………というわけで、最後にはマイケル・ミルトンまで再登場する。 「男(マイケル・ミルトン)にはなにかが欠けているようにダンカンには思えたが、欠けているものがペニスであるとは、とうてい、知るべくもなかったことであった。」 このエピローグの章ではほとんどの登場人物たちのその後の人生がつぶさに語られる。しかしそこには当然、それまでの物語がそうであったような常識離れしたエピソードなど出てこない。残された彼らは、ジェニーやガープの思い出をあたためながら、人を愛し人に愛され、時には涙を流し、そして順番に死んでいく。 マイケル・ミルトンは、生きることが、そしてセックスをすることが大好きな、活気あふれる美しいひとりの若者であった。他の登場人物たちと同様に。しかし彼だけはこの小説の登場人物の中でも特別に過酷な仕打ちを与えられることになる。 この懲罰が『ガープの世界』の成功に不可欠の設定であると作者が考えてい
変人と奇想天外な事件ばかりの現代アメリカ小説、わたしはけっこう好き。コスプレ好きのフランク、気の強いフラニー、筋トレ好きのジョン、小人症のリリー、耳の遠いエッグ。十五歳のジョンは、大晦日の夜、自分たちは変人だと気付く。家族以外の人間に自分の家族を紹介する際に「恥ずかしさ」を感じるからだ。また飼い犬ソローは死後、剥製にされる。ソロー(悲しみ)がいる一家には悲しみがつきまとう。ホテルニューハンプシャーの宿泊客はおらず、売ってしまう始末。そんな調子で下巻へ。 p218 フラニーはまた風呂にはいりたいと言った。ぼくはベッドに寝ころがって、バスタブに湯が一杯になっていく音に耳をすませた。それから起き上がって、バスルームのドアのところへ行き、何か要るものがあったら持ってきてあげると言った。 「ありがとう」彼女は低い声で言った。「外へ行って、昨日と、それから今日の大部分を持ってきてちょうだい 」彼女は言
『大聖堂』は『愛について語るときに我々の語ること』より後の短編集で、『愛について〜』に含まれている作品のリライトされたロングバージョンを読むことができる。全体的に長めの短編で、私にはこちらの方が読みやすかった。 村上春樹氏も言っているが、こちらには「救い」がちゃんと用意されている。 私は、自分の作品が救いのない打ち拉がれたものが多いくせに「救い」のある作品が好きだ。 登場人物がみんないい人で、理不尽や宿命や最悪の出来事にも負けず、希望がかすかに顔を覗かせる、そういうのが好きだ。 だってそういうことを信じていなければ今の今だって私は生きていられない。 この先に何かいいことが素晴しい出来事が起こらなくても構わない。ただの変哲もない日常でいい。それはそれでとても幸せなこと。 カーヴァーの作品はそういう普通の人たちの普通の生活に起きるちょっとしたことだったり人生を左右する瞬間だったりが描かれている
「風呂」以降の作品が面白かった。 「デニムのあとで」では、どこにでもいるような平凡な人に不運が連続して起こる様を描いている。何も間違ったことはしてこなかったのに、なぜ私達の身に不幸が襲い掛かるのか、という憤りと疑問を丁寧に描いている印象を受けた。「なんで我々だけがこんな目に合わなくてはならないのだ?なんで他の連中の身にこういうことが起こらずに済むのだ?」 「深刻な話」では、男が電話線を切る場面が好きだ。男の感情や、彼が考えていることに関しては全く描かず、男の動作を淡々と描写している。この淡々とした描写によって、男が考える気力と能力を失ってしまったほど打ち破れているような印象がもたらされている(ような気がする)。また、第三者の視点からこの場面を見ると、どこか滑稽さが感じられる。この、哀しみと可笑しさが魅力になっているきがする。
おそらく暗喩も含め考えぬいて研磨された種類の作品ではない。この最初の短編集以降多少「狙った」作品も出てくる印象はあるが。かといって味わえないという事はない。自動書記的に手癖で綴っても、いやだからこそ作家の古い大脳皮質のようなもの、つまり本性がにじみ出てくるというものではなかろうか。淡く静かに病んでいる。そして全てに通底している祓いようのない死の影。 巻末のウイリアム・キトリッジによる解説、ないしは追悼文が感動的、かつかなりの多くを理解できる手掛かりになっている。
「TVピープル」は、日曜日の夕方、3人のTVピープルが僕の部屋にやってきてテレビを運び込むという、首をひねりたくなるような不思議な話。 「我らの時代のフォークロア」と、「眠り」が面白かった。 この先何が起こるのだろうと期待しながら読み進めるのだけれど、結局何も起こらず、決定的なオチもなく、そのことがかえってこちらをホッとさせる。 村上作品は、すべてが現実離れしているようだけど、意外と現実を鋭い目で見てるのではと思える部分がある。 だからこそ共感できるし、不可解だけど面白い。
初めて読んだ時から 実に22年! 村上春樹の記念すべき初の短編集であり、 いまだに春樹さんの短編集の中では この作品が一番だと思っています(^^) (個人的な意見を言えば村上春樹は 優れた短編小説家だと思う。彼の長編の多くは実験的に書いた様々な短編をつなぎ合わせたものだし) 若き日の村上春樹だからこその ニヒリズムとキザ一歩手前のセリフ。 熱くなり過ぎず、 けれども揺らぎない芯を感じさせる クールで抑制された文体。 どんな話の中にも キラリと光るセンス・オブ・ユーモア。 ひょうひょうとして見えても みな喪失を抱え、 自らの信念やルールに従って生きる ハードボイルドな登場人物たち。 ああ~やっぱ好きなんよなぁ~、 この頃の村上春樹♪ 今改めて読んでも 初めてこの本に触れた時の喜びが蘇ってきたし、 その当時の空気感や匂いまでも 瞬時に思い出させてくれる。 かつて出会った中国人たちに思いを馳せる
この本にはエッセイと詩と短編が収められている。 短編はこれまでにも収められていたもののバージョン違いの作品もある。 『足もとに流れる深い川』は私が特に好きな作品。 今回のバージョンは以前に読んだバージョンで <もっとこうだったらもっといいのに> と思っていた <こうだったら> の部分が書き足されていて、すごくいい。ようやくしっくりした感じ。絶対このバージョンの方がいい。 精神病の徴候のある妻と川に棄てられていた少女をすぐには通報しないで放置していた夫。夫の方は<まとも>だけれど人間として深みがない。語り手は妻だからこの話自体の真実性に疑問もある。 すごくよく考えられているし、すごく興味深い作品。たぶん読む人によって様々な読み方が出来て、どの人間に焦点を当てどの角度から話を見るかでも内容が変わってくる。私は以前のバージョンでも今度のバージョンでも妻の目線でしか読めずこの妻の気持ちがすごく分か
今まで様々な本を読んできた。中でもこの本にであったことは、記念碑的な出来事だと感じる。 見えない人間の肖像 ポール・オースターの初期の作品だそうだが、彼が作家になろうとした過程で、まずは書くことで過去を生き返らせる方法を取る。 それは過去の記憶を、平行して過ぎていった自分の時間を、亡くなった父親を書くことで現在に手繰り寄せていく。 父親は意固地で頑固で、自分の周りに人を寄せつかない、なにか現実から浮き上がったような人だった、世間からはみ出さないだけの智恵はあり、心のこもらない言葉はすらすらと出てきた。経済的には豊かさを金で買うことが生活の一番の目標だった。不動産業で一時は成功した。世間的には、面倒見がよく先が読め人から親しまれている部分もあった。 三週間後遺品の整理中に、手もつけていないらしい一箱の写真を発見した。初めて父の過去と対面する。 父の生い立ちを見たとき、息子として暮らした生活の
誰かのおすすめ本で紹介されていて 気になって購入後、積読したままにしてたら 何に惹かれて買ったか、どんな内容か さっぱり忘れてしまってた わたしの最近の傾向でSFだったかなーと 思いながら読み進めたが、物語である。 僕の視点で話はすすむ むむむ、最後まで読み切れるかなー と不安になりつつ、読み進める 50ページも過ぎた頃からか どんどん引き込まれていく 彼の中に。 小説って、また読もうと思うものはなかなかない 一回読んで、あーよかった、面白かったと でも、最後まで、ワクワクもするし 人生についてすごく考えさせられる アメリカ文学って、結構文化的なことを 知った上じゃないと楽しめないのが多くて 苦手だけど 知らなくても、訳も素晴らしいのだからだとおもうが すんなり溶け込める そして、人生の移り変わり、はかなさ 生きること、死ぬこと 偶然や必然や運命や いろいろ思うこと尽きない 初読みでは、全
存在意義・理想の人物像を 追求する少年達の物語 ・ 【感想・考えたこと】 ✏︎池袋で繰り広げられる、不可解な事件や少年グループの抗争を通じて、成長過程のこどもの精神的な脆さや、危ない道を選択してしまった際には取り返しのつかない力になってしまう恐ろしさが表現されていました。 ・ ✏︎自分の知らない世界では繰り広げられているかもしれない、見えない権力争いの一端をイメージすることができ、恐ろしくなるものの、ハラハラドキドキする展開が繰り広げられ、どんどん読み進めてしまいました。 【メモ】 ✏︎ガキどもにはモデルがない。身近なところに目標になる大人がいないし、夢も見せてもらえない。おれたちはモデルと絆を用意する。自分が必要とされている充実感、仲間に歓迎を受ける喜び。規律と訓練。今の社会では得られないものを、力をあわせ見つける。 ・ ✏︎まわりで人が死ぬと、自分もすこしずつ死んでいくんだ。愛してる人
女房に逃げられたジム・ナッシュであったが、行方知れずだった亡き父より突然20万ドルの遺産を受け取ることになった。 消防士を辞め、娘を姉に預けて、家や家財道具一式を売り払いナッシュがしたことは・・・。赤いサーブを買ってアメリカ全土を疾走することであった。 来る日も来る日も理由もなく当てもなく車を走らせるナッシュ。 一年経ち、遺産の残りも少なくなってきた頃、ある道端で拾ったのは若い相棒ジャック・ポッツィであった。ポーカーが大得意だと言うポッツィの話に乗せられる形でナッシュはポーカーの大勝負にのぞむ・・・。 ここまでだけならアメリカン・ニューシネマのノリだなとか、ポーカーの大勝負のくだりになるとハリウッドスター向けのストーリーだなとか、そういう映画的な雰囲気が満載の出だしで、ポール・オースターにしてはエンターエインメント系の映像主体の物語かなと思っていたら、ポーカーの大勝負前後にかけてだんだんと
「ささやかだけれど大切なこと」をおすすめされて読んでみたのですが、これは確かに良い小説でした。タイトルから勝手に名作の気配を感じていた私は、何か良い絵本を読んだときのような、温かい感動と教訓がもたらされる作品かとはじめは想像していましたが、少し違いました。そうではないのですが、なんとも言えない味わいがあって心をつかまれる、そういう良作です。これは「ささやかだけれど大切なこと」に限らず、本書に収められている他の作品にも共通することですが、人生の荒波の中で心のどこかに傷を負った大人たちの、それでも譲れない何かを守るための闘いの物語というか、決して派手な激変があるわけではないですが、その闘いの中で偶然的に見えてくる新しい展開に、はっとさせられるものがあります。私は特に、「大聖堂」と「ダンスしないか」が好みでした。
作品紹介・あらすじ 「センセイ」とわたしが、過ごした、あわあわと、そして色濃く流れゆく日々。川上弘美、待望の最新長篇恋愛小説。 あなたは、高校時代の先生の名前を覚えているでしょうか? 人間は群れで生きる生き物であり、日々誰かしら新しい人と出会い、その名前を記憶していくことを繰り返していきます。そんなことはないと思われるかもしれませんが、あなたは無意識のうちにテレビのニュース報道や、ネットのSNSを通じて日々新しい人たちと出会っているはずです。一方で私たちの記憶容量には限界があります。関係しなくなった人の名前は自然と忘れていくものです。それは、かつて恩師として私たちにいろいろな知識を授けてくれた学校の先生も同じことです。担任はまだしも、ましてや特定科目の先生の名前まで記憶し続けるのは容易ではありません。しかし、世の中は広いようで狭いものです。そんなかつての恩師と居酒屋で偶然にも再開する、そう
窓を大きく開け放って、 部屋に風が入ってくるのを確かめたら、 クッションをかかえて窓辺の大きな椅子に行って 詩集を読もう。 ゆっくりと、 コーヒーがポットの中でお茶のように膨らむのを待ちながら、 最初の1頁をめくろう。 レイモンド・カーヴァーの後期の2つ詩集、「水と水が出会うところ」と「ウルトラマリン」を収めた全集の1冊を読む。もともとカーヴァーを読むきっかけとなったのが、彼の初期の詩「夜になると鮭は・・・」であったので、一度その詩を真面目に読んでおきたかったのだ。しかし、この1冊に収められている詩は、「夜になると鮭は・・・」とは、全く異なった趣のあるものばかりだ。 先入観なしに、ということはつまり、カーヴァーについて余り知識の無い状態で読み始めても、この詩集に収められている詩が、彼の人生の断片を切り取ってきて置いたものに違いない、との確信を読み進めるうちに得てしまう。人生のゴタゴタが容赦
作品紹介・あらすじ 妹の死。頭を打ち、失った私の記憶。弟に訪れる不思議なきざし。そして妹の恋人との恋-。流されそうになる出来事の中で、かつての自分を取り戻せないまま高知に旅をし、さらにはサイパンへ。旅の時間を過ごしながら「半分死んでいる」私はすべてをみつめ、全身で生きることを、幸福を、感じとっていく。懐かしく、いとおしい金色の物語。吉本ばななの記念碑的長編。
自分が若かった頃読んだ本の再読ブームが来ている。 当然ながら昔と受ける印象はかなり違うと感じた。 最初に読んだときはくすぶっている若者の成長譚、あるいは悪事を働いた巨大な銀行を知恵とスキルで手玉にとるクライムサスペンスとして楽しんだものだった。 同じ小説でも時を経て読んでみると依然面白いのだが、なんともやりきれない感じが残った。 「罪と罰の非対称性」とでも云うべきか。 確かこの小説が原作のドラマ「ビッグマネー」では融資つき変額保険を作った張本人(確か原田泰造さんが演じてた気がする)が罰を受けた記憶がある。それがテレビの大衆性ってことなんだろうが、現実はそうは行かない。 大体罪を犯す者と罰せられる人間は別である。 白戸もその辺りは理解していて、今の行員に同情はしているが、まつば銀行をはめるディールの手を緩めることはしない。 またディールの成果を得るのも一部の人間であるし、失われた命が戻ること
寡聞にして情報デザインという単語を初めて聞いた。デザインと聞いてイメージしやすいのは、機能・要求仕様を詰め込むための設計、というものだが、これをユーザの体験やネットワークという視点で実装するのが情報デザインの理念らしい。この部分が個人的にグッと来た。 人間がツールを使うという考え方ではなく、人間に新しい生活を満喫させるためには何がどういう形で必要か、という考え方なのだ。昔の軍人が軍服にあわせて体を絞ったのとは違って、オートクチュールで軍人にあわせた軍服を作るやり方とも言える。 そういう情報デザインの考え方に従って、どのような手順でデザインを行っていくのかを、ブレイクダウン形式で概要を紹介していく。 「Ch.3 ユーザ調査のための手法」「Ch.4 コンセプトのための手法」などは、製品などのデザインだけでなく、業務・システムのデザインにも活用できるやり方だと思うし、実際にビジネス書としてこの辺
>IAとは(専門家ではなく)スキルである これに尽きる。 >つまり「情報アーキテクチャ」とは「デザイン」が大きく関係してくると同時に、「テクノロジー」や「コンテンツ」についても検討をしていく必要のある領域と理解することができます。 同意。 自分個人で読む上では★2だが(日頃の作業に直結しないので)、産業的課題としての「IA人材育成」という観点で身近な人に推薦したい、という意味で自分にとっての価値は★4。
読了しました。 ■なぜ手に取ったのか 2023年大阪マラソンにエントリーし完走を目指すために、 図書館で見つけ購入し手にした本です。 ■何が語られていたのか 著者は、金メダリスト高橋尚子さんを育成された小出監督。 タイトルのとおり、ジョギングとマラソンの初心者に対して 説明する内容となっています。 小出監督は気さくな方で、「がっはっはっ」と笑っている 映像を良く目にしたことがありましたが、そういったテイストで 内容が語られています。 小難しいランニング理論や、筋力のつけ方などではなく、 「走ることを楽しむ」を最大限優先した内容です。 基本は、一問一答で書かれており、右ページに短文、左ページに イラストか写真が掲載されており、頭にビジュアルとしてまず はいってきて短文を読んで納得するという構成になっています。 小出監督は「ランニングは自由なものだ」との考え方。 何かやり方を縛るのではなく、寄
借りたもの。 Webデザインの参考になる、カラーサンプル、カラム、レイアウトなどのテイストをケース毎に紹介。 コードについては言及されていなかった。
立教大学の歴史は、米国聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズが1874年に創立した「立教学校」から始まります。キリスト教が厳しく弾圧されていた時代に聖書と英学を教える私塾を開くのは、計り知れない苦闘があったことでしょう。それでもウィリアムズは教え伝えること自体が自分の使命だと確信し、需要のない中でも教育を行う道を選択しました。145年以上を経た現在においても、その姿勢は失われていません。立教大学は世間のニーズに応える形で教育を展開するのではなく、「普遍的真理を探究し、この世界や社会のために働く者を生み育てる」というミッションのもと、人類が築き上げてきた知の体系とそれらを社会に還元していく力をもつ人を育む場として存在しているのです。 本学の教育方針の基軸であるリベラルアーツは、単なる教養教育などではありません。人類が長い歴史の中で探究してきたいまだ到達し得ない理想——それを追い続ける
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