32歳差の“王者”二人が激戦を繰り広げた王将戦。レジェンドと呼ばれ始めた挑戦者は、敗れてもなおどこか嬉しそうだった――。かつてタイトルを争った二人の同世代棋士は、羽生善治の姿に何を感じ取ったのか。 発売中のNumber1085号掲載の[森内九段、深浦九段が見た王将戦]羽生善治「その笑顔は未来を照らす」より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文はNumberPREMIERにてお読みいただけます】
盤上に人生の全てを捧げ、4期死守した王座の地位。永瀬拓矢の王座奪取に現れたのは、棋道を追究するパートナーであり、畏敬する最強の相手・藤井聡太だった。死闘を終えた深夜ごとに、電話で心の内を聞き続けた記者が「声の記憶」を辿る。 発売中のNumber1085号掲載の[王座戦直後の肉声130分]永瀬拓矢「失冠の痛みはあまりない」より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文はNumberPREMIERにてお読みいただけます】 王座を失った永瀬拓矢への拍手 将棋に関する忘れられない音の記憶がある。 一つは2017年6月26日、藤井聡太がデビュー以来29連勝の新記録を達成した時のことだ。18畳ほどの東京・将棋会館「特別対局室」には約150人の報道陣が詰めかけており、わずか14歳で棋界の歴史を動かした少年の表情を捉えようと殺気立っていた。スチールカメラのシャッター音は途切れることがなく、寄せては返す波の
「弘法も筆の誤り」という諺は、その道に長じた達人でも時には失敗することがある、という意味である。それと同様に、盤上で緻密な読みで高度な技を見せる将棋のプロ棋士でも、信じられないような反則や、勝敗に直結する“ポカ”を犯すことが稀にある。田丸昇九段がプロ公式戦で生じた色々な実例を挙げながら、反則手を指した背景を探ってみる。【棋士の肩書は当時】 「これ、もらっておくね」と相手玉を 第1図は、1963年のA級順位戦・塚田正夫九段と大野源一八段の対局での終盤の部分局面。両者の玉に王手がかかっている。 これは、いったいどうしたのか……。
スターダムは4月23日に横浜アリーナで『ALLSTAR GRAND QUEENDOM』と題したビッグマッチを行う。女子プロレスが横浜アリーナを使用するのはこれが9回目で、20年ぶりの開催になる。スターダムのエグゼクティブプロデューサーを務めるロッシー小川は、そのすべてにかかわってきた。その中には、1993年4月2日の北斗晶vs神取忍の一戦もある。あれから30年が経過した今、大流血を伴った“伝説の試合”について語ってもらった(全2回の1回目/後編へ)。 試合開始は23時過ぎ…北斗晶vs神取忍のウラ側 「名前的には、神取忍の方が上でした。1993年の全女(全日本女子プロレス)の25周年記念大会。あれが横浜アリーナを使った2回目(1回目は1989年5月の長与千種の引退試合)です。1992年の11月に川崎市体育館でプレオールスター戦みたいなのをやった。旗揚げして間もないLLPWの風間ルミと神取が来
05年、王貞治初代侍ジャパン監督から出場の打診を受けた。シーズン終了後、直接、王監督の携帯へ返事の電話を入れた。だがこの時、イチローさんに少しの“ミス”があった。携帯の非通知設定の解除を忘れてしまったのだ。誰からの連絡であるかわからない。にもかかわらず『世界の王』は電話をとった。当時、イチローさんが王さんの人間的大きさを表現する際に口にした“直電秘話”だ。WBCと侍ジャパンはここから始まった。 「当時はWBCなんて誰も分かってくれなくて、気の悪い思いもした。時間が経って前に進んでいる感触があるのは野球界にとっては良いもの。世界大会のトップ(頂点)として野球選手が目指したい場所になってほしいという思いには変わりないですが、それは選手の熱意次第です」 熱意と覚悟。WBCも回数を重ね、少しずつ理想とするものへ近づきつつある。日本には確実に根付いた真の世界大会への意識。今大会に臨んだ侍ジャパンのメ
武藤敬司の引退試合で、最後の最後にリングに上がることをサプライズ指名された蝶野正洋。必殺技のSTFで武藤敬司をギブアップさせ、「闘魂三銃士」のフィナーレを飾ったのだった。新日本プロレスに同日入門し、「闘魂三銃士」として名を馳せた蝶野と武藤は、その後、袂をわかちながらも時に盟友として、時にライバルとして道を歩んできた。 その経歴を描いた「[ナンバーノンフィクション]蝶野正洋の距離ーー闘魂三銃士の25年」(初出:Number1037号/2009年9月17日発売)を3回シリーズで特別に無料公開します。<全3回の1回目/#2、#3へ>
20歳の藤井聡太五冠にタイトル通算99期の羽生善治九段が挑み、“天才対決”と称される第72期王将戦。ここまで4局が行われ、2勝2敗のタイ。さらに主催新聞社の「勝者の記念撮影」もSNS上で話題になっている。第3局で副立会人を務めた高見泰地七段に、“レジェンド”羽生善治九段について聞いた。(全3回のうち第2回/「藤井将棋」編は#1、続きは#3へ) 初めて指導対局、相手は羽生善治だった 今年1月から始まった王将戦で通算タイトル100期を懸けて藤井聡太五冠に挑んでいる羽生善治九段。昭和の終わりから平成の時代、将棋界の頂点に君臨したスーパースターであることは誰もが知るところ。そして高見泰地少年(現七段)も、幼少期に羽生のスター性を目の当たりにした1人である。 時は2001年のことである。 「実は、将棋で初めて指導対局をしてもらったのは羽生先生なんですよ」
武藤敬司が、長いプロレスラーとしてのキャリアにピリオドを打った。1984年10月5日、越谷市立体育館でデビューした男は、2023年2月21日、東京ドームで最後の試合を終えた。 よく武藤は「天才」と言われるけれど、筆者はそうは思っていない。武藤はムーンサルトでもなんでも器用にこなせた。でも、武藤が武藤になるには、地道な積み重ねがあった。武藤の飄々とした表情や、あっけらかんとした言い回しがまるで何もしていないように感じられて、「天才」という印象が広まったのかもしれない。
以降の武藤はスキンヘッド姿にアゴヒゲをたくわえた姿こそをトレードマークに21世紀のプロレス界を驀進。あれから23年、今や武藤といえば長髪時代よりも、真っ先にスキンヘッド姿を思い浮かべる人のほうが多いはずだ。 欽ちゃんや加トちゃんが着けてたハゲヅラ プロレス界に限らずだが、海外ではユル・ブリンナーやブルース・ウィリス等々、スキンヘッドを売りとする主役級の俳優は多いのだが、こと日本国内だとこれがなかなかいない。スキンヘッドは僧侶や老人の記号となってしまうし、デン助(大宮敏充)や加トちゃん(加藤茶)、欽ちゃん(萩本欽一)らがコントで着用するハゲヅラを挙げるまでもなく、笑いを呼ぶアイテムとして機能してきた歴史もある。プロレス界においてもスキンヘッドは悪役、もしくは脇役でしか存在しなかった。 武藤はもともと坊主にもスキンヘッドにも抵抗がないタイプ。入門時(武藤は84年4月)こそ、慣例に従って新弟子は
「初めてイメージが浮かんだんです。ゴールドコーストで谷川先生と指せるんだよなって。無邪気で新鮮な喜びでした」 「茶髪の挑戦者」と話題を呼んだ25歳は豪州で七番勝負の開幕を迎えた。ビーチでサーフボードを抱え、動物園でカンガルーやコアラと戯れた。一緒に記念撮影に収まる竜王・名人の谷川浩司は小さい頃からの憧れだった。 「相手が竜王・名人だろうが、憧れの人であろうが」 初めての和服に袖を通した一局。後手の陽動振り飛車に対し、積極果敢に攻勢を取る。2日目午前、真田が指した決断の一手は後に語り草となる▲4一金だった。封じ手の夜に導き出したのは筋悪とされる一段金。谷川を長考に沈ませ、シリーズ決着後に「絶妙手」と回想させる一手だった。 「勇気は要らなかった。最大限に感性を研ぎ澄ましたら悪い手ではないと分かった」 かつては自分が眺める立場だったBS放送の視聴者を驚かせたが、谷川は強かった。懐の深い終盤力に屈
羽生の四段昇段直後、「将棋世界」が企画した『東西天才少年激突三番勝負』。そこで再び、相まみえる。結果は羽生の2連勝だった。 語るべきは第2局。終盤、劣勢の羽生が鮮烈な一手を放つ。▲3九角。大駒を捨てたのだ。阿部がこれに食いつくと、たちまち形勢逆転。投了へと追い込まれる。この手は『羽生マジック第1号』とも言われている。 「まぁ、私が甘すぎましたね」 それでもまだ、東のライバルを恐れてはいなかった。ところが、わずか1年足らずのうちに、羽生は別人になっていた。自分と比べて、角1枚強くなっている。阿部は素直にそう感じたという。 「序盤や中盤を学んだんでしょうね。その知識を蓄えただけで格段に強くなってしまった。たったの1年で。プロのレベルでは考えられないことですよ」
当事者たちにしか知り得ぬ世界がある。中終盤の形勢不利を覆す、羽生善治にしか指せない絶妙手――“羽生マジック”という棋界の奇怪は、対局者の目にどう映っていたのか。 プロ35年目。53歳となったベテランの中川大輔には、羽生と盤を挟んだ伝説の一局がある。2007年、第57回NHK杯2回戦だ。 加藤一二三の「迷」調子を生んだ、まさかの頓死 中盤から形勢は中川に傾き、慎重に手を進めながら敵玉を追い詰めていく。勝利は目前。解説者の加藤一二三が終局を待たずに羽生の敗因を語り出すほどだった。 ところが、だ。羽生の指し手を見た加藤がしばしの沈黙の後、にわかに慌てふためく。▲2二銀――。 「あれ? 待てよ、あれ? おかしいですね。あれ、もしかして頓死? ひぇ~! これ、頓死かもしれません。なんと……。銀桂に歩が3つあって、ぴったり間に合いますから。これは大逆転ですね」 思わず吹き出しそうになる「迷」調子。ただ
「(野村克也は)死ぬまで僕の悪口を言ってました。南海で一人前にしてくれたし、尊敬していますけど、内心はこの野郎って思うじゃないですか。あんた、いつまで言ってるのって」 野村克也の逝去から3年が経とうとしている。そんな中、南海ホークス・野村克也の選手兼任監督時代を知り、交友歴48年に及ぶ江本孟紀は、野村に過剰な称賛も不要な非難もしない。エモやんが“ノムさんへの複雑な感情”をありのまま解き放つ。(全3回の3回目/#1、#2へ) ※敬称略、名称や肩書きなどは当時
中邑真輔の“アイドル”だったグレート・ムタ 2023年1月1日、日本武道館で行われた引退間際のグレート・ムタとWWEの中邑真輔(SHINSUKE NAKAMURA)のシングルマッチは「奇跡の実現」とまで言われた。 中邑はバスケットボールやレスリングに打ち込んでいた少年の頃から、ムタというアイドルを見てきた。 「どうしても自分の本物の感情をさらけ出さずにいられない。中高生の頃、グレート・ムタはボクのアイドルでした。大好きでした。その相手と、時代は違えども、肩を並べることができて、そしてリングで対戦できる。言葉では本当に言い表せないけれど、この実現に至る経緯も神がかっている。いまだに震えてます。たぎってます。マジで。感情がたぎりまくっている」 試合前から中邑は「ムタはボクのアイドル」と言い切って、素直なうれしさを顔に表した。本人は感情を抑えようとはしていたようだが、あえてそのウキウキ感まで隠そ
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