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ブックマーク / www.rekishijin.com (6)

  • 江戸時代の立ちんぼ 「夜鷹」というお仕事 第3回~実は大家の女房も~ | 歴史人

    江戸時代、女の職業は少なかった。生活に困窮した夫婦で、女房が働き出ようと思っても、職場がない。 やむなく、夜鷹に出る女は少なくなかった。 『元禄世間咄風聞集』に、次のような話がある。 芝あたりの裏長屋に住む浪人は毎晩、を夜鷹に出し、自分は妓夫をしていた。 隣に住む浪人も、同じくを夜鷹に出していた。 ある日、ふたりは話し合った。 「いくら生活のためとはいえ、自分の女房が不義をしているのを見るのはつらい。貴殿の女房をそれがし、それがしの女房を貴殿が見張るのはどうじゃ」 「それは名案じゃ」 こうして、お互いに相手のの妓夫をつとめることになった。 その夜、いつもの場所で夜鷹商売をした。 浪人が、隣人のをうながした。 「もはや四ツ半(午後十一時ころ)だから、帰ろうではないか。大家が長屋の路地の木戸を閉じてしまうと、面倒だぞ」 「お気遣いなされますな。今夜ばかりは、夜がふけても木戸はあいており

    江戸時代の立ちんぼ 「夜鷹」というお仕事 第3回~実は大家の女房も~ | 歴史人
    Ereni
    Ereni 2023/09/04
  • 江戸時代の尼「比丘尼」というお仕事 第2回~比丘尼の終焉~ | 歴史人

    『宝永年間諸覚』の宝永三年(1706)の項に、 ・五月 江戸を徘徊する浮世比丘尼がしだいに衣装も派手になったので、近く禁止になるであろう。 ・六月 比丘尼の中宿が禁止になった。 という意味の記述がある。浮世比丘尼はセックスワーカーの比丘尼であろう。 中宿(なかやど)は比丘尼の仕事場所なので、中宿禁止は事実上の比丘尼禁止にひとしい。 図4は、「太夫比丘尼のてい」とある。 太夫は、吉原の最高の遊女の称号である。 その太夫の称号を、比丘尼が用いていたことになろう。 太夫と称する比丘尼が、供を従えて歩いているところである。まさに、吉原の太夫並みと言ってよい。 いや、公許の遊廓である吉原を、ないがしろにするものといえよう。 たしかに、こんな格好で町中を歩いていては目立つ。 『宝永年間諸覚』に、近く比丘尼が禁止になるであろうと記していたのは、まさに図3のような状況を、幕府の役人も苦々しく感じたからに違

    江戸時代の尼「比丘尼」というお仕事 第2回~比丘尼の終焉~ | 歴史人
    Ereni
    Ereni 2023/09/04
  • 江戸時代の妾「囲者」というお仕事 第1回~妾は男の甲斐性~ | 歴史人

    囲者とは、妾のこと。たんに「囲い」や、「てかけ」ともいう。 図1は、画中に「志賀山、囲われている所」とある。 吉原の花魁(おいらん)志賀山が年季の途中、富裕な商人に身請けされ、囲者となって暮らしている様子である。 左の女中が言う。 「お茶を入れ、おまんまにいたしましょう」 「なんぞ、おいしい物はないかえ」 志賀山はを読みながら、のん気なものだった。 戯作『磯ぜせりの癖』(十返舎一九著、文化10年)の設定では、志賀山は女中ひとりと、下女ふたりの四人暮らしだった。 左の台所で仕事をしているのが下女のひとりであろう。 身請けに大金がかかったのは言うまでもないが、妾宅を維持していくのにもかなりの金がかかる。 旦那である商人は、まず戸建ての借家を借り、三人の奉公人を雇い、さらに月々の生活費も渡さねばならない。かなりの出費だった。 かつて、「妾は男の甲斐性」という言い方があった。逆から言えば、甲斐性

    江戸時代の妾「囲者」というお仕事 第1回~妾は男の甲斐性~ | 歴史人
  • 江戸時代の尼「比丘尼」というお仕事 第1回~人気があった比丘尼~ | 歴史人

    比丘尼は来、出家した女、つまり尼のことである。 図1に、比丘尼の姿が描かれている。 いっぽう、鎌倉・室町時代以降、尼の姿をして諸国を歩き、熊野神社の厄除けの護符である「牛王(ごおう)」売る女を、熊野比丘尼(くまのびくに)といった。 その後、一種の歌を歌って米や銭を乞うようになり、こうした尼を歌比丘尼(うたびくに)と呼んだ。 熊野比丘尼や歌比丘尼が、江戸時代になると定住し、尼の姿で売春に従事するようになった。こうしたセックスワーカーが「比丘尼」である。 図2のふたり連れの女は「うたびくに」と記されているが、要するにセックスワーカーの比丘尼である。 『人倫訓蒙図彙』(元禄三年)は、歌比丘尼について―― もとは清浄の立て派にて熊野を信じて諸方に勧請しけるが、いつしか衣をりゃくし歯をみがき頭をしさいにつつみて、小哥を便りに色をうるなり。 ――と説明し、初めのうちは仏教の尼だったが、しだいに「色を

    江戸時代の尼「比丘尼」というお仕事 第1回~人気があった比丘尼~ | 歴史人
  • 茶屋女より劣り比丘尼よりは上位の「綿摘」とは? ~副業で売春をする女工たち | 歴史人

    綿摘(わたつみ)は、塗桶(ぬりおけ)という道具を使って綿をのばし、小袖の中入れ綿や綿帽子を作る仕事のこと。綿摘をする女も、綿摘と呼んだ。 図1で、左のふたりの女がしている作業が綿摘である。 この綿摘の女が、売春に従事していた。このことはほぼ常識になっていて、「綿摘」は「副業で売春をしている女」の同義語といってよかった。 近代の言い方をすれば、綿摘は女工であろう。副業で売春をしている女工を綿摘と呼んだことになろうか。 『守貞謾稿』(喜多川守貞著、幕末期)に、綿摘について―― 『武江年表』に曰く、宝永の頃までわたつみと云ひしも土妓(とぎ)にてありし、云々。綿摘の雇婦に矯けて売女せしなるべし。 とあり、綿摘がいたのは宝永(1704~11)のころまでだという。宝永は、五代将軍綱吉の末期から、六代将軍家宣の初期にかけてである。 「土妓」は、遊女ではないのに、こっそり売春をしている女の意味であろう。つ

  • 行商人を装った私娼「提重」 というお仕事【前編】 | 歴史人

    吉原は公許の遊廓である。そのため、吉原の遊女は公娼(こうしょう)だった。 江戸幕府は、吉原以外での売春、つまり私娼(ししょう)を禁じた。しかし、これはあくまで建前であり、実態は野放しに近かった。 江戸の各地には岡場所と呼ばれる私娼街がたくさんあり、公然と営業していた。町奉行所は見て見ぬふりをしていたといってよい。 ところが、天明七年(1787)に松平定信が老中に就任し、断行した政治改革――寛政の改革は、杓子定規そのものだった。私娼は厳禁され、江戸市中の岡場所はすべて取り払われた。 寛政年間の見聞を記した『梅翁随筆』(著者不詳)は、岡場所の取り払いは徹底していたと記したあと―― 夫より町に住て色を売る事あたはざるゆへ、女商人と成り提重へ菓子を入て、屋しきの部屋々々、辻番所に入来り情を商ふと成。此女を提重と異名して大に流行せしが…… と述べている。 来、提重(さげじゅう)は提重箱の略である。

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