ブックマーク / www.kouhei-s.com (38)

  • 本能寺の変  しかめっ面の英雄 最後の言葉 - 京都案内  こうへいブログ  

    春の陽が地上に降りそそぐ穏やかな日、出陣する織田信長軍の傍らの畑で、農民がスヤスヤと居眠りをしていました。 これを見た、信長の顔色をうかがう木下秀吉は、「こいつらのために合戦にいくのに」と激怒し、眠っている農民に斬りかかろうとします。 ですが信長は、「いや、俺の国では農民がのんびり眠れるようにしたいんだよ」とそれを止めたのです。 日人の幸せ 若いころの信長は城下町をほっつき歩いていましたが、それは、同世代の人々が何を望んでいるのかを、懸命に探し当てるためでした。 そして、その答えは明白だったのです。「戦争が終わった世で平和に暮らしたい」「豊かな生活がしたい」「平等に扱われたい」 こういう世論をつかんだ信長は、すでにこの頃から日の平定を最優先思想とするのです。 平和な世でなければ話にならない、そうでなければ、他のものは何ひとつ成立しない。 じつは、このような「日人全体の幸せ」を視野に入

    本能寺の変  しかめっ面の英雄 最後の言葉 - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/12/30
    やっぱり信長って、不世出の天才だったんですよね~! 信長が天下を取っていたらどのような歴史が展開したのでしょうね? パラレルワールドででも見てみたいなぁ~
  • 織田信長の京都支配  麒麟が近づいてきたのか すべてが好転し始める - 京都案内  こうへいブログ  

    正倉院秘蔵 蘭奢待 天正2(1574)年、骨董品・茶器の名物収集に励む織田信長は、ついに、御持の蘭奢待(らんじゃたい)を手に入れました。 蘭奢待とは正倉院秘蔵の名香ですが、室町幕府八代将軍・足利義政が手に入れて以降、多くの希望者があっても誰ひとり許されることはありませんでした。 ですが、信長が要求を出すとすぐに朝廷から許可がおり、日野・飛鳥井の公家が勅使に立って、正倉院の蔵は開かれたのです。 長さ六尺の長持ちに収められたその名香がとり出され、信長のためだけに、一寸八分切り取られました。 そう、義政以降の歴代足利将軍が誰も触れることができなかった名香を、信長はいとも簡単に手にしたんですね。 信長包囲網の崩壊 朝廷から特別な贈り物を賜った信長。この前年、つまり元亀が天正と改元されるその年は、彼の天下統一の壮図にとって大きな意義を持つ時期でした。 周り中が敵だらけとなっていた壮大な信長包囲網の陣

    織田信長の京都支配  麒麟が近づいてきたのか すべてが好転し始める - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/12/21
    歴史は視点によって見え方は色々ですね。かつては私の中で絶対的英雄だった信長も、その冷酷なまでの強引さが憎くさえあります。それでも本能寺の変がなかったら・・・と思わずにはいられませんね!
  • 大徳寺  金毛閣に掲げられた木像  なぜ利休は自刃に追い込まれたのか - 京都案内  こうへいブログ  

    真理だけを突き詰める 22の塔頭寺院とふたつの別院で構成される、広大な境内を持つ大徳寺。 臨済宗大徳寺派の大山として、禅の道場の使命を果たし続けてきました。 風情ただよう石畳の通路、新緑と花々に彩られた聖空間の古刹。 千利休をはじめ多くの茶人が参禅帰依しています。 https://photo53.com/ 同じ臨済禅の南禅寺や東福寺とは違い、大徳寺は観光地化されていません。 ときの権力者に翻弄されつつも「なによりも修業が優先される。一日中悟りを求め参禅し、真理だけを突き詰めろ」と、厳格な禅の教えに専念することを貫き通してきたからです。 そのために、ほとんどの塔頭や坊が非公開なのですが、各季節ごとに、一時的に公開されることがあります。 うまくタイミングがあえば、大徳寺は、まさに京都観光の穴場と言えるのではないでしょうか。 楼閣・金毛閣 天正17年、天下第一の茶匠・千利休によって大徳寺の三

    大徳寺  金毛閣に掲げられた木像  なぜ利休は自刃に追い込まれたのか - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/12/12
    秀吉が陥れなければならなかった、利休の政治的影響力って・・・(*_*;
  • 北野天満宮  道真の怨霊 稲光が走り雷鳴がとどろく - 京都案内  こうへいブログ  

    平安時代中期の天暦元(947)年に創建された北野天満宮。 菅原道真(菅公)をご祭神とし、藤原氏によって大規模な社殿造営がなされました。 国宝に指定されている殿は、豊臣秀頼によって再建されたものです。 これは八棟造と呼ばれる様式で、拝殿と殿は一つの大きな屋根で覆われていて、中央に一段低くなった「石の間」が設けられています。 まるで寺院のように 北野天満宮は、菅原道真という「人」を「神」として祀った社であり、その、拝殿と殿を石の間でつなぎ一つの屋根で覆う建築形式は、死者を神として祀る、ある種特異な形式だといえます。 通常の神社の場合、鳥居を入り口とするのですが、ここ北野天満宮では、まるで寺院のように楼門と三光門が入り口となっています。 菅原道真という「人間」の怨霊を鎮魂するために「神」として祀ったので、人間を供養する寺院とも、神を祀る神社ともいえる特異な形式になったのでしょう。 このよう

    北野天満宮  道真の怨霊 稲光が走り雷鳴がとどろく - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/11/26
  • 八坂神社  祇園の神様 出雲の女神と出会ってから - 京都案内  こうへいブログ  

    神仏分離令からまだ150年 神と仏は同じであると考える神仏習合。それは、今日ではあまり理解されていません。 ですが、明治維新で神仏分離令が出されるまで、奈良時代から江戸時代まで1200年の間、ごく自然に日人に受け入れられていたのです。 日人が大切にした神々の姿を拝借した外来宗教の仏教は、日で半ば当然のように浸透しました。 一方で、神道もまた仏教と一体化することで発展を遂げてきた部分もあるのでしょう。 じつは神社の社殿が建てられるようになったのは、日に仏教が伝わってからではないのか、という説があります。 それまでは、巨木や奇岩、山そのものなどを、神が宿る聖なる場所として祀る宗教的儀式が行われていたのです。 これに対して仏教は、仏像があり、それを安置する建物があり、さらに経典も用意されています。 崇拝の対象をはっきりと目にとらえられることの出来る形を持った宗教なのです。 そんな仏教の形

    八坂神社  祇園の神様 出雲の女神と出会ってから - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/11/09
    先日厄除けに(コロナ禍終息を願って)お参りしてきました。スサノオとクシナダヒメの逸話を知っていたら、もっとテンション上がっていたかも・・・残念!(*_*;
  • 室町幕府将軍 空白の3年 暗躍する松永久秀 - 京都案内  こうへいブログ  

    松永久秀「所司代」 天文18(1549)年、阿波国の戦国大名・三好 長慶(みよし ながよし)は、将軍・足利義晴を京都より追放しました。 実質的に洛中の支配権を握っていた長慶でしたが、初期の頃の権限内容については史料がほとんど残っていないため、よくわかりません。 ただ、家臣である松永久秀を「所司代」に任命したことから、洛中の治安権が中心であったのではと推測されています。 天文22年ころから永禄3(1560)年にかけて、その支配力は揺るぎないものへと強化されていき、その永禄3年には、長慶一族と松永久秀に対する朝廷からの贈位任官が急速に進められました。 ですが、この頃、三好長慶は京ではなく摂津・芥川城に住居し、必要に応じて入洛していました。 京都支配の実権をにぎりながらも、完全な意味での政権の支配者には、なり切っていなかったのです。 長慶が選んだ場所 長慶には強い軍事力の基盤がありました。それは

    室町幕府将軍 空白の3年 暗躍する松永久秀 - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/09/25
    はぁ~ わたしにも難しい相関図が理解できていたら、大河ドラマも何倍も楽しめるでしょうね~(-_-;)
  • 元禄の京に光琳あり  尾形家 不肖の3兄弟 - 京都案内  こうへいブログ  

    雁金屋の3兄弟 徳川家の娘に生まれ皇室に入内した東福門院和子。 朝廷と幕府の平和の架け橋となったその偉大な皇后は、延宝6(1678)年、帰らぬ人となりました。 彼女に最もひいきにされていた幕府御用達・老舗呉服商の雁金屋(かりがねや)の商運は、これを機に傾きはじめます。 もちろん、大富豪・雁金屋の商いすべてが崩れ去るわけではありませんが、もっとも売り上げシェアを確保していた部分がなくなったという現実は、皆にとって精神的なダメージが大き過ぎたのでしょう。 経営者である尾形宗謙は、もともと丈夫な体ではなく床に就くことが多い人でしたが、隠居は出来ませんでした。 なぜなら宗謙の3人の息子たちは、揃いもそろって未熟で頼りない者ばかりだったからです。 長男は藤三郎、次男は市丞(光琳)、三男は權平(乾山)のだんご3兄弟です。 放蕩息子たちの生きざま 長男の藤三郎は3人のなかでも特に色男で、とにかくしゃべく

    元禄の京に光琳あり  尾形家 不肖の3兄弟 - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/09/18
    花見の宴の終いの光景が余韻のように意識の奥に残ります、まさに夢の中のお話のような・・・
  • 仁和寺  仁清と乾山 宮廷文化が生んだ きれいさび  - 京都案内  こうへいブログ  

    御池と御室 代々天皇の皇子および皇孫が門跡という住職を務められた世界文化遺産・仁和寺。 神泉苑のある場所が御池と呼ばれるように、この古刹がある地域も御室と呼ばれてきたのです。 寺であると同時に、宮殿であるという性格を持つこの門跡は、全国の寺社を統率する総法務という職を任ぜられていました。 それは、当時の宗教界を支配していただけではなく、政治の世界にも強い影響力を持っていたことを意味します。 門前で咲いた文化の花 後水尾天皇の兄宮にあたる仁和寺二十一世門跡・覚深法親王は、徳川三代将軍・家光に直訴して現在の伽藍を再建させました。 覚深法親王は、まさに仁和寺の中興の祖といえる存在であり、江戸初期における京都文化の興隆に尽力したのです。 そして、この復興のときに仁和寺は、京焼とよばれる新たな文化の花を咲かせます。 京都で焼き物を焼く風習は以前にはなく、陶器の産地は備前・瀬戸・信楽・美濃などに限られ

    仁和寺  仁清と乾山 宮廷文化が生んだ きれいさび  - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/09/09
    京都の文化の奥深さをまたひとつ教えてもらいました(__)
  • 東福門院和子  京都を再興させた 東から来た花嫁 - 京都案内  こうへいブログ  

    京都市民が待ちこがれたその人 元和6(1620)年6月、二代将軍秀忠の娘・徳川和子の入内を一目でも見たいと、京都・洛中の街路には群衆があふれていました。 至美至高の行粧をこらしたその新しい女御入内は盛大に営まれたのです。 この時期の朝廷と幕府の微妙な関係は、和子によって向き直られ、改めて繋がりはじめることになります。 大坂の陣いらい、わだかまりのあった朝幕関係は、どうしても円滑にいっていないものがありました。 新女御・和子は、冷ややかな禁中の女官たちの眼と、物々しい武士たちに囲まれて、わずか14歳、内向きの小さな心を抱えていました。 ですが、後水尾天皇と女御・和子との間を包み込むようにとりもったのは、天皇の生母・中和門院でした。 ときには太陽のように、ときにはそっと日陰のように、和子のことを中和門院は優しくかばわれました。 暖かな姑の思いやりにこたえるように、和子の心も開かれ素直になり、宮

    東福門院和子  京都を再興させた 東から来た花嫁 - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/08/20
    とってもステキなお話し! やっぱりお人柄ですかね。あやかりたいものです。
  • 大坂城が落城した そのあとの京都の話 反骨の突っ張りたち - 京都案内  こうへいブログ  

    豊臣恩顧たちの選択 元和元(1615)年5月7日、難攻不落と称された豊臣・大坂城は、徳川軍からの猛攻撃を受けて、ついに落城しました。 翌8日、人質として豊臣秀頼に嫁いでいた家康の孫娘・千姫からの助命嘆願も受け入れられず、ついに、秀頼、淀殿ともに自害し帰らぬ人となったのです。 千姫の救出を見届けた家康が二条城に凱旋したので、あいついで、諸将たちも入京することになります。 二条城内はすぐに、戦勝祝いに訪れた公武関係の要人たちで溢れかえっために、家康は秀忠と協議して対応にあたりました。 そして、豊臣恩顧といわれた諸将たちは、この後、あっさりと徳川家に従順していきます。 この先の家族たちの将来も考えていたのでしょう、もちろん武士としても、それなりに様々な決意があったはずです。 秀吉のであった北政所、つまり高台院が徳川側についたのも、彼らの気休めにも口実にもなったのかも知れません。 ただ、諸将た

    大坂城が落城した そのあとの京都の話 反骨の突っ張りたち - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/08/15
    本当に、わたしは歴史の上っ面しか知らなかったんだなぁ~って思います。当時の人の相関図はむずかしですが興味深いです。
  • 激動の時代と寺社復興  信長・秀吉・家康は一括りに捉えるのが歴史を理解するコツ - 京都案内  こうへいブログ  

    激動の50年 永禄11(1568)年に織田信長が入京してから、元和元(1615)年の豊臣家滅亡までの僅か50年に満たない日月。 この短いながらも激動の時代は、近世封建制度の成立と、京都の新たな都市計画の始まりでした。 中世の終わりから仏教は貴族から庶民のものへと脱皮していき、旧仏教系の寺院も新仏教系の寺も、新しい時代への対応を模索しながら堂宇の復興に努めることになります。 京都の仏教界は豊臣政権の成立とともに、信長時代から一転した親和的な復興援助を与えられていました。 ただ、それには寺領検地という代償も伴なっていたのです。 寺領検地は、信長の時代から洛中の寺院に対して出されていた令でしたが、秀吉政権によって格化されました。 洛中のすべての土地の所有権は、原則的にはもともと皇室・公卿などにあります。 これが、何世紀にもわたる長い歳月のなか、この所有主から直接または間接的に、寄進・買い入れ・

    激動の時代と寺社復興  信長・秀吉・家康は一括りに捉えるのが歴史を理解するコツ - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/08/10
    豊臣家への京都の人々の思いというのは、とっても意外でしたけど寺社への保護を考えれば当たり前ですね。
  • 近世の覇者と仏法 織田信長包囲網 暗闇の中のひとすじの光  - 京都案内  こうへいブログ  

    京都に出現した近世的覇者 王城を抱く京都が堅持した古くからくる伝統や、そこに住む人々の生活から育った風習。 新しい街の支配者である織田信長は、これらを一切認めませんでした。 永禄11(1568)年、中世末のカオスの世界から生まれた近世的覇者は、京都に出現したのです。 当時の日人としては珍しい存在なのですが、信長は来世の存在を信じていませんでした。 来世の概念を否定し罪の意識も持たない信長は、仏教からもキリスト教からも無縁な存在であり、無縁な人生を選んでいたのです。 それは同時に、偶像すなわち仏像や神像を大切にする社寺の存在価値が、否定し去られたことになります。 朝廷や公家、古くからの大社・名刹、都に根強く教線を伸ばした新仏教、町衆など、独特の宗教的雰囲気になじんできた当時の京都の人々にとって、おそらく、信長は歓迎すべき相手ではなかったのでしょう。 そして、信長のこの宗教観によって、やがて

    近世の覇者と仏法 織田信長包囲網 暗闇の中のひとすじの光  - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/08/06
  • もうひとつの二条城  織田信長の入京 あの鐘を鳴らすのはあなた  - 京都案内  こうへいブログ  

    信長が築造した二条城 二条城といえば、徳川家康によって築造された現在も遺る「京之城」をいいますが、京都にはもうひとつの「二条城」がそれよりずっと以前から存在していました。 それは、足利幕府最後の将軍・足利義昭のために織田信長が築造したかなり大規模な城郭です。 永禄12(1569)年、内裏(御所)のすぐとなりにあった兄・義輝の邸宅あとに、義昭の住居として信長が再建工事を始めたのです。 現在の丸太町烏丸の北西一角の場所なのに、なぜ二条城と呼ばれていたのかというと、おそらく、平安京の二条坊あたりの場所だったからなのでしょう。 百数十体の石仏や、年号が刻まれている板碑・五輪塔、瓦、緑釉など、この場所でかなりの遺跡が発掘されていて、もうひとつの二条城の正確な位置を知るうえで、大変貴重な手がかりとなりました。 京童たちの不安 永禄11(1568)年、これまで尾張の一戦国大名にすぎなかった織田信長は、6

    もうひとつの二条城  織田信長の入京 あの鐘を鳴らすのはあなた  - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/07/31
    政情により、あおりを食うのは弱い民。 いつの時代も中心である京に暮らす人々は気の毒でしたねぇ~
  • 三十三間堂  千手観音像に守られた奇跡のお寺 - 京都案内  こうへいブログ  

    750年前から守られてきたお堂 長さ125mの仏殿の中に、1001体の千手観音像が整然と並ぶ、国宝、蓮華王院・三十三間堂。それは、奇跡の宗教建築です。 後白河院が、当時住んでいたという法住寺殿の中に、長寛2(1164)年に建立しました。 そして、これを全力でサポートしたのが平家総帥・平清盛です。 1001体という黄金の観音の恵みを与えられることで、人々が救われる浄土を、後白河院と清盛はこの世に作ろうとしたのです。 千手観音の正式な名称は十一面千手千眼観世音菩薩といいます。つまり、千の眼をもって、世の人の苦難を見、千の手をもって、世の人の苦難を救う仏です。 人々が救いからもれてはいけないので、なるべく多くの手、すなわち千の手を持っているのです。 観音は33の姿に変身して現れ人々を救います。そのゆかりからお堂の内陣の柱の間数が33あり、三十三間堂と呼ばれるようになりました。 内部は極彩色の文様

    三十三間堂  千手観音像に守られた奇跡のお寺 - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/07/27
    いっぱいあるなぁ~ 凄いな~と思ってみるのと、ちゃんとわかって見るのでは雲泥の差がありますよね。残念なことをしました!
  • 平等院  鳳凰堂  龍神に守られた平安時代の象徴 - 京都案内  こうへいブログ  

    建物から飛び出している尾廊 宇治川のほとりから朝日が昇るとき、その眩い光が池の水面に当たり、反射してお堂の中を照らしています。 さざなみのようにキラキラ揺れる光を受けた仏像は、まるで胸のあたりで呼吸しているかのよう。 生み出された自然の光によって、阿弥陀如来坐像はまるで生命が宿っているように見えるのです。 そんな平等院・鳳凰堂は、宇治川の近く、この世のものとは思えない美しい極楽浄土を表現しています。 極楽の世界から舞い降りてきた、仁智があり、生枝を折らない鳳凰という霊鳥の姿に見立てられた鳳凰堂。 尾羽根のような尾廊が建物から飛び出しているさまは、今にも飛び上がらんとする躍動感に満ちています。 龍神に守られた鳳凰堂 永承7(1052)年、関白・藤原頼道によって平等院は創建されました。 それは金堂・五重塔・三重塔・釣殿・宝蔵・鳳凰堂などが立ち並ぶ巨大伽藍で形成されています。 古来から平等院のあ

    平等院  鳳凰堂  龍神に守られた平安時代の象徴 - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/07/25
    鳳凰堂は守られているとしか思えませんね! 竜神伝説ってマユツバじゃないんだ‼
  • 豊国神社 京都東山七条  平和への歓喜に沸く風流踊り - 京都案内  こうへいブログ  

    歓喜に沸く豊国大明神臨時祭 慶長3(1598)年、豊臣秀吉は伏見城で他界し、方広寺大仏殿の背後にそびえる阿弥陀ヶ峰に理葬されています。 翌慶長4年には、「豊国大明神」という神号を朝廷から与えられ、正式に神格として祀られました。 これが「豊国神社」の創建であり、生前の秀吉の「自ら神になりたい」という神格化の願いは、東山・阿弥陀ヶ峰の地で叶えられたのです。 その後、慶長9年8月の秀吉の七回忌にあたって、豊国神社を中心にして豊国大明神臨時祭が盛大に行われました。 溢れるほど人々がくり出している風流踊りの様子が、岩佐又兵衛の豊国祭図屏風に描かれ遺されています。 まさに、関ケ原の戦後の解放感からみちびかれた平和への歓喜が、京中に沸きかえるありさまなのです。 ただ、このとき民衆たちは大いに盛り上がっていたのですが、豊臣家の人々は、徳川から執拗に嫌がらせを受ける辛い日々をおくっていたのでした。 徳川から

    豊国神社 京都東山七条  平和への歓喜に沸く風流踊り - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/07/20
  • 建仁寺 所蔵  俵屋宗達 風神雷神図屏風 魔法使いと呼ばれた天才絵師 - 京都案内  こうへいブログ  

    鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家の寄進によって建立された建仁寺。 武家の強力なバックアップを受けて、14世紀には、京五山第三位の臨済宗・名刹となりました。 現在では、禅寺にしては珍しく格式ばらない寺院として、境内のある祇園・花街の人々にも親しまれています。 謎多き天才絵師 そして、誰もが知っている有名な国宝の屏風がここに伝わります。 俵屋宗達 筆・『風神雷神図』2曲1双。これは、風神と雷神が躍動する、彼の最高傑作といわれている屏風画です。 17世紀前半の寛永年間の制作であり、宗達の真筆であることは確実視されているんですね。 (現在は京都国立博物館に寄託されていて、建仁寺にはキャノン高精細複製品が展示されています) たしかな伝記もなく、生没年さえ不詳の謎であった宗達ですが、今まで知られる確実な情報がいくつかあります。 まず、京の富裕層の町衆であり、俵屋という屋号の大規模な絵屋(工房ギャラリー)の

    建仁寺 所蔵  俵屋宗達 風神雷神図屏風 魔法使いと呼ばれた天才絵師 - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/07/15
  • 養源院  お江の思いが託された 俵屋宗達の杉戸絵 - 京都案内  こうへいブログ  

    豊臣家により創建され徳川家によって再建された寺 文禄3(1594)年に豊臣秀吉の側室・淀の願いによって、彼女の父である浅井長政と祖父・久政の追悼の寺として養源院は建てられました。 戦国期の北近江の大名であった浅井長政は、・お市の兄にあたる織田信長によって猛攻撃を受け滅びました。 義理の弟とはいえども、謀反を起こした長政を信長は決して許さなかったのです。 この時の信長の怒りがどれだか凄まじかったのかが分かる、あるエピソードがあります。 正月の岐阜城で織田家の祝宴が行われたときのことですが、なんと、長政と久政の頭蓋骨はそろって金銀泥で彩られ、祝勝の宴会の座興にさらされたというのです。 信長は浅井家に全幅の信頼を寄せていたので、逆に、裏切られたときのショックは相当なものだったんですね。 そして、この追悼のために建てられた養源院は、豊臣家の滅亡とともに元和5(1619)年に焼失してしまうのですが

    養源院  お江の思いが託された 俵屋宗達の杉戸絵 - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/07/13
    白象図は私には漫画的に見えます。だとしたら、なんて先進的・・・罰当たりですかね(^^;)
  • 南禅寺・方丈 なにがなんでも再興させる 崇伝の奔走 東へ西へ - 京都案内  こうへいブログ  

    消えた京都の古き由緒ある寺院 草庵から出発した小さな寺院が伽藍寺院に発展すると、いちばん必要とされるのが建築費用でした。 大規模になればなるほど、宗派を問わず、お布施の集積だけではまかないきれなくなります。 最初の出費の大部分を援助してくれる「開基壇越」とよばれる大壇那が必要となるんですね。 その昔、いきなり開創から大伽藍で建てられた旧仏教系や禅宗の寺院では、皇室や公家、将軍家などがこれにあたりました。 どちらにしても、ひとたび灰燼に帰してしまうと、新しい大壇那をみつけて再興するのは非常に難しいのです。 たびたび莫大な寄付をしてもらえるはずもなく、戦乱の後だと大壇那自体が権力を失っているかもしれません。 応仁の乱によって、古き由緒ある寺院が次々と消えてしまったのもこのためなんですね。 長い暗黒の時代に終わりをつげたのが、桃山時代のはじまり、桃山文化が開花したころでした。 近世前期の平和の始

    南禅寺・方丈 なにがなんでも再興させる 崇伝の奔走 東へ西へ - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/07/07
  • 金地院   禅宗最高峰の住持 以心崇伝  - 京都案内  こうへいブログ  

    悪国師の名を受けて 徳川家康には、極めて優秀で才覚に長けた徳川幕府三百年の治世の基盤を築き上げたブレーンが二人いました。 一人は、民衆に絶大な人気のあった天台宗の傑僧・南光坊天海。 そして、もう一人は「悪国師」と呼ばれ、人々を苦しませる悪役の役割を担った「黒衣の宰相」以心崇伝(いしん すうでん)です。 南禅寺の塔頭寺院である金地院は、もともと南禅寺の住持だった崇伝によって再興されました。 幼いころから突出した学才を身につけていた崇伝は、わずか37歳の若さで南禅寺の住持となったのです。 当時、南禅寺は禅宗最高峰の寺院であり、その住持となることはすべての禅僧の目標であり夢でした。 その崇伝の異例の出世は、足利義輝の近臣・一色藤長の孫であったという出自もあるのですが、やはり並ならぬ頭脳と世才が備わっていたからできたに違いありません。 https://photo53.com/ 方広寺・鐘銘事件

    金地院   禅宗最高峰の住持 以心崇伝  - 京都案内  こうへいブログ  
    yurahime5
    yurahime5 2020/07/03
    他者からどう思われようと、己の信ずるところを全うする・・・ 並みの人にはできませんね(*_*;