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考古学に関するBasilio_IIのブックマーク (27)

  • ストーンヘンジの祭壇石はどこから? 100年来の説を覆す新研究

    巨石遺跡ストーンヘンジの中心にある「祭壇石」について、およそ5000年前に、700キロ以上離れた場所から現在の場所まで運ばれたとの研究結果が発表された/David Goddard/Getty Images (CNN) 英イングランドの巨石遺跡ストーンヘンジの中心にある「祭壇石」について、およそ5000年前に、700キロ以上離れた現在のスコットランド北東部から現在の場所まで輸送されたという研究結果が発表された。 8月14日の科学誌ネイチャーに発表されたこの研究は、祭壇石の産地が現在の英ウェールズだったとする100年来の説を覆す内容だった。環状の巨石群の中央にある祭壇石は、ストーンヘンジの建造に使われたブルーストーンの中で最も大きく、6トンの重さがある。 「この石は恐ろしく長距離、少なくとも700キロを旅してきた。この時期の石碑に使われた石の輸送距離としては、記録に残る限りで最も長い」。論文共

    ストーンヘンジの祭壇石はどこから? 100年来の説を覆す新研究
  • Kyoto University Research Information Repository: <論説>ローマ帝国北西辺境における軍の補給政策 --家畜の生産と供給の実態を分析して--

  • 海底で見つけた元寇船を引き揚げたら「軍事編成の研究できる」…弘安の役750年向け研究者意欲

    【読売新聞】  元寇 ( げんこう ) の舞台として知られる長崎県松浦市・鷹島沖の鷹島海底遺跡での発掘調査について、国学院大の池田 栄史 ( よしふみ ) 教授(水中考古学)による成果報告会が島内で開かれた。昨年10月に海底で確認し

    海底で見つけた元寇船を引き揚げたら「軍事編成の研究できる」…弘安の役750年向け研究者意欲
  • 長谷川修一著 『聖書考古学』、『旧約聖書の謎』

    Online ISSN : 2189-9894 Print ISSN : 0916-2984 ISSN-L : 0916-2984

    Basilio_II
    Basilio_II 2023/01/02
    「2つの書物で、多くの物語や事件の史実性が検討されたが、史実性が確認されたのはシシャクのパレスティナ遠征のみ」
  • 安倍・清原氏の巨大城柵 - 株式会社 吉川弘文館 歴史学を中心とする、人文図書の出版

    奥州藤原氏の平泉開府前、奥羽北部の支配は在地豪族の安倍・清原両氏によって担われた。それぞれの居館である鳥海柵(とのみのさく)跡・大鳥井山(おおとりいやま)遺跡を中心に、巨大城柵の全体像を最新考古学の成果を駆使して解き明かす。安倍氏の台頭から、前九年合戦による清原氏への覇権交替、そして後三年合戦へといたる歴史的展開を辿り、東北の古代から中世への転換期に迫る。 序論 安倍・清原氏と前九年・後三年合戦…樋口知志/Ⅰ 安倍氏…浅利英克(陸奥国の奥六郡と安倍氏〈奥六郡と鎮守府胆沢城/安倍氏の出自と奥六郡〉/安倍氏と前九年合戦〈前九年合戦の原因と源頼義の任命/阿久利河事件と在庁官人の権力争い/天喜の飢饉と安倍頼時の死/黄海の合戦の重要性/出羽清原氏の参戦と安倍氏の滅亡/合戦後の展開/前九年合戦を振り返って〉/『陸奥話記』と安倍氏一二柵〈安倍氏の拠点「一二柵」探究のはじまり/河崎柵/小松柵/石坂柵/藤原

    安倍・清原氏の巨大城柵 - 株式会社 吉川弘文館 歴史学を中心とする、人文図書の出版
  • 第1回 世界を股にかけて活躍する気鋭の水中考古学者

    船が沈没するのは、悲劇である。乗っていた人たちは生命を奪われるリスクがとても高く、積み荷は失われる。 しかし、沈没して何百年、時には三千年以上もたった船が、現代を生きるわたしたちに、贈り物をくれることもある。積み荷の重さで水底に押し付けられて、船体の下部と積み荷が海底の砂に埋もれた場合、その部分が「無酸素」状態になり、船を構成する木材や積み荷の中の有機物すら、長期間、保存されることがあるからだ。その場合、沈没船は、陸上の遺跡をはるかにしのぐ貴重な発見に満ちたタイムカプセルとなりうる。

    第1回 世界を股にかけて活躍する気鋭の水中考古学者
  • 「ストーンヘンジの世界」展 大英博物館

    英イングランド南部にある古代遺跡「ストーンヘンジ」(2022年1月19日撮影)。(c)Daniel LEAL / AFP 【2月13日 AFP】考古学者のサラ・グリーニー(Sarah Greaney)氏は、英イングランド南西部のソールズベリー平原(Salisbury Plain)に昇る太陽を眺めながら、古代遺跡「ストーンヘンジ(Stonehenge)」を造った人々の姿を思い浮かべた。 この巨大な環状列石を英国各地や欧州大陸から集まった人々が設置して、約4500年がたつ。 「建造したのは農民で、作物を育てながら家畜を飼っていました。年の変わり目は生活の中で重要な意味を持っていたはずです」。歴史的建造物の保全機関「イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)」に所属するグリーニー氏はAFPにこう語った。 ストーンヘンジは、夏至と冬至の太陽の出没方位に合わせて石が門のように配置

    「ストーンヘンジの世界」展 大英博物館
  • シルクロード考古学研究

    シルクロード考古学研究
    Basilio_II
    Basilio_II 2022/02/05
    「咸陽底張湾隋墓出土のビザンツ金貨」「西安土門村唐墓出土のビザンツ式金貨」「賛皇李希宗墓出土のビザンツ金貨」「中世における中国とビザンツ帝国の関係」「揚州のラテン語墓碑と広州のヴェネツィア銀貨」
  • 「角付き兜」の年代、バイキングより前の3千年前 青銅器時代が起源

    兜は当初、泥炭で発見された/H.W.Nørgaard/The National Museum of Denmark (CNN) 漫画シリーズ「アステリックス」から人気音楽番組「ザ・マスクド・シンガー」のアバター(分身)まで、ポップカルチャーではバイキングは凶暴さや権力を象徴する角付きの兜(かぶと)をかぶって登場することが多い。 しかしこのほど、デンマークのビクスで見つかった2つの角付き兜について、青銅器時代のサルデーニャ島にさかのぼるものだと指摘する研究結果が発表され、バイキング時代が起源だとする説に終止符が打たれた。 この論文は昨年12月の歴史学誌「プレヒストリッシュ・ツァイトシュリフト」に掲載された。 研究にかかわったデンマーク・オーフス大学の考古学者はCNNに寄せた声明で、「大衆文化では長年、ビクスの兜がバイキングと結びつけられてきた。だが我々の調査の結果、これらの兜は今から3000

    「角付き兜」の年代、バイキングより前の3千年前 青銅器時代が起源
  • 山舩晃太郎 『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』 | 新潮社

    沈没船をはじめ、水中に沈んだ遺跡を研究し人類の歴史をひもとく――それが水中考古学です。ドブ川でレア古代船を掘り出し、カリブ海で正体不明の海賊船を推理……。そんなエキサイティングな現場の様子を気鋭の学者がまとめた発掘記、発売! 地球の約七割は海。 教師からそう習ったのは小学生の頃だった。地球は丸い、と知った時と同じくらい衝撃があった。 以来、海へ行く度に思う。 (陸上よりもずっと広い海のことを知らないままだ) 海だけじゃなく、川や湖の中がどうなっているかもわからない。どんな泳ぎの名人でも、ボンベとレギュレーターなしで長く潜ってはいられない。たとえ世界中を旅しても、所詮三割の世界だ。そう考えるとふと謙虚な気持ちになる。 そんな未知なる水中に潜む遺跡を発掘するのが「水中考古学」。書は著者が水中考古学者になった軌跡、これまで潜った現場体験を余すところなく記した一冊。 ユネスコによると、世界の海に

    山舩晃太郎 『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』 | 新潮社
  • トラキアの考古学 - 株式会社 同成社 考古学・歴史・特別支援教育図書の出版社

    ブルガリアを中心とするバルカン半島南東部を舞台に、絢爛たる黄金文明を築き、ローマと覇権を競った古代トラキア人。最新の発掘成果に基づき、その謎多き古代文明の全貌を解明する。 序 章 トラキアの位置と自然 第1章 先史時代のトラキア―トラキア人の民族形成― 第2章 オドリュサイ王国 第3章 ヘレニズム時代のトラキア 第4章 ローマ時代のトラキア 第5章 トラキア人の社会と経済 第6章 トラキア人の軍事活動 第7章 トラキア人の宗教 第8章 トラキア文化 終 章 永遠のトラキア

    トラキアの考古学 - 株式会社 同成社 考古学・歴史・特別支援教育図書の出版社
  • 竹倉史人「土偶を読む」について|白鳥兄弟

    記事は、NHKのニュースで取り上げられるなど、大々的にプロモーションを展開して話題となった竹倉史人氏の著書『土偶を読む』(晶文社)について、筆者(白鳥兄弟=高橋健)の意見を述べるものである。 記事の公開に至る経緯 竹倉史人氏の著書『土偶を読む』について、5月下旬に日経済新聞社にコメントを求められ、取材に対応した。筆者は土偶の研究者ではないが、考古学を専門とする学芸員として博物館に勤務しており、「土偶マイム」のパフォーマンスを行っていることもあって、取材の依頼があったものだと思われる。取材を受けるにあたってまとめたメモが、記事の原型である。 取材は1時間半以上にわたったが、紙面に掲載された筆者のコメントは百文字足らずであり、また記事全体の論調については筆者の関知するところではない。もちろんこうした新聞記事でのコメントの使われ方については承知しているので、この点についての不満は特にない

    竹倉史人「土偶を読む」について|白鳥兄弟
    Basilio_II
    Basilio_II 2021/06/08
    「新説」の新しさって限定的なことがよくあるよね。
  • 中世地中海の船、世界初のデザイン船、サーチェ・リマーニ沈没船(西暦1025年頃)

    前章までは、古代船の造船技術である「シェル・ベース・コンストラクション (Shell-based construction) 」によって造られた船を見てきました。船の外板を最初に組み立てるこの造船方法が産まれたのは、これらの船の祖先が丸木舟 (Dugout canoe) や筏であったからだと考えられています。丸木舟や筏では、積み荷や漕ぎ手の数を増やしたいときに、丸木舟の側面に板を足して船体を大きくしていきました。そして足した横板と丸木舟体のつなぎ目を補強するためにフレームが添えられ始めました。このようにして人類の造船史が始まったために、私たちの祖先は外板を先に組み立てるシェル・ベース・コンストラクションに対して疑いを持たなかったのです。 やがて文明が起こり、より複雑な船が造られていきました。その経験の中で、効率の低いモーティス・アンド・テノン接合が簡略化(洗練)されていき、それに伴いフレ

    中世地中海の船、世界初のデザイン船、サーチェ・リマーニ沈没船(西暦1025年頃)
  • 中世地中海の船、東ローマ帝国イェニカピ港の沈没船遺跡群(西暦900年~西暦950年頃)

    ここでは2005年にトルコのイスタンブールで地下鉄の工事中に発見された「イェニカピの沈没船遺跡群」を主体に、中世中期における東ローマ帝国の造船技術の変化を見ていきましょう。 中世中期の東ローマ帝国(ビザンティン帝国) 9世紀(西暦800年~900年)の東ローマ帝国(ビザンティン帝国)船の描写。ギリシャ正教会の僧侶がラティーンセイルを備えた船に乗っています。(Bass, 1974) (Image from: The Sermons of St Gregory of Nazianzus c.880. MS grec 510, f.367v. Bibliotheque Nationale, Paris) 前章で、中世初期に西ローマ帝国が滅亡した後に文化的停滞がヨーロッパ全土で発生し(俗にいう暗黒時代の到来)、著述や芸術作品から当時の船の様子を推察することが難しくなったと述べました。 このことは中

    中世地中海の船、東ローマ帝国イェニカピ港の沈没船遺跡群(西暦900年~西暦950年頃)
  • 中世地中海の船、東ローマ帝国とヤシ・アダ七世紀沈没船(西暦625年頃)

    ここからは中世の地中海世界における船の考古学を見ていきましょう。 西洋史における中世とは西ローマ帝国が滅亡した西暦476年から1463年の東ローマ帝国の滅亡までの約1000年間を示します。(または15世紀後半の、イタリアで興ったルネサンスがヨーロッパに全域広がった時期が中世の終わりとする説もあります。) 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)と「暗黒時代」 中地中海におけるローマ帝国の勢力圏。緑が東ローマの首都ビザンティウム。赤が西ローマのローマ。(Bass, 1974) 西暦330年にローマ帝国の首都が現在のトルコのビザンティウム(コンスタンティノープル)に移されると、それまでのローマを中心にした地中海西側を「西ローマ帝国」、トルコのビザンティウムを中心にした地中海西側を「東ローマ帝国」または「ビザンティン帝国」を呼ぶようになりました。 西ローマ帝国はゲンマン民族の侵略により西暦476年に消滅

    中世地中海の船、東ローマ帝国とヤシ・アダ七世紀沈没船(西暦625年頃)
  • 「兵馬俑の武器にハイテク」説は間違いだった

    兵馬俑は、死後の世界で秦の始皇帝に仕えるために作られた。(PHOTOGRAPH BY IRA BLOCK, NAT GEO IMAGE COLLECTION) もし、あなたの家の蛇口が光沢のある銀色だったら、おそらくクロムめっきが施されているだろう。このさび止め技術の実験は、19世紀にヨーロッパで始まった。しかし40年ほど前から、研究者やメディアの間では、クロムめっきの起源について別の仮説が広まっていた。クロムめっきは、紀元前3世紀の中国で発明されており、秦の始皇帝陵に兵馬俑とともに埋葬されていた青銅の武器のさび止めに使用されたという説だ。兵馬俑の遺跡がある西安の博物館でも、こうした説明が表示されている。(参考記事:「4.8億円相当、兵馬俑の親指を盗んだ男を逮捕」) この仮説が登場したのは、世界遺産にも指定されている始皇帝陵が発見された1970年代だ。発掘作業の初期、出土した青銅の武器の保

    「兵馬俑の武器にハイテク」説は間違いだった
  • ラッコが道具を使う謎、考古学の手法で迫る

    考古学者は先史時代のゴミを見るだけで多くのことを言い当てられる。太古の昔、腹を空かせた人々が砕いた貝殻の山から、私たちヒトがどこで、どのように、どれくらいの間、暮らしていたのかを読み解くのだ。 科学者たちは現在、同じ考古学的手法を用いることで、ある絶滅危惧動物の新たな側面を解き明かそうとしている。(参考記事:「乱獲で激減、絶滅危惧のラッコ」) その動物とは、ラッコ。野生のラッコは普段から、貝を石に叩きつけて開けている。道具を使用する数少ない動物の一種だ。研究者たちは、カリフォルニア沿岸で貝を割るカリフォルニアラッコを観察し、石の摩耗具合や捨てられた貝殻の割れ具合を分析して、意外な結論を導き出した。(参考記事:「動物大図鑑 ラッコ」) 貝殻の同じ側に割れが集中していた 例えば、捨てられた貝殻の同じ側に割れが集中していたことから、ここに暮らすラッコの多くは右利きであることが示唆された。かつては

    ラッコが道具を使う謎、考古学の手法で迫る
  • なぜ「縄文」は、世界史上でも「ユニーク」な文化と言われるのか(山田 康弘)

    いま、「縄文」がブームである。2018年には、ドキュメンタリー映画『縄文にハマる人々』が話題を呼び、東京国立博物館で開催された特別展『縄文——1万年の美の鼓動』の来場者数は35万人を超えた。1月17日刊行予定の『縄文時代の歴史』(講談社現代新書)は、縄文時代の通史の決定版だ。著者の国立歴史民俗博物館教授・山田 康弘氏に「縄文」をめぐる7つの疑問にお答えいただいた。 縄文土器、あの模様に込められた意味は? Q1:の中に、「縄文時代に恋愛結婚はなかった」とありましたが、どういうことでしょう? なぜ、そのようなことがわかるのですか? A1:人口数の少なかった縄文時代には,1つの集落(ムラ)ですべての料や物資、人的資源が調達できるような、完結した集落はなかったと考えられます。集落を維持するには、近隣の集落などと物資や情報の交換をしていくことがぜったいに必要でした。 そして、そのような交換を行う

    なぜ「縄文」は、世界史上でも「ユニーク」な文化と言われるのか(山田 康弘)
  • 水中に眠る船、都市、集落―― 人類の営みをたどる「水中考古学」の世界 - Yahoo!ニュース

    沈没船や水没した港町、集落――。世界各地の海や湖の底に沈む、そうした遺跡を調べると、タイムカプセルのように、当時の人々の暮らしぶりや新たな史実が分かる。それが「水中考古学」だ。水中の遺跡調査は研究者たちを魅了するとともに、国の海洋戦略としても重視されているという。なぜ、この分野が注目されているのか。専門家たちを訪ね、ロマンあふれる世界をのぞいた。(文・写真:伊澤理江/Yahoo!ニュース 特集編集部)

    水中に眠る船、都市、集落―― 人類の営みをたどる「水中考古学」の世界 - Yahoo!ニュース
  • 考古学が解き明かす「人類史上、戦争はいつどのように始まったのか」(松木 武彦) @gendai_biz

    戦争は人類の性によるものではない 私たち人類社会の「宿痾」ともいえる戦争戦争は、人類史上いつどのようにして始まったのだろうか。それが文字の出現よりもずっと昔にさかのぼる以上、戦争開始のプロセスとメカニズムを突き止める仕事は、考古学にしかできない。 この仕事に初めて取り組んだ日の考古学者は、佐原真(元・国立歴史民俗博物館館長、1932〜2002)だ。佐原は、対人用武器や防御施設などの「戦争の考古学的証拠」が、狩猟と採集の時代にはなく、農耕の時代になってから現れると述べた。 このことから、戦争は人類の性によるものではなく、農耕や、そこからくる富というものをもつようになってから後天的に生み出したものだと主張したのである。 だからこそ戦争は止められる。そのように佐原は、現代社会に向けてのメッセージを発した。 日の場合、格的な農耕は弥生時代に始まる。始まるや否や、佐原のいう「戦争の考古

    考古学が解き明かす「人類史上、戦争はいつどのように始まったのか」(松木 武彦) @gendai_biz