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ブックマーク / call-of-history.com (6)

  • 「〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ」下重 清 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    中世・近世を中心に日において人身売買がいかにして無くならず生き残り続けたか、を通史として浮き彫りにした文字通り「身売り」の日史の概説。 古代から中世にかけて、人はものとして売り買いの対象だった。鎌倉・室町時代を通して時の政権も例えば無理やり誘拐や騙して売り飛ばしたりといったものは不正とされたが人身売買そのものは禁止されなかったし、戦国時代は文字通り「人取り」という奴隷売買が国内のみならず海外向けにも行われていた。江戸幕府になっても禁止されたのは人商い業と人をかどわかして売る行為であって人身売買そのものは禁止されなかった。ただ、譜代下人から年季奉公へと雇用形態が変化したことによって人身売買の対象は大きく縮小したが、男性の人身売買はほぼ無くなったものの、いわゆる遊女・売女など苦界に沈めるという行為を通しての女性の人身売買は残り続けることになった。 何故江戸時代に女性の身売りは無くならなか

    「〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ」下重 清 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
  • 「大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ヨーロッパの中世を「暗黒時代」、すなわち「暴力と狂信と無知と停滞の時代」とする見方はすでに否定されている。確かに絶え間なく続く戦争と、キリスト教的世界観の浸透と、ローマ教会の支配が築かれ、ギリシア・ローマ時代の知識が少なからず一時的ながら失われた時代ではあったけれども、後に近代を切り開く土台となる様々な技術のささやかながら着実な革新が繰り返された、ゆっくりと着実な進歩の時代であった。その中世ヨーロッパのテクノロジーとイノベーションはどのようなものであったのか、緩やかな技術革命の千年を振り返る一冊である。 別に中世ヨーロッパが栄光の時代であったとか、産業革命に比肩する技術進歩の時代だったなどと言う訳ではなく、ただただ、後進地であったヨーロッパで中世の千年間で起きていた地道な技術的革新の歩みを描いているに過ぎないが、そこにドラマがあり、面白さがある。ジャレッド・ダイアモンドとかウィリアム・H・

    「大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「人種主義の歴史」ジョージ・M・フレドリクソン 著

    「人種主義(Racism:レイシズム)」は歴史上どのような過程を経て登場してきたのか?西洋における人種主義の歴史と全体像を丁寧に描いた一冊。 「人種主義」は現代においては「外国人嫌悪(Xenophobia:ゼノフォビア、クセフォビア)」とともに表面化してくることが多いが、歴史的には、古代から様々な民族集団・共同体で見られる「外国人嫌悪」や「自民族(自文化)中心主義(Ethnocentrism:エスノセントリズム)」と「人種主義」の登場とは直接の関係は見られない。 フレドリクソンは、「人種主義」の起源を十五世紀のスペインに求めている。宗教的寛容と多文化共存が両立した中世スペイン社会はペストの流行に基づく社会不安や市場経済の進展による既存秩序の動揺、イスラーム勢力との対外戦争、統一国家の建設を背景とした国威発揚など様々な要因からユダヤ教徒を「血の浄化」という血統主義に基づく差別・排除を行う「宗

    「人種主義の歴史」ジョージ・M・フレドリクソン 著
  • 「アンネの日記」真贋論争~偽書説が科学的検証を経て否定されるまで

    「アンネの日記」が何者かの手によって都内図書館で多数破られているというニュースが次々と報じられている(2014年2月)。サイモン・ヴィーゼンタール・センターによる批判を皮切りに海外メディアでも報じられて、国際問題の様相すら呈しつつある。 この事件については当局の適正な捜査を見守るだけだが、これを切っ掛けにふと「アンネの日記」を色々と検索してみると、未だにアンネの日記偽書説がインターネットに広がっているようだ。え?今更?としか思えないのだが、結論から言うと「アンネの日記」は1981年にオランダ国立戦時資料研究所とオランダ国立法科学研究所による科学的調査の上でアンネ・フランクが書いたものと確定している。この件、日ではwikipediaに軽く触れられている程度で、インターネット上にはテキストが見当たらないので、これを詳説したオランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(絶版)をもとに改

    「アンネの日記」真贋論争~偽書説が科学的検証を経て否定されるまで
  • 江戸時代の公害、環境破壊と人口停滞 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    江戸時代はよく、エコでサスティナブルな社会システムが整備されていたという例として語られるが、一方で急激な経済発展の代償として環境破壊と公害が顕在化しはじめた時代でもあった。 1)江戸時代の環境破壊安土桃山時代から江戸時代前期にかけては全国で都市、街道や橋、用水などの建設ラッシュによって木材需要が高まり一七世紀から一八世紀初頭にかけて日列島全体で森林伐採が行われた。 正保二年(一六四五)、幕府は諸国に対して山林の濫伐を禁じ、伐採の禁止地区の指定や利用制限などを取り決め、寛文六年(一六六六)、貞享元年(一六八四)の二度に渡って森林の乱開発が災害の要因になっているとして特に水害が頻発していた畿内を中心に濫伐の禁止や苗木の植え立てを命じる法令を出している。 このような森林資源の枯渇は江戸時代後半になると徐々に回復していったが、その要因として鬼頭宏「文明としての江戸システム」ではコンラッド・タット

    Ereni
    Ereni 2014/02/17
    農村から出稼ぎに出た若者たちは濃尾平野の安八郡西条村の十八世紀末から幕末にかけての追跡調査では『男子の半数は出稼ぎ先で死亡、または行方不明』
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