李 信(り しん、生没年不詳)は、中国の戦国時代末期の秦国の将軍。字は有成[1]。秦王政(後の始皇帝)に仕え、諸国の統一に貢献した。『史記』白起・王翦列伝および刺客列伝において、その事績が記されている[2][3]。 生涯[編集] 紀元前229年~紀元前228年、王翦が数十万の軍の指揮を執り趙と対峙した時、李信は趙の太原・雲中に出征した[4]。 紀元前226年、王翦と王賁は、前年の燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政(後の始皇帝)暗殺未遂事件の報復として、燕の国都の薊を攻略し、燕王喜と丹を遼東に敗走させた[2][3]。この際、李信は数千の兵の指揮を執り、燕軍を追撃し、燕軍を衍水で破り、丹を捕虜にした[2][注 1]。 紀元前225年、秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した[2]。李信は、「20万」が必要だと語った[2]。一方で王翦は、「60万」が必要だと語っ