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文章に関するyuzuyu_koroのブックマーク (12)

  • 三点リーダについて - しまうま技研

    あのね・・・なんて省略表現で中点(・)を使うと、モヒカン族と呼ばれる人たちに絡まれるらしい。 三点リーダ - モヒカン族 私はこのブログに限らず、仕事でも省略表現には中点を三つ連ねて使っている。 理由は単純で、その方が長さが適当と思えるから。 三点リーダ1個(一文字分)だと、何だかもの足りない感じがするんだなこれが。 「じゃあ三点リーダを2個並べればいいじゃないか」とおっしゃるかも知れないが、そうすると点の間隔が微妙に不揃いになるから嫌なのだ。 どっちにしろ主観的な理由で使っているだけだから、当に恥ずかしい間違いなら正さなければならないだろう。 そう思って「中点を三つ連ねて省略表現とするのは誤り」という説の根拠を調べてみた。 まずWikipediaで調べてみると、その論拠はどうやら文化庁の「国語表記の基準」参考資料「くぎり符号の使ひ方」にあるらしいことが分かった。 リーダー (記号) -

    三点リーダについて - しまうま技研
  • タルタルソースも空を飛ぶ:無駄な文章なんてない - livedoor Blog(ブログ)

    俺はどっちかというと長文嫌いです。いや正確にはだらだらと長い長文が読みたくないんです。長い文章でもその中に起伏があったり、工夫があると読むのが苦でなくなります。 面白く、引き込める文を書けるならともかく、そんなことは簡単にやってのけるほどのものではありません。読ませる気がないんだったらともかく、読ませたいならなんとかしてほしい。これは固定読者の多いブロガーにとくに見られるようなきがしてならないんです。まあ、そういう人はきっと読みたくないなら読むな、っていう人なんでしょうけど。 ■中身か長さか、それとも簡潔にか まず、読まれる読まれないで、よくいわれることは中身、文の長さ、そしてまとまっているかである。でも、考えてみれば、おかしくはないだろうか。長さはともかく、中身なんて読まなきゃわからないでしょう。まとまっているかもある種の工夫でもしない限り、読まないとわからない。つまり多くの人たちが読む

  • 「光と影」の呪縛 - H-Yamaguchi.net

    なんじゃそりゃ、と思うかもしれないが、見れば「あるある」という人も少なくないにちがいない。こんな感じだ。 テーマは何でもいい。「○○について論ぜよ」とか、「○○について△△の観点から説明せよ」とか、まあそういう類のやや漠たる問題を与えるとする。たとえば、「アマゾンのビジネスモデルを説明せよ」みたいなのだとしよう。そうすると、やれネット販売で手軽に買えるとかロングテールでどうとかアフィリエイトでどうとか、一般的な説明を書いてくる。いやそういう答えを求めている問題なのでそれでいいのだが、その後なぜか判で押したように、「ネット販売はかくかくしかじかの悪いところがあって」と続く。で、最後に「便利だが危険性もあるので、気をつけて活用していきたい」という決意表明で締めくくられる。 この論旨が、何を聞いても繰り返される。iTMSでもSNSでも、参加型ジャーナリズムでも携帯コンテンツでも。要するに、何を論

    「光と影」の呪縛 - H-Yamaguchi.net
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/08/05
    その「呪縛」に空恐ろしさを感じるだけなのかな?教育が悪いと嘆くだけなのかな?「気をつけよう」を使わないで書くと条件をつけるとか、違うアプローチを提示することはしないのかな?
  • 関心を持ってくれるユーザがそばに視えるようになったことで、文章を書く垣根は低くなった - 余暇の記録

    HTML手打ちの時代は ARTIFACT ―人工事実― | Weblogになってから「文章」は書かれなくなった? 琥珀色の戯言 - ブログに移行すると「文章の質が落ちる」理由 HTMLを手打ちで書いていた頃は、ひとつのHTMLファイルごとに「作品を作る」という意識が片隅にあったように思う。 ネタが熟すまでは多少時期が空いても更新には手を着けなかったし、他人に読んでもらうという意識よりも、自分自身がファイルに打ち込んだ文章に納得できるかどうかがまず先にあった。 ユーザがすぐそばに「視える」ということ はてなのウェブサービスを使い始めて感じたのは、サイトの管理人と読者の距離が、HTMLを手打ちで書いていた数年前と比べて格段に縮まっているように思えたことだ。 たとえば自分の日記に関心のあるユーザの「数」を知るならば、はてなでは下記のような手段が用意されている。 はてなアンテナ:自分の日記を含むア

    関心を持ってくれるユーザがそばに視えるようになったことで、文章を書く垣根は低くなった - 余暇の記録
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/07/27
    見てもらえるという緊張感はより強まっていると思う。納得の職人技から、達者な演出家で華やかさが増えたかも。
  • 勢いで書くか、良く考えて書くか - 最終防衛ライン3

    長文を書く理由 人力検索はてな - なんで皆さんは、ダラダラと長文をかくのですか?なんて質問があるわけですが、なぜでしょうね。 私はここ最近、だらだらと長文ばっかし書いてるわけですが、その理由は自分の考えをまとめたりだとか、言いたいことがあったりだとか、まぁそんな感じ。面白いこと(自分にとって)を思いついたので、忘れないようにメモ兼まとめつつ、それを誰かが評価してくれたり、共感してくれたら嬉しいので更新しているのだろう。 歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 取り上げられ言及される事の喜び 明日は明日の風が吹く - 取り上げられ言及される事の喜び(from 歓楽叶わぬ納骨堂庭園) たくさんのアクセスも嬉しいことだが、たった一つの言及はそれ以上の喜びに というわけで、何かを語りから長文を書くというのが真理だと思うのですが、何故こうも長くなってしまうのか。 その理由は、他人に何かを説明するには手取り足取り

    勢いで書くか、良く考えて書くか - 最終防衛ライン3
  • 文章を書くのに必要なのは時間だけじゃない - 北の大地から送る物欲日記

    ブログをやってると、それがニュースサイトっぽいものであれ、何かについて語っているような内容であれ、日記調であれ、なにかしらの文章を書くことになります。そう、文章を書くんです。(写真だけのブログとかは、ここでは除外) 基的に、時間がなければブログを更新することは無理なのですが、じゃあ時間があったら更新できるのか?って言われるとそれがそうでもなかったり。なにも考えずにただ文章を書くのだったら、少しの時間があればできるんですが、自分が何を言いたいのか、何に興味を持ったのか、感動したのか、憤りを感じたのか、そんなことを考えながら文章を書くという行為は、時間だけじゃなくて心の方にも余裕がないとできません。 あぁ、1時間ほど時間あるなと思っても、明日テストだったり、心配事があったり、忙しくて精神的に疲れてたりとかすると、更新するための文章を書くことができません。 この心の余裕を持てるように保つのは、

    文章を書くのに必要なのは時間だけじゃない - 北の大地から送る物欲日記
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/07/24
    ]書きたい表現したい知らせたいという欲求は、無理やり搾り出せない。
  • あなたの文章を殺すのは誰か。 -

    あなたがWEBに書いたその文章ですけど。 誰かに伝えたくて書いていたとあなたが思うのならば、誰かに伝わらなくちゃ当とは言えない。伝わりさえすればその文章も望のはずです。伝わる相手が誰であろうとも。 誰か見知らぬ人に伝わった段になって、叩かれてこき下ろされてそしてビビって「べ、別にあなたのために書いたわけじゃない」とか「すんません、こんなことチラシの裏に書くべきでした」なんて言って伝わることを否定したり文章を取り下げたりしたなら、それはあなたの文章に対して失礼だ。いや失礼なんていう言い方では軽すぎる。伝えるために書いた文章に対して「伝わらなければよかった」と宣言することは、その文章を殺したことと同じです。あなたは自分で生み出したものを自分の手で殺すことになる。 あるいは。 そもそも、あなたが誰かに伝えるつもりもなくただ漫然とWEBに文章をあげているのならば、誰かに伝わってしまうことは事故

    あなたの文章を殺すのは誰か。 -
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/06/30
    自分の発信した文章にもっと自信を。
  • みやきち日記 - ネットリテラシーやメディアリテラシー以前に、「プチ文盲」な人が多くないか

    塾の講師を長年やっていて気づいたのが、文字から情報を取り出して理解することができない子がたくさんいるということ。その能力の低いこと、もはや文盲に近いです。あたしは便宜上こうした子たちを「プチ文盲」*1と呼んでいます。 塾で使うワークブックには、問題だけでなく、「要点のまとめ」や「アドバイス」などのコーナーがあります。そこを見るだけでかんたんに解けてしまう問題も多いです。ところが、「プチ文盲」の生徒たちは、「『要点のまとめ』のここを見て調べながらやってね」と言われてさえもまったく問題が解けません。ちなみにそういう生徒に「まとめ」の部分を音読させてみると、こんな感じ。 生徒「be動詞の疑問文は、be動詞を……ぶ……『ぶんあたま』って何?」 あたし「『ぶんとう』(文頭)」 生徒「……『ぶんとう』に出す。否定文ではbe動詞の後にnotを『よういる』」 あたし「『もちいる』(用いる)」 生徒「……『

    みやきち日記 - ネットリテラシーやメディアリテラシー以前に、「プチ文盲」な人が多くないか
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/04/26
    知識や経験を自分自身に取り込む行為が、敬遠されがちになってきた。
  • 第一回奇想天外SF新人賞:最終選考

    ◇『奇想天外』1978年2月号「新人賞選考座談会」より一部抜粋しました。 ◇星新一、小松左京、筒井康隆の三氏による各候補作の品定めも終わり、いよいよ最終結果の発表です。 最終選考 編集部 結局残ったのは、「僕の思い出がほんとうなら」をはじめとする10篇ですが… 星  「みっつのおとぎ話」は問題があるな。組みあわせにどうしても難があるし、三つの物語が一応ワンセットになっているんだから、「幻のセールスマン」だけを取り出すというのもおかしい。 小松 しょうがないね。 筒井 とびぬけていいというのがないなァ。 星  あるじゃないですか。ぼくがあれだけいっているのに……(笑)。ほかのは、いい年しやがってもっとヘタクソだと思うな。 筒井 「カッチン」がいいですよ。上品さがあるでしょう。ぼくは、「あたしの中の……」より「カッチン」をとる。ただ、どちらにしろ、幼さでトクをしている面があるのはたしかだ。 星

  • 第一回奇想天外SF新人賞選考会:選考過程

    HOME > 奇想天外新人賞:選考過程 デビューはこうして決まった。 第一回奇想天外SF新人賞:選考過程 ◇『奇想天外』(注1)1978年2月号「新人賞選考座談会」より一部抜粋しました。 ◇当時、都立井草高校2年生の新井素子さんがこの新人賞に応募し、その作品が最終選考まで残った、というのがこれまでの経過です。 ◇選考委員は、星新一、小松左京、筒井康隆の三氏です。 「あたしの中の……」新井素子 小松 「あたしの中の……」これは16歳の少女でしたね。 星  これは、驚いたの一言につきたな、ぼくは。 小松 そうかねえ、ぼくはあんまり感心しなかったけど。 星  違った世代が、ついに出現したという感じを受けましたね。テンポというものがあるんだ。今までの小説の中にない新しさというとテンポだろうと思うんだ。 筒井 それならば、むしろ「カッチン」(注2)のほうがいいですね。「あたしの中の…」の場合は、話が

  • 1978年論ノート05

    ■星新一が新井素子の中に見出したものは、何だったのか 78年は、新井素子が格的に活躍を開始した年です。 右の写真は、この年に発売された新井素子の最初の単行です。 新井素子の登場と、その受け入れられ方というのは、現在から振り返ってみると時代の節目となる大きな事件でした。 当時の私はそんなことを思いもせずに、無邪気に同世代作家の書いた小説を読んで喜んでいましたが、今にして思うと、ここでもはっきりと何かが変わっていたのです。 新井素子はSF専門誌「奇想天外」の新人賞で佳作をとり、78年2月号でデビューしました。この号が発売されたのは77年12月のクリスマス頃だったと思いますから、デビューは正確には77年ということになります。同時に佳作をとってデビューした5人の中には山弘などもいます。 この時にSFファンの間で話題になったのは、同じ号に掲載された選考座談会の内容でした。選考委員は星新

  • 書籍の泉:ウケるブログ Webで文章を“読ませる”ための100のコツ - livedoor Blog(ブログ)

    高瀬 賢一 (著) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4774122580/yougakunoizum-22/ ■ブログに特化した実践的文章テクニック集だ ブログの特徴は「読む」文章ではなく「見る」文章なんだとして、これに合わせた書き方が必要なんだということを指摘。いわゆる斜め読み。これを「スキャンする」と言ってる。 ブログの書き方とは「スキャンさせる」文章の書き方なのだ。 「ほぉ!」と思わせる豊富な実例が実にわかりやすい。 結果として、「読みやすい文章」の書き方のになってる。 「読みやすい文章」ってのは(意識して)熟読しなくても理解できるものだ。 見ただけで頭に入る文章は、さらに読みやすいハズだ。 そう思って、一種の「文章入門」として取り上げたい。 ■テクニック ・書き出しのテクニック ものの動きで書き出す、何かヤバイ?と思わせる、謎めい

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