『上原紀善詩集』 しなやかな身体リズム2012年5月6日 Tweet 上原紀善詩集(脈発行所・1200円) 「現代詩」はヨーロッパにあり、アメリカにあり、そして東京にありという時代が一世紀ほども続いてきたが、この頃はマイノリティーの反撃が足腰を据えてきた。その反撃の一角を切り開いてきたのが上原紀善の反骨である。 彼の詩は、日本語への同化政策によって冥界の隅に追いやられようとするウチナーグチのリズムを復活させる試みである。ウチナーグチのリズムは、知識人の計算された概念ではなく、生産現場の庶民の身体リズムである。 この詩集には、『開閉』『サンサンサン』『ふりろんろん』『原始人』『嘉手志』『燃える緑』『未完』の各詩集から選詩して収録してあるが、どの詩編にもウチナーグチのリズムが脈打っている。著者から詩集の寄贈を受けたお礼に、そのころ興味を持っていた「秀真文字」(ホツマモジ)のはがきを送った
地域 カメ失踪、フェイスブックでスピード解決2012年4月30日 Tweet フェイスブックの力で飼い主の元に戻ったトビオちゃん=25日、宮古島市のシーサーモノガタリ 【宮古島】柵を乗り越えて行方不明になってしまったカメ。失踪劇のスピード解決に、インターネット交流サイト「フェイスブック」のつながりが大きな力を発揮した。 失踪したのは、宮古島市の陶芸工房「シーサーモノガタリ」の安井球真さん(35)の飼うメスのケヅメリクガメのトビオちゃん(6)。動きがゆっくりで威圧感もなく、工房に来る子どもや観光客にも人気だ。7日、朝の店内掃除の際に、店近くの芝生に放されていたが、金網の柵を乗り越えて「脱走」した。これまでにも何度か柵を乗り越えたが、草食で動きが遅いため、店の近くで文字通り道草を食っているところですぐに見つかっていた。 しかしこの日は、午前11時ごろにたまたま通りがかった池間智さん(32
南風 コラム「南風」 琉球語のなかの中国語2012年4月20日 Tweet 琉球語には多くの中国語があると信じられている。ここでいう中国語とは、中国から直接琉球に入った言葉を指す。沖縄の研究者も言うのだから、そうだろうと漠然と思っていた。そこで、確信を得るためにこの状況について調べてみた。 時に研究は当初の予想を裏切る。先行研究は極めて少なく、そこで挙げられる例を言語学的にみると、直接中国に由来しない例が数多く含まれていた。調べれば調べるほど、否定的な結果が出た。ツハーラ(チュハーラ)は、本家の中国語にそうした表現が存在しない。シーミーは確かに中国に由来する習俗だが、言葉は中国語(チンミン)より日本語(セイメイ)との関連が強い。ハーリーも習俗自体は中国起源だが、琉球語の発音に対応する言葉が本家中国語には存在しないのである。 結論として琉球語に残る中国語はサンピン茶の「香片」など料理や
地域 香り高く軟らか ヤギ薫製を特産に2012年2月29日 Tweet ヒージャーの薫製を食べながら味や今後の展開などを語り合う親川敬副市長(左から2人目)、伊東繁校長(同4人目)ら=17日、名護市大中の津嘉山酒造所施設 爆破レンジで処理した後、薫製にしたヤギ肉 【名護】沖縄工業高等専門学校の伊東繁校長が熊本大時代に開発した「爆破レンジ」を使って調理した「ヒージャー(ヤギ肉)薫製」の試食会が17日、名護市大中の国指定文化財「津嘉山酒造所施設」であった。親川敬副市長はじめ市の産業部担当者や観光協会関係者らが集まり、香り高く肉質も軟らかい薫製を味わった。高専は名護市の新たな特産品として、同市勝山のヤギ肉活用を提案しており、将来は市と連携して全国に発信する考えだ。 ヤギ肉はこれまで、そのまま調理すると肉質が硬くなり薫製に向かないとされてきた。だが密閉した水中に3500ボルトの高電圧を一瞬で放
政治 知事「削除撤回せず」 32軍司令部壕 説明板記述問題2012年2月25日 Tweet 県議会2月定例会代表質問で、文言の削除について「撤回しない」と答弁する仲井真弘多知事=24日、県議会 県が第32軍司令部壕説明板設置検討委員会(会長・池田榮史琉球大教授)がまとめた司令部壕説明文から「慰安婦」と日本軍による住民虐殺の記述を削除した件で、仲井真弘多知事は24日、県議会2月定例会代表質問で「慰安婦、虐殺で異なる証言がある中で、県が責任を持つ説明板でそれを入れるのは適切でないと考えている。(文言削除は)撤回しない」と述べた。下地寛環境生活部長は説明板の文言を考える上で「沖縄戦全体の意味については検討していない」と答えた。嘉陽宗儀氏(共産)への答弁。 文言や記述削除の過程で、県平和・男女共同参画課は沖縄戦の関連書籍などを参考にしたものの、沖縄戦を記録した日米の公文書の確認や同委員との討議
社会 32軍壕説明板 「壕内に多くの女性」 戦争体験者 丁寧な検証訴える2012年2月25日 Tweet 説明板が設置される第32軍司令部壕の第1坑口付近。坑口は残っていないが写真中央のトーチカ跡周辺に建てる予定=23日、那覇市の首里城公園内 「沖縄戦全体の意味を検討しなかった」。県議会2月定例会で、下地寛環境生活部長が答弁したことで明らかになった第32軍司令部壕説明板の内容に関する県の検討姿勢。「慰安婦」や日本軍による住民虐殺の文言削除で、丁寧な検証が行われなかったことに県内からは反発の声が広がった。文言削除を求めるメールなどが影響したのではとの指摘も。当時、32軍壕に多くの女性がいたことに関し複数の証言もあり、沖縄戦研究者は「事実のねじ曲げだ」「クレームをつけた側の思惑通り」などと批判した。 鉄血勤皇師範隊として沖縄戦に動員された元学徒は、第32軍司令部壕に多くの女性がいたと証言す
新年が明けて間もなく、作家の大城立裕さんからEメールが届いた。琉球新報に掲載された私の記事とコラムを「とても興味深く読みました」とのメッセージで、さらに「去る10月にハワイで拙作『カクテル・パーティー』の戯曲の朗読劇を上演していただく光栄に浴しました。 公演に尽力してくださったハワイ大学のスチュアート教授は、これをカリフォルニアでも上演できないかと、ウエウンテン教授などに相談しているそうですが、みなさんのお力で実現すれば有難いと思います」と続いていた。 その翌日大城さんはハワイ公演の感想文や戯曲のアウトラインなどの情報が盛り込まれたウェブサイト4個をEメールで送付してきた。私は一応目を通してから県人会の理事役員に転送して、理事会で検討してくれるよう要請した。山里勝己琉球大学教授にも同時に送付した。 山里教授は、昨年12月27日付琉球新報社説にあった「作家の大城立裕氏の芥川賞受賞作『カクテル
社会 大型書店勤務から…“日本一狭い”古本屋店主に2012年1月12日 Tweet 沖縄本を手に、「日本一狭い古本屋・ウララ」のカウンターに立つ宇田智子さん=那覇市牧志 那覇市の牧志第一公設市場前で営業する小さな古本屋「ウララ」。「日本で一番狭い」と言われた古本屋「とくふく堂」の後を継ぎ、昨年の11月11日にオープンした。店主の宇田智子さん(31)はジュンク堂書店那覇店の元副店長。国内有数の大型書店勤務から日本一狭い古本屋の店主へ。受け持つ売り場面積はわずか1000分の1程度になったが「欲しい本があれば気軽に尋ねてほしい」と話している。 畳3畳分の店内に約3千冊の古本が並ぶ。7割が沖縄に関する「沖縄本」だ。ジャンルはグルメから歴史までと幅広い。通りすがりの地元の人に「こんな面白い本があったんだ」と言われるとうれしい。道を聞かれるなど本以外のことで話し掛けられることも多いが、「お客との距
社会 「牡丹社事件」説明板 撤去を “武器持った”宮古島民2011年12月23日 Tweet 「武器を持った66人の成人男子が部落にやってきた」と記されている 野原耕栄さん 牡丹社事件の経緯が書かれた説明板 1871年、台湾南部で、宮古島住民ら54人が先住民に殺害された「牡丹社事件」に関し、台湾現地の公園内に設置された事件の経緯を記した説明板の内容の一部に、不確かな部分があるとして、宮古島住民の遺族が同部分の削除か説明板の撤去を求めている。指摘されているのは、船が遭難したため台湾に上陸した宮古島住民66人の記述で「武器を持った66人の成人男子が部落にやってきた」と書かれている部分。遺族は「伝聞や書物にも『武器を持った』と書かれたものは見たことない。確認されていないことが事実として表記されると歴史が正しく伝えられない」と困惑している。 指摘した遺族は宮古島の有力者だった野
芸能・文化 『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ』 歴史の「谷間」埋める分析2011年11月20日 Tweet 『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ』知名町教育委員会編 南方新社・2625円 本書は薩摩の琉球侵攻400年を記念して行われたシンポジウムをベースに、「琉球世」から「大和世(薩摩世)」への時代の変遷を学者たちの発言や研究をもとに一冊の本に編さんしたものである。この企画の推進役でもある前利潔氏が所属する沖永良部島知名町の教育委員会が中心になってまとめたものだ。薩摩や琉球の歴史に関しては資料や書物は数多いが、その「谷間」に存在してきた奄美に関しては歴史的空白となっている部分が多いこともあって、興味ぶかい分析がなされている。 中でも印象的だったのが、沖縄学、琉球学の権威とされた伊波普猷による薩摩支配を否定的にとらえた学説に異議を唱えている点だ。例えば、薩摩の異化政策だっ
芸能・文化 『近世琉球中国交流史の研究』 ミクロの視点で諸相講究2011年10月30日 Tweet 『近世琉球中国交流史の研究』深澤秋人著 榕樹書林・9870円 本書は、近世における琉球と中国の関係を、琉球人の居留地に着目すること、派遣された使節を再現すること、薩摩・琉球・福州をとりまく海域のなかで捉え直すこと―を柱として分析したものである。 内容は広範囲に及ぶが、本書の特徴を簡単にまとめると次のようになる。 第一に、琉球使節の居留地である福州琉球館を福州という都市空間のなかに位置付け、その歴史的変遷およびその機能を明らかにした点である。とりわけ福州琉球館が生活・行政・儀礼・祭祀(さいし)といったさまざまな機能を持った空間であったとする指摘は、琉球人の福州における活動を考える上で重要である。 第二に、渡唐使節など中国に赴いた琉球人を詳細に分析したことである。ことに従人(従者)や留学
ザンビアに移住し、修士号を取得した高良初子さん=15日、那覇市小禄 70歳を過ぎて大学院で修士号を取得した県系1世の女性がいる。アフリカ南部のザンビアに移住した高良初子さん(77)=那覇市小禄出身=だ。研究テーマはザンビアの労働歌。研究生活は苦労の連続だったが「沖縄の女性であるという誇りが支えてくれた」と高良さんは語る。 高良さんは1977年に初めてザンビアの盲学校を訪問。その後、ザンビアに移住し、教育支援活動を行ってきた。活動を通して「ザンビアで生きていくからにはこの国の伝統を知らなければならない」と考え、ザンビア大大学院に進学。アフリカ文学を専攻し、2007年修士号を取得した。 労働歌をテーマにしたのは沖縄への思いから。「ザンビアの労働歌を収集する過程で、沖縄をよく思い出した。戦前、沖縄の人たちも労働しながらよく歌を歌った」と語る。 ザンビアと沖縄の若者たちへは「先達に学んで、外に目を
芸能・文化 『南沙織がいたころ』 長年の違和感が氷解2011年10月16日 Tweet 『南沙織がいたころ』永井良和著 朝日新聞出版・814円 沖縄出身の新人歌手として紹介された南沙織を初めてテレビで見たときの不思議な違和感があった。小さくリズムを取りながら「♪誰もいない海、2人の愛を確かめたくて―」と歌い、長くサラサラした髪を揺らし、キラキラと輝くまっすぐな瞳がとても印象的で、今までと何かが違うタイプの歌手がブラウン管の中で歌っていたからである。 南沙織が『17才』で歌手デビューしたのは沖縄が本土へ復帰する1年前の1971年。浅黒くエキゾチックな顔立ちと、異国からの支配を離れて日本へ帰属することが決まった沖縄出身ということで話題性もあって、マスコミにいろいろ取り上げられていた。当時の沖縄は今ほど認知されておらず、東京で活躍する南沙織はある意味1人で沖縄を背負った感(たぶん)でテレビに
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