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  • 仏法の種をまいた名僧、高田好胤(4) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 百万巻の写経勧進による白鳳伽藍復興という空前の事業を興した、薬師寺管長高田好胤とはどのような人物だったのか。 前回は、結婚、そしてテレビ出演によって全国的な知名度を得るようになり、薬師寺副住職として活躍する好胤の姿をご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 副住職になったあと、独創的な方法で精力的に仏法を広める活動を展開する好胤は、いよいよ白鳳伽藍復興に取り組むこととなります。 金堂復興の誓い 百万巻写経勧進 金堂復興の誓い 好胤の師であり、薬師寺住職であった橋凝胤は、70歳を目前にしたころから糖尿病を患っていたこともあり、体力的な衰えを自覚するようになっていました。 そういうこともあってか、好胤には折に触れて住職をゆずりたいと言っていましたが、都度、好胤は断っていました。 橋凝胤は南都仏教の金看板。師の引退は仏教会全体の損失と好胤は考えてい

    仏法の種をまいた名僧、高田好胤(4) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/04/26
    薬師寺の伽藍復興は国指定の国宝や重要文化財指定された建築の修復、復興でなかったため法隆寺のように行政の援助が受けられなかった。此れを写経勧進で進めようというアイデアはすごい覚悟。#薬師寺 #高田好胤
  • 忽然と消えた西の日光、内山永久寺の跡を巡る(永久寺跡~石上神宮~なら芸術文化村) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 現在の奈良県天理市にあった内山永久寺は、江戸時代までは大和国の中でも屈指の大寺院であったにもかかわらず、明治の廃仏毀釈で跡形もなく消え去った寺院として知られます。 内山永久寺のあった場所はこちら。石上神宮の南側にありました。 内山永久寺は永久年間(1113~1118年)に鳥羽天皇の勅願により建立された寺院で、尊は阿弥陀如来。興福寺大乗院の末寺で、折からの地垂迹説の流行から近隣の石上神宮の神宮寺となり、室町時代には大きな勢力を誇りました。 当記事冒頭の絵図からもわかるように、池を中心とした浄土式回遊庭園の周囲を、堂をはじめとした多くの堂宇が取り囲み、天正期には56の塔頭を有する巨大寺院でした。 江戸時代に入ると興福寺の支配を離れますが、971石の寺領を持ち、大和国では興福寺、東大寺、法隆寺に次ぐ寺格を誇りました。 その壮麗な大伽藍からついた二つ名が西の日光。 どれだ

    忽然と消えた西の日光、内山永久寺の跡を巡る(永久寺跡~石上神宮~なら芸術文化村) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/04/22
    ブログ更新しました。内山永久寺は奈良県天理市にあった大寺院で壮麗な大伽藍から西の日光と呼ばれました。廃仏毀釈で完全に破壊された跡を歩いてきました。近くに最近オープンしたなら芸術文化村もご紹介します。
  • 仏法の種をまいた名僧、高田好胤(3) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 百万巻の写経勧進による白鳳伽藍復興という空前の事業を起こした、薬師寺管長高田好胤とはどのような人物だったのか。 前回は、学徒出陣からの復員と復学、大学卒業後に薬師寺副住職となり、修学旅行に訪れる生徒たちへ「青空説法」を始めた若き日の好胤の姿をご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 「寺を訪れた人々に仏法の種をまきたい」 この一念から始まった「青空説法」が評判を呼び、好胤は「薬師寺の話のおもしろいお坊さん」として、その名が広く知られるようになっていきます。 戒律を破った幸福 写真家たちとの交流 テレビ読経 戒律を破った幸福 好胤の青空説法は多くの修学旅行生の心を打ち、薬師寺や好胤の元には、帰郷後の修学旅行生達から多くの手紙が寄せられました。 そんな生徒たちの一人だった東京在住の女性と、好胤は心を通わせ文通を始めます。 所用で上京するたびに会うよう

    仏法の種をまいた名僧、高田好胤(3) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/04/19
    ブログ更新しました。薬師寺復興で知られる高田好胤さんは多くのテレビ番組に出演しましたが朝の全国生放送で般若心経の読経を行うエキセントリックな企画も自ら提案していたとか。 #薬師寺 #高田好胤
  • 江戸から昭和にかけての町並みが残る寺内町、大和高田 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 これまで、今井、田原、箸尾といった奈良県内の寺内町ルーツの町をご紹介してきた当ブログですが、今回は大和五ヶ所御坊の一つ、専立寺の寺内町から発展を遂げた大和高田市中心市街をご紹介します。 ※これまでの寺内町の記事も是非お読みいただければと思います。 www.yamatotsurezure.com www.yamatotsurezure.com www.yamatotsurezure.com 大和郡山市民の筆者には、大和高田は同じ奈良県内ながら近くて遠い町でしたが、念願かなってようやく足を運ぶことができました。 観光イメージはあまりない町でしたが、実際歩いてみると、町の歴史を感じる痕跡が盛りだくさん!見所がいっぱいの町でした。 大和高田とは JR高田駅~町通り(専立寺まで) 専立寺 町通りと伊勢街道、下街道 旧高田川沿い 大和高田とは さて、大和高田市ですが、全国的に

    江戸から昭和にかけての町並みが残る寺内町、大和高田 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/04/15
    ブログ更新しました。今回は寺内町、大和高田の、町並みをご紹介!観光イメージのない町ですが江戸から昭和にかけての町並みが残る、散策にもおすすめの町です。
  • 仏法の種をまいた名僧、高田好胤(2) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 壮麗な復興伽藍で知られる奈良薬師寺。 この白鳳伽藍再建を開始したのが、薬師寺管長であった高田好胤です。 度重なる戦災と明治の廃仏毀釈に飲み込まれ、一時は住職も不在となった薬師寺を復興した高田好胤とはどのような人物であったのか。 前回は、その少年期を中心にご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 戦争により大学生活を中断された好胤は、終戦を招集後配属されていた千葉県四街道で迎えます。 除隊して奈良に戻った好胤は、龍谷大学に復学することになりました。 もう一人の師 青年僧好胤 青空説法 もう一人の師 終戦により復学した龍谷大学文学部には、好胤が橋凝胤と並んで生涯の師と仰ぐもう一人の人物がいました。 仏教学者の深浦正文です。 深浦は現在の奈良県香芝市出身で、浄土真宗願寺派の僧侶でもありましたが、大乗仏教の根教義の一つである唯識研究の大家として知ら

    仏法の種をまいた名僧、高田好胤(2) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/04/12
    ブログ更新しました。深淵な仏教教学を追究する南都仏教の僧でありながら一般の人々にそのエッセンスを伝えようとした高田好胤さんの原点は大学時代に出会った師の影響が大きかったと思います。 #薬師寺 #高田好胤
  • 巽高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城~高取城 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 近年、竹田城や備中松山城といった、高い山上に築かれた山城が、観光地としても非常に注目され、人気を集めています。 今回は、全国でも屈指の規模を誇る山城、高取城をご紹介します。 Click here for the English article! 高取城とは 土佐の町~下子嶋 黒門~二の門 国見櫓~千早門 三ノ丸~二ノ丸 丸 リンク 参考文献 高取城とは 高取城は、奈良県高取町に築かれた山城です。 場所はこちら。 高取城は標高583m、比高350mの高取山山上に、三層の天守と小天守から成る豪壮な連立式天守を持つ、山城としては異例の城郭でした。 連立式天守とは、天守と2基以上の小天守や隅櫓を渡櫓で連結して丸を囲む、非常に堅固な守りを誇る天守です。 姫路城や松山城が代表格で、高取山のような高い山上の城に築かれることは極めて珍しいものでした。 明治時代に撮影された写真を見る

    巽高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城~高取城 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2022/04/08
    高取城は標高500mを超える高取山上に雄大な石垣がそびえる大規模城郭です。生い茂る木々の中、忽然と現れる石垣群は壮観。竹田城が日本のマチュピチュなら高取城は日本のパレンケかな。 #高取城 #城跡 #山城
  • 仏法の種をまいた名僧、高田好胤(1) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良の西ノ京にある世界遺産・薬師寺。 奈良時代から残る国宝の東塔や鎌倉時代築の重文・東院堂などの古くから残る貴重な建築だけでなく、創建以来の度重なる火災や自然災害、兵火により失われた大伽藍を復興したことでも名高い名刹です。 この白鳳伽藍復興事業は、1967(昭和42)年、薬師寺管長となった高田好胤が金堂復興を発願したことから始まりました。 金堂復興に始まり、西塔、中門、東西回廊と次々に再建された復興事業は、好胤が1998(平成10)年に世を去った後も続き、講堂、堂と再建されて現在まで続きます。 白鳳の大伽藍を復興させるという、空前の大事業を始めた高田好胤は、私(1974年生まれ)の親世代くらいだと、土曜朝のワイドショーの今でいうコメンテーターという印象が強い方も多いかと思います。 薬師寺を訪れる修学旅行生向けの案内が「青空説法」と話題を呼び、薬師寺の話の面白いお坊さん

    仏法の種をまいた名僧、高田好胤(1) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2022/04/05
    ブログ更新しました。薬師寺の伽藍復興を始めた高田好胤さんは本当に魅力的なお坊さんだったみたいで、リアルタイムでそのお話を聞いてみたかった人物です。 #薬師寺 #高田好胤
  • 第61回お城まつり(大和郡山)、今年は夜桜も行ってきました。 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 今年も奈良県大和郡山市では、昨年に続いてコロナ禍の中で第61回の「お城まつり」が、「日さくら名所100選」にも選出されている郡山城址で開催されました。 ※2年ぶりに開催された昨年の様子は下記記事をぜひご参照ください。 www.yamatotsurezure.com 昨年同様、残念ながらパレードや露店の出店が中止されたり、城址内での飲が禁止となる中、桜が満開となった4月1日の日中と、4月2日は夜桜見物に訪れましたので、その様子をご紹介したいと思います。 日中の様子 郡山城の夜桜 日中の様子 さて、近鉄郡山駅方面から城址公園に向かいます。 かつて柳曲輪と蓮池堀の間にあった土居跡である三ノ丸緑地。 桜のトンネルを抜けて城址公園を目指します。 鉄門前に立つ「お城まつり」のゲート。 このゲートを見ると、大和郡山市民は春が来たなあと実感します。 内堀越しに追手向櫓と追手門、城址

    第61回お城まつり(大和郡山)、今年は夜桜も行ってきました。 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/04/03
    ブログ更新しました。桜が満開となった郡山城で開催されているお城まつりの様子をご紹介。今回は久しぶりに夜桜も見てきました。コロナで中止になった露店の賑わいが来年こそ戻ってきてほしいです。 #夜桜 #城と桜
  • 幻の五新線と旧街道の町並みが残る五條新町をめぐる - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 前回は旧筒井家重臣で、五條新町や肥前島原城築城で知られる松倉重政の事跡を中心にご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 暴君として悪名高い松倉重政ですが、重政が発展の礎を築いた五條新町は、江戸時代初期から現在まで生活の息吹が続く、ノスタルジックな町並みが名高いスポットとして知られます。 今回は五條新町を中心に、見所のスポットやエピソードをご紹介します。 五條新町とは 五新線新町高架橋 神田橋~新町橋 新町橋~鉄屋橋 鉄屋橋以西 五條代官所~天誅組関連史跡 五條新町とは 江戸から昭和初期にかけての町屋が、旧紀州街道(伊勢街道)である新町通り沿いに立ち並ぶ五條新町は、伝統的建造物群保存地区に指定され、旧街道の町並みが残るエリアとして、広く知られています。 ところで現在、五條新町で一つの町の名を示すように呼ばれていますが、実は五條と新町はルーツが異なる

    幻の五新線と旧街道の町並みが残る五條新町をめぐる - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/04/01
    ブログ更新しました。五條新町は江戸初期から現在に至るまで、様々な時代の個性的な町家が旧街道沿いに建ち並ぶ独特の景観がとても魅力的な町でした! #五條新町 #散歩 #伝統的建造物群保存地区 #江戸時代の町家
  • 二見城跡~名君にして暴君、五條に遺る松倉重政の事跡を巡る - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 松倉重政という武将をご存知でしょうか。 安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した武将で、一般には肥前島原で苛烈なキリシタン弾圧と圧政を敷いて、江戸時代最大の反乱である島原の乱の原因を作った人物として知られています。 歴史小説の大家である司馬遼太郎にも「日史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。」(街道をゆく17島原・天草諸道)と言わしめた、日史上最悪の暴君の一人というのが、重政の一般的な評価でしょう。 しかし、この重政を名君と慕う町があります。 その町とは、重要伝統的建造物群保存地区として知られる奈良県五條市の五條新町で、重政は町の礎を築き、善政を敷いた名君として現在も顕彰されています。 多くの伝統建築が建ち並ぶ五條新町の町は、散策スポットとしても非常に人気のあるエリアですが、今回は松倉重政の事跡と、彼が築城した二見城跡を中心にご紹介します。 松倉重政

    二見城跡~名君にして暴君、五條に遺る松倉重政の事跡を巡る - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/03/29
    ブログ更新しました。暴君の悪名も高い松倉重政ですが五條二見城主時代は五條新町を興すなど名君として知られました。二見城跡や五條新町に残る重政の足跡をご紹介します。 #松倉重政 #五條新町 #城跡 #二見城
  • あじさい寺でお遍路!矢田寺四国八十八ヶ所霊場巡り - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 さて、以前あじさい寺として有名な奈良県大和郡山市にある矢田寺をご紹介した時、ミニ遍路道があるとご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 今回念願かなって矢田寺のミニ遍路で「結願」することができましたので、へんろ道をご紹介したいと思います。 矢田寺四国八十八ヶ所霊場巡りとは 徳島県(第一~二十三番札所) 高知県(第二十四~三十九番札所) 愛媛県(第四十~六十五番札所) 香川県(第六十六~八十八番札所) 矢田寺四国八十八ヶ所霊場巡りとは 「矢田寺四国八十八ヶ所霊場巡り」は大正末期から昭和の初期にかけて、矢田寺堂裏の地蔵山に開設されたいわゆる「ミニ遍路」、「ミニ霊場」と呼ばれる施設です。 ミニ遍路は関東によくある「富士塚」と同じで、実際の霊場巡りは中々気軽に行けないところを、身近な場所で参拝することでお遍路に行ったのと同じ功徳が得られるものとして、西

    あじさい寺でお遍路!矢田寺四国八十八ヶ所霊場巡り - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2022/03/25
    ブログ更新しました。紫陽花で有名な矢田寺のミニ遍路を踏破してきました。1時間程度で軽装で回れるハイキングにもぴったりのルートでした。 #矢田寺 #奈良のお寺 #お遍路 #散歩 #ハイキング
  • 額安寺~平端 額田部の郷を巡る - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 以前、中世武家館城の面影を残す「中家住宅」をご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 中家住宅のほど近くを、中世から近世にかけて、奈良と五條を結ぶ下街道が通っています。 中家住宅から下街道に沿って北東、郡山の方へ少し進むと額田部地区という歴史ある地域があり、大和郡山市民ながら、今まで訪れる機会がなかったので、中家住宅を訪れたこの機会に足を延ばしてみました。 歴史ある古寺、古跡に趣ある旧街道筋の風情が残る場所でしたので、今回ご紹介したいと思います。 額安寺(かくあんじ) 額安寺は、奈良県大和郡山市額田部寺町の真言律宗寺院です。 場所はこちら。大和郡山市の南端、佐保川と大和川の合流地点に面した地にあります。 別名額田寺(ぬかだでら)とも呼ばれ、発祥は額田郷を拠地とした古代豪族、額田部氏の氏寺、あるいは、621年に聖徳太子によって創建された熊凝精舎(

    額安寺~平端 額田部の郷を巡る - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2022/03/22
    ブログ更新しました。聖徳太子所縁の古刹、額安寺は室町時代作のご本尊と厨子の彩色が大変美しかったです。また下街道沿いの額田部の町は風情ある古跡が多くて散策にオススメです。 #奈良のお寺 #散歩 #額安寺
  • 奈良・山の辺の里の戦争遺跡、柳本飛行場(大和海軍航空隊大和基地)跡 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良・山の辺の里といえば、石上神社や大神神社などの古社や、箸墓古墳、崇神天皇陵といった巨大墳墓が集まる古代史ロマンの里ですね。 以前、この山の辺の里のイメージから少し離れたスポットとして、近世織田氏の城下町、柳、芝村地域をご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 今回も従来イメージとは離れたスポット、柳飛行場跡をご紹介します。 飛行場と言っても民間空港ではなく、第二次世界大戦の末期に旧帝国海軍が建設した航空基地でした。 戦後まもなく飛行場は取り壊されましたが、滑走路の一部と防空壕2棟が、のどかな田園風景の中に遺されていますので、ご紹介していきましょう。 柳飛行場とは 滑走路跡 防空壕 遺構の保存と伝承について 柳飛行場とは 柳飛行場は通称で正式な名称は大和海軍航空隊大和基地といいます。 跡地に建てられた案内板を見ても、南北がJR万葉まほ

    奈良・山の辺の里の戦争遺跡、柳本飛行場(大和海軍航空隊大和基地)跡 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2022/03/18
    ブログ更新しました。山辺の里、奈良県天理市柳本にはかつて海軍航空隊の飛行場がありました。史料が乏しく運用期間も短かったため謎の多い戦争史跡ですがその遺構をご紹介。 #奈良県の戦争史跡 #柳本飛行場
  • 箸尾城と教行寺~中世城下町から近世寺内町へ - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 今回は、近鉄箸尾駅の南側に広がる箸尾の町をご紹介したいと思います。 場所はこちら。馬見丘陵公園の東側になります。 一般的な観光地ではない地区なのですが、北和と南和をつなぐ下街道が町内を南北に貫き、中世、筒井氏、越智氏、十市氏と並んで大和の有力国人であった箸尾氏の拠点として始まった、たいへん歴史のある町です。 箸尾氏が没落して、箸尾城が廃城となった後は、教行寺の寺内町として栄えました。 現在も古くからの街並みが残る箸尾地区を散策していきたいと思います。 下街道沿いの街並み 箸尾城と環濠 教行寺(箸尾御坊) はしお元気村 下街道沿いの街並み 箸尾地区の北側に、近鉄田原線の箸尾駅があります。 奈良県広陵町内で唯一の鉄道駅で、1918(大正7)年に大和鉄道の新王寺~田原間が開通時に設置され、開業から100年以上の歴史を持つ駅です。 駅前では広陵町のご当地キャラかぐやちゃんが

    箸尾城と教行寺~中世城下町から近世寺内町へ - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/03/11
    ブログ更新しました。中世館城の箸尾城をルーツとして近世寺内町として栄えた箸尾の町をご紹介します。 #寺内町 #奈良県の城 #城跡 #環濠
  • 中世武家居館の面影を残す中家住宅と伝多聞山城門 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良県は稗田環濠集落をはじめ、中世環濠が良好な形で残っている例が多いことで知られていますが、中世武士の居館の佇まいを、現代に伝える場所があることをご存知でしょうか。 奈良県安堵町の「中家住宅」は、二重の堀がほぼ完全な形で残り、中世在地領主の居館の様相を現代に伝える貴重な場所といえます。 特筆すべきは、現在なお中家のご子孫が居住しておられる、現役の住宅ということ。 堀まで備えた中世的な武家居館が、「遺構」ではなく、現役の住居として受け継がれているところが、とてつもなく貴重な文化財だと思います。 場所はこちらになります。かつて奈良と五條を結んだ下街道のほど近くにあります。 GoogleMAPにもくっきりと表示される二重の堀。 これが個人宅というのが信じられません。 こちらは表門前に設置された案内板。 宅地内の主屋をはじめとした建築物はもちろん、内堀と外堀、そして城郭における

    中世武家居館の面影を残す中家住宅と伝多聞山城門 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/03/05
    ブログ更新しました。今回ご紹介する中家住宅は二重の環濠がほぼ完全に残り中世館城の面影を現在に伝える場所です! #中家住宅 #館城 #城 #重要文化財
  • 山の辺の織田氏旧跡を巡る~柳本・芝村陣屋跡 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 さて、奈良県内に戦国随一の有名大名家である織田家の城下町があるのをご存知でしょうか。 戦国の覇者だった織田信長ですが、織田家は彼の横死後に小大名に転落し、江戸時代大名家として残ったのは、次男信雄の家系と、茶人として有名な弟有楽斎(長益)の家系だけでした。 この内、有楽斎の家系が現在の奈良県、天理市から桜井市にかけて広がる山の辺の里に、城下町を営んでいたのです。 能寺の変の後、豊臣家の家老となっていた有楽斎は、他の豊臣直臣の多くがそうであったように大和国に領地を持っていました。 大坂夏の陣を前にして大坂城を脱出した有楽斎はしぶとく生き残り、子孫に領地を遺します。 4男長政が式上郡戒重(現奈良県桜井市戒重。後に芝村に陣屋を移転)に1万石、5男尚長が式上郡柳(現奈良県天理市柳町)に1万石を分与され、明治に至るまで大名として存続しました。 今回は山の辺の里に残る織田氏の旧

    山の辺の織田氏旧跡を巡る~柳本・芝村陣屋跡 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2022/03/02
    ブログ更新しました。奈良、山辺の里に織田家の城下町があることをご存知でしょうか。古墳や古代ロマン溢れるエリアですが、少し目先を変えたお散歩スポットをご紹介します!
  • 思ってたんと違う(4)源平合戦その2 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 前回、源氏と平氏の関係性について、巷間広まっているイメージとは異なるものであったことをご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 源平の戦いについては、有名な個別の戦いについても、世間一般に広く知られているイメージと、実像が全く違うものがあったりします。 今回は「思ってたんと違う」源平の戦いをご紹介したいと思います。 富士川の戦い 屋島の戦い 壇ノ浦の戦い 富士川の戦い 1180(治承4)年に、以仁王の令旨に呼応して挙兵した源頼朝と、これを追討するため派遣された平維盛が、駿河国富士川で激突した富士川の戦いは、頼朝が平氏の大軍勢を打ち破った戦いとして知られます。 富士川を挟んで対陣していた源平両軍でしたが、夜中に水鳥の群れが一斉に飛び立った羽音を、敵の夜襲と勘違いした平氏方が恐慌状態となり、戦わずして四散逃亡してしまい、平氏の惰弱ぶりが露になった戦い

    思ってたんと違う(4)源平合戦その2 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2022/02/25
    ブログ更新しました。源平の戦いって後世の軍記物などで脚色され実像と全く違うものになっていることが多いんですよね。富士川の合戦などは最近は頼朝が主体的な役割を果たしていなかったことが通説になってますし。
  • 運慶(3)~神格化された名工 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 日の彫刻史上、最も有名な人物の一人として知られる運慶を取り上げて今回が3回目の記事になります。 前回は、壮年の運慶の活躍を中心にご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 新たな時代の支配者として台頭してきた東国武士と、親密な関係を早くから構築した奈良仏師は、源頼朝が全国的な権力を掌握後、南都復興における仏像造像の中心的な存在となっていきます。 父、康慶最後の大仕事となった大仏脇侍の造像と、運慶が棟梁として初めて臨んだ東大寺南大門金剛力士像の造立で、慶派の南都復興における存在感は、最大のものとなっていきました。 今回は、その後の運慶と、没後の評価の変遷をご紹介したいと思います。 興福寺北円堂 晩年の運慶 高まる名声 運慶の実像 興福寺北円堂 1203(建仁3)年、東大寺南大門金剛力士像の造像を果たし、法印という僧鋼位の最高位に上り詰めた運慶。 次

    運慶(3)~神格化された名工 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2022/02/18
    ブログ更新しました。運慶仏の持つ圧倒的実在感、リアリティは運慶の内面の発露ではなく時代の要請に持てる技法の全てを集約させて応えた結果であり、運慶の偉大さはその点にこそあるかと思います。
  • 大和郡山城外堀を行く(4)外堀東側 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 大和郡山城の外堀巡りも今回でいよいよ最後のエリアとなる東側です。 前回は、市街中心部にも近い外堀南側を紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 今回ご紹介する外堀の東側は、秋篠川の旧流路を利用したエリアで、現在一部が外堀緑地として公園化されています。 外堀緑地(高田町大門以南) 薬園八幡神社 外堀緑地(高田町大門以北) 宮上池~高付上池 鍛冶町大門~葉住宅 郡山散策にオススメの駐車場 外堀緑地(高田町大門以南) 藺町通りに面した外堀緑地南門からスタートします。 郡山南小学校の北側に緑地公園が広がります。 すっかり地元の方々には、お馴染みの憩いの場となっています。 通常は空堀になっています。 少しでもいいので水の流れを作り、親水公園のようにできればもっといいのになあ、と思うのは私だけでしょうか。 まあ、維持管理の手間が増大するのかもしれないです

    大和郡山城外堀を行く(4)外堀東側 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2022/02/12
    ブログ更新しました。郡山城外堀を一周して公園化されている場所以外も堀の痕跡が沢山残っていることがよくわかりました。惣構えの城は城址公園だけでなく町全体に城の痕跡が残るのが大きな魅力です#郡山城#外堀#城跡
  • 大和郡山城外堀を行く(3)外堀南側 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 大和郡山市街をぐるりと約5.5Kmにわたって取り囲む、外堀の遺構を巡る第3回です。 前回は外堀西側をご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 今回は、中心市街地にも近い南側のエリアを巡ります。 箕山裏池~高塚池 矢田筋裏池 八幡堀池~東岡町 大門~郡山八幡神社 洞泉寺裏池 箕山裏池~高塚池 大納言塚から東に抜け、引き続き箕山裏池になります。現在の田北病院南側にありました。 かつての堀端の南側が細い道路となっています。 田北病院の東側に、箕山裏池の東端を示す石碑があります。 田北病院に隣接する看護学校前の道が高塚池跡になります。 幅が21間(約37m)の堀だったと言いますから、ため池を除いて郡山城外堀の中でも最大級の堀でした。 今ではすっかり住宅が立ち並び、往時の姿をしのばせるものはほとんどありません。 看護学校の東側道路を南側に臨むと、南側に向か

    大和郡山城外堀を行く(3)外堀南側 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2022/02/06
    ブログ更新しました。郡山城外堀巡りの3回目です。市街中心部となる南側の様々なスポットをご紹介します。すっかり市街化されたエリアですが意外と遺構は残されていました。