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lifeとwarに関するyyamaguchiのブックマーク (3)

  • 長崎の原爆投下直後の少年の写真に「私はいま、憤っています」草笛光子90歳が語る戦争のこと「空襲のたびに5歳の妹の骨壺を」 | 79年目の終戦 | 文春オンライン

    90歳を迎えても主演映画『九十歳。何がめでたい』が公開されるなど、女優として活躍する草笛光子さん。1933年生まれの草笛さんは、その子供時代を、戦争の真っ只中で過ごす。いまや数少なくなった戦争を知る者として、最新刊『きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話』で、戦争への思いを、歯に衣着せず語っている。(全3回の1回目/#2、#3を読む) ◆◆◆ 誰がこの子に、こんな思いをさせたのか 私はいま、憤っています。そして、可哀想で可哀想で涙が止まりません。この写真は、何度見てもダメ。「焼き場に立つ少年」という写真です。小学校中学年くらいの坊主頭の男の子が、死んだ弟を背中におぶって、火葬場で順番を待っている写真。昭和20年、原爆が投下されたあとの長崎で、アメリカの従軍カメラマンが撮影したそうです。

    長崎の原爆投下直後の少年の写真に「私はいま、憤っています」草笛光子90歳が語る戦争のこと「空襲のたびに5歳の妹の骨壺を」 | 79年目の終戦 | 文春オンライン
  • あの戦争を生き残った私からあなたへ(飯田進)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ

    あの戦争とは何だったのか。 あれが「防衛のための戦争」であったという見方は根強くある。しかし他方で、あれが「侵略戦争だった」と言われれば、そう思われる歴史的な筋もないことはない。 そのように世の中を二分するような全く異なる見解があるとき、正邪を軽々しく論ずるわけにはいかない。いずれの立場にも考えがあり、部分的に見ればそれぞれの主張には論拠があるからだ。あの戦争の背景にはかなり複雑な要因があった。それは、70年の時を経た今なおそう思う。 一口に言えば、日人はそもそも浮き上がっていた。それは誰も否定できないはずだ。 私もその中の一人である。1941年の末に太平洋戦争が始まり、まだ20歳にも満たなかった感受性の強い時分の私は、いわゆる「興亜青年」のはしくれだった。「日は神国である」という極めて単純な考え方──あまりに神がかり的で、独善的な思想がその背景にあった。 そもそも日の近代とは、欧米

    あの戦争を生き残った私からあなたへ(飯田進)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ
  • 戦争の体験談を語るわ 前編 : まめ速

    1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/05/19(水) 12:57:06.07 ID:sViwJ6eP0 15年以上昔の出来事だから、よく知らない人が多いかもしれないけどさ。 4:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/05/19(水) 13:02:19.57 ID:sViwJ6eP0 少し長くなるから、先に何が起きたから軽く書いておくね。 今から20年近く前の話だから、多少忘れてたり、間違ってたりするかもしれない。 そこは許して欲しい。 先に結論というか、書いておくけど。 今から話す内容に出てくる子がどうなったか、先に書いておく。 ソニアは殺された。 サニャは爆発に巻き込まれて死んじゃった。 メルヴィナはレイプされて連れ去られた。 メフメット・カマル・ミルコはわからない。 カミーユも死んでしまった。 ドラガンって子は、裏切ったと思っていたけど、実

    戦争の体験談を語るわ 前編 : まめ速
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