥ずかしながらそれが何なのかを最近まで知りませんでした。 大阪砲兵工廠とはいったい どういう施設だったのでしょうか。 一般的に大阪砲兵工廠と呼ばれていますが、名称は何度か変わり最終的には大阪陸軍造兵廠となります。明治新政府が発足と同時に設立した兵器工場(主に大砲や弾丸等を製造)で、発足当初から西欧先進諸国の高い技術水準に追いつくため、明治新政府の採算を度外視した投資と諸外国の最新技術が投下されました。その成果は年を追うごとに大きな進歩と発展を遂げていき、兵器以外の金属製品も製造していきます。明治28年、大阪市民に水道の水を供給可能にした鉄管は、高度な鋳造(ちゅうぞう)技術を持った大阪砲兵工廠が製造(約半数は輸入品)。明治時

  • 1