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科学と歴史に関するzyugemのブックマーク (19)

  • 理研紹介映画『科学の殿堂』完全版(昭和17年制作) - YouTube

    【一般】1917年(大正6年)に財団法人として発足した理化学研究所。その25周年を記念し、第二次世界大戦(1939~1945年)中の1942年(昭和17年)に制作された理研紹介映画です。制作は、理研の発明を自らが工業化した事業体「理研コンツェルン」の一社、理研科学映画(株)。この映画には、理研コンツェルンをつくった大河内正敏(財)理研第三代所長(1878~1952年)、国内初のサイクロトロンをつくった仁科芳雄博士(1890~1951年)、日のビタミン研究の創始者である鈴木梅太郎博士(1874~1943年)など、科学史に残る偉人たちが出演しています。ほかにも当時の理研を知る上でとても貴重な映像が収められています。

    理研紹介映画『科学の殿堂』完全版(昭和17年制作) - YouTube
  • ゾイデル海の水防とローレンツ

    以下の文章は中央公論社発刊の雑誌「自然」1960年1月号より引用した。 朝永振一郎 著 「ゾイデル海の水防とローレンツ」 1953年にオランダの大物理学者、H・A・ローレンツの生誕百年祭があった。この機会に招かれてオランダに行ったが、そのとき、ローレンツがゾイデル海のダム建設に一役買ったことを知って大いに興味を感じた。先日、このことについて雑誌『科学』に短いものを書いたが、なおひろく人々に知ってもらいたい気がしきりとするので、『自然』から原稿依頼のあった機会に少し詳しく述べさせていただく。 1 ご承知のようにオランダは海よりもひくい国である。したがって国のまわりは堤防でかこまれている。それにもかかわらず、しばしば水害に見舞われ、そのたびに、多くの犠牲者を出した。1916年1月には北海からひどい高潮がおそってきて、ゾイデル海のまわりの堤防がニカ所やぶれ、アムステルダムの北方地方に大洪水がおこ

  • ニュートンの「プリンキピア」や手書き原稿をウェブで公開--ケンブリッジ大

    ケンブリッジ大学図書館は米国時間12月12日、アイザック・ニュートンが記した文書をスキャンして公開した。この文書には、「ニュートン物理学」として知られる法則に達するためにニュートンが考えだした数学の一部が含まれている。ニュートンが学生および教職員として在籍した同校では、所蔵文書をデジタル化して順次公開する予定だという。 最初に公開される文書は、ニュートンの1660年代における数学的研究の手書き原稿に加え、ニュートン最初の著書である「自然哲学の数学的諸原理」などを含む。「プリンキピア」とも呼ばれる同書は、運動の法則や重力の存在の数学的基礎を扱っている。 さらに、光学に関する研究論文、微積分法を生み出した「雑記帳(Waste Book)」なども公開されている。

    ニュートンの「プリンキピア」や手書き原稿をウェブで公開--ケンブリッジ大
  • デーモン・コア - Wikipedia

    この項目「デーモン・コア」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:en:Demon core) 修正、加筆に協力し、現在の表現をより自然な表現にして下さる方を求めています。ノートページや履歴も参照してください。(2021年3月) デーモン・コア(demon core)は、アメリカの核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」で、初期の原子爆弾の核分裂性コアとして製造されたプルトニウムの未臨界塊である。直径89mmの球状で重量は6.2kg。1945年8月21日と1946年5月21日の2度、臨界状態に達する事故が発生した。 このコアは、日に投下される可能性のある第3の核兵器に使用される予定だったが、日の降伏によりその必要がなくなったため、実験に使用された。炉心は、爆弾の爆発を確実にするために、わずかな安全

    デーモン・コア - Wikipedia
  • [どらく] - 朝日新聞がビートルズ世代に贈る、こだわりエンターテインメントサイト

    ビートルズ世代のこだわりエンターテインメントサイト「どらく」は2013年3月31日をもってサービス終了いたしました。 一部のコーナーについては、朝日新聞デジタルのウェブマガジン&(アンド)にて連載を継続しています。 今後とも朝日新聞社のデジタルサービスをよろしくお願いいたします。 ※このページ は30秒後に自動的に「&M」に移動します。 Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission. どらくに掲載の記事・写真の無断複製転載を禁じます。すべての内容は日の著作権法並びに国際条約により保護されています。

  • 天文学の父ガリレオの骨、木星探査機に搭載検討 : 科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    【ワシントン=山田哲朗】米航空宇宙局(NASA)の木星探査機「ジュノー」に、イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイの骨を搭載する構想が検討されている。 ガリレオは1610年、手製の望遠鏡を使って木星の衛星4個を見つけた。実現すれば、天文学の父が、死後約370年を経て木星を間近に眺めることになる。 ジュノーは2011年8月に打ち上げられる予定で、16年に木星軌道に到着、巨大惑星の構造や成り立ちを調べる。 ジュノーを開発中の米科学者チームの間で、ガリレオの業績を記念し、骨片を載せるアイデアが浮かんだ。チーム代表で米サウスウェスト研究所(テキサス州)のスコット・ボルトン博士らが、骨の入手についてイタリア宇宙機関と交渉を進めている。 ガリレオは地動説を唱えてカトリック教会に異端と断罪された。1642年に死んだ際には墓が作られなかったが、1737年、フィレンツェの教会内の立派な墓に遺骨が移された。

  • 40年ぶりの天文台: 極東ブログ

    東京三鷹にある天文台が年に一回公開日を設けているので行ってみた。中学二年生のときに行ってから、もう一度行ってみたいとずっと思っていた。いつでも行けると安易な気持ちでだらだらと時が過ぎ、気がつくと40年近い日が流れてしまった。今日行ってみると、少年の日に見た、大きな望遠鏡を納めたドームが、今はもう実際の観測には使われていないけど、そのままにあって感激した。 中学生のころ私は部活で陸上と物理をやっていた。私が入部する前もそのクラブが物理クラブだったのかよくわからない。先輩たちは全員天文系で天文クラブという雰囲気だったからだ。その関係で13歳だったか14歳だったと思う。三鷹の天文台を見に行ったのだった。閑散とした野原と雑木林の奥に、絵に描いたような天文台のドームがあって印象深く心に残った。 武蔵野の雑木林のなかに今もそれはある。屋根のドーム直径は15m。高さは19.5mもある鉄筋コンクリートの二

  • 18世紀において医学は科学だったのか? - 最尤日記

    ホメオパシーの開祖サミュエル・ハーネマン(Samuel Hahnemann)についての記事が面白かった。けどその前に、finalvent氏はなにかすり替えをしている様に思える。 なぜそんな恐ろしい医療をしていたのか。当時の正統医学ではあらゆる病状は悪い血液から起こるとされていたためだ。ラッシュはすぐれた医師でもあり、医師の倫理感も強かった。「息があり、手が動くかぎり治療を尽くしたい。瀉血をやめるくらいならランセットを握ったまま死を選ぶ」と語った。まさに英雄であった。 身体の毒を出すために、瀉下も広く行われた。下剤である。甘汞つまり塩化第一水銀(Hg2Cl2)が広く用いられた。流涎。つまりよだれがだらだらとなるまで塩化第一水銀を飲ませるのが指針であった。現代医学からすれば、それは水銀中毒の初期段階なのだが、当時は科学的に正しい治療であった。 こんな医療でよいのだろうかと、正統医学に疑問をもっ

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  • トーマス・クーン - Wikipedia Thomas Samuel Kuhn

    トーマス・クーン トーマス・サミュエル・クーン(Thomas Samuel Kuhn、1922年7月18日 - 1996年6月17日)は、アメリカ合衆国の哲学者、科学者。専門は科学史及び科学哲学。邦訳著作における名前の表記はいずれも「トーマス・クーン」であるが、場合によって「トマス・クーン」と表記されることもある。 経歴[編集] 米国オハイオ州シンシナティ市のドイツ系ユダヤ人(ユダヤ系)移民の家庭に生まれる(もともとの姓はCohenという)。 ハーバード大学で物理学を専攻し、1943年にBachelor of Science(B.S.)、1946年にMaster of Science(M.S.)取得。大学院在学中に科学史・科学哲学研究に興味を持つようになったが、博士号(Doctor of Philosophy(Ph.D.))は1949年にそのまま物理学の研究で取得した。ハーバード大学在学中

    トーマス・クーン - Wikipedia Thomas Samuel Kuhn
  • はやぶさラストショット (c)jaxa

    はやぶさラストショット (c)jaxa

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  • 『学習』『科学』休刊のお知らせ | 学研ホールディングス

    2009年12月03日 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。 さて、当グループが発刊しております1946年(昭和21年)創刊の『学習』は“「できる」よろこびと深く学びとるチカラを”をコンセプトに、1957年(昭和32年)創刊の『科学』は“小さな発見・大きな感動・科学っておもしろい!”をコンセプトに、多くのお子様に長い間愛され親しまれてまいりました。 しかしながら、児童数の減少やニーズの多様化等の市場環境の変化による部数の減少のため、誠に勝手ながら『学習』は2009年度冬号(2010年1月1日発行)、『科学』は2009年度3月号(2010年3月1日発行)の発行をもちまして休刊させていただくことになりました。 『学習』『科学』で培ってきた子どもたちを育む力は、これからも各種の科学関連教材や「科学実験教室」等に随時活かしていく所存です。

    zyugem
    zyugem 2009/12/03
    まんがサイエンスとかカサハラテツローの連載とか,懐かしいなぁ。特にカサハラさんの作品群は単行本化されてないから,これを機に出版されないかなぁ。
  • スーパーコンピュータ技術史 - Wikipedia

    スーパーコンピュータ技術史(スーパーコンピュータぎじゅつし)では、スーパーコンピュータとHPCについて、その起源から現在に至るまでの主に技術についての歴史を記述する。 コンピュータ誕生以前[編集] 歴史的に、コンピュータの主たる用途は科学技術計算と事務処理であり、コンピュータの歴史において、前者の歴史は主に機械式計算機などの計算機の歴史に、後者の歴史はタビュレーティングマシンの歴史に繋がっている。 高性能計算の需要は、主に科学技術計算であったが、歴史的には「スーパーコンピューティング」という用語はタビュレーティングマシンに対して使われたのが最初とされている。国勢調査のように(科学計算とも言えるが)事務処理でも、高速に大量の処理をこなすことが必要なこともある、というわけである。 まず、コンピュータ以前の時代についておおまかに述べる。アストロラーベは、天文現象を機械的にシミュレーションするアナ

    スーパーコンピュータ技術史 - Wikipedia
  • ヒトは遺伝的多様性が高いので近親交配が危険 | 5号館を出て

    オープンアクセス誌の中で、無駄に厳しい査読をしないということで、ある意味で心配もされていたPlosOneに、またおもしろい論文が載りました。 The Role of Inbreeding in the Extinction of a European Royal Dynasty 日語でのニュース報道もあったので、ご覧になった方もいるかもしれません。 スペイン・ハプスブルク家、断絶の原因は「近親婚」か 研究結果 せっかくですので、論文を中心にご紹介してみます。ただし、私は世界史に(も)弱いので、歴史的記述には誤りがあるかもしれませんので、ご指摘願えると幸いです。話の内容は、日でも結構有名な顎と下唇を持ったハプスブルグ家の家系、特に1700年に途絶えたスペイン・ハプスブルグ家のことです。 これは最後のスペイン国王であるカルロス2世で、Wikipediaによると「先端巨大症のため、咀嚼に影響

    ヒトは遺伝的多様性が高いので近親交配が危険 | 5号館を出て
    zyugem
    zyugem 2009/04/21
    高校の時つかった生物資料集に,たしか英国王室の話が載ってたな。
  • asahi.com(朝日新聞社):日本の天文観測、推古朝から 国立天文台が日本書紀分析 - 文化

    での継続的な天文観測は推古朝(飛鳥時代前半)の7世紀初頭に始まっていたとする研究結果を、国立天文台のチームが日書紀の分析からまとめた。日などの観測が必要となる暦づくりは皇帝の独占事業で、中国は影響下にあった周辺国に禁止していた。日に律令制が芽生えたのは680年ごろとされるが、その半世紀以上前から、独自の暦づくりへ、布石を打とうとしていた可能性があるという。  天文台の谷川清隆特別客員研究員らは日書紀に記録がある日、月、彗星(すいせい)、月が星を隠す現象などについて中国の記録と比較した。  その結果、620年にオーロラが記録されたのが最初でそれ以前には天文記録がないこと、620年以降には、日でしか観測できない現象が2件、中国でも観測可能だが中国には記録のないものが1件あった。また、同年以降、中国と日の両方で観測された彗星が5個あるが、記述の作法が違い、中国の記録の引き写し

  • asahi.com(朝日新聞社):HIV発見者論争に決着 ノーベル賞に仏の2博士 - サイエンス

    HIV発見者論争に決着 ノーベル賞に仏の2博士2008年10月6日23時42分印刷ソーシャルブックマーク エイズウイルス(HIV)を発見したのはフランスか米国か。長年の発見者論争の最終決着をノーベル賞がつけた。 HIVは83年、仏パスツール研究所のモンタニエ博士らが新種のウイルスとして分離し、LAVと名づけて発表。翌84年、米国立がん研究所のロバート・ギャロ博士らが、独自にウイルスを発見してエイズの原因と特定したと発表した。 しかし、両者の遺伝子はそっくり。米チームの発見前に仏チームから試料が提供されており、「流用ではないか」という疑惑が持ち上がった。 特許紛争に発展したため、87年、当時のレーガン米大統領とシラク仏首相の間で、「米仏両者の貢献と権利は同等」ということで一度は政治決着。88年の日国際賞(予防医学分野)はモンタニエ、ギャロ両博士に贈られた。 ところが89年、米紙が「第1発見

    zyugem
    zyugem 2008/10/07
    そういう意味があったのか。
  • http://www.shinmai.co.jp/news/20060306/KT060305FTI090001000022.htm

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  • http://www.asahi.com/science/news/TKY200510220160.html

  • お知らせ : 京都新聞

    zyugem
    zyugem 2005/10/15
    動かさない,ことに何か意義を見いだしてきたのだろうか。それとも重かっただけ?
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