何か小難しいタイトルな上に「あるいは」以降は何となくつけただけ*1だったりしますが、簡単に言ってしまうと「非モテから抜け出せた人間は非モテであることが大した苦悩ではなく、また恋愛中(あるいは恋愛可能である)状態もそれほど大きな歓喜を伴うものではない、という立場から非モテと接するけれど、モテと非モテが相対であると(モテの側から)考える人、あるいはそのように扱われること自体に<非モテに対する優位の表明>を感じずにいられないので結果として優位(劣位)が維持されたり再び作られてしまう」ということです。もっと簡単に言うと非モテじゃない人間のモテ非モテに関する言説は無意識のうちに同調圧力になってる(けど、その「無意識」とはモテあるいは非非モテ側の無意識のせいとは限らず非モテ側の無意識の影響もあるよ)ということでしょうか。 このことについて考えたネタ元はこちら。言及順に並んでますが漏れはpiroさん(一
4.脱オタ方法論で実は鍵を握っている、劣等感やルサンチマンの克服 オタクが脱オタをする時の方法論の一部や、脱オタの目的もまた、オタクが持つ種々の劣等感を疑わせる所見に満ちている。というのも、脱オタ者達は服装をどうこうしようとかいったレベルで満足する事が殆ど無く、1~3に挙げたコンプレックスがある程度解消されてきた時点で、ようやく『misson completed!』と喜びに咽ぶからである。彼らは別に服オタになりたいわけではなく、周囲の非オタや異性に認められたり、苦い内面を克服する為に脱オタを志している。ちなみに脱オタのプロセス途上、服飾そのもので劣等感や不全感の補償を達成する方向で奇形化してしまったのが服オタではないと私は疑っている。大半の脱オタ者にとって、ファッションは手段であって目的ではない。※1 率直に言って、そこそこの服を一揃い買って、オタク趣味を捨てた時点で脱オタに成功と思ったオ
ここ数日の問題意識が、圏外からのひとこと(2005-09-16)さんと、とても近いところにあるので、お陰でスムーズに考えがつむぎだされてくる。 この「世間」に存在するあらゆる弊害のおよそ半分は*1、対人間で使われる同じ言葉に対する意味内容の齟齬にあるということができる。 これを現代思想風に言うなら、シニフィアンに含まれるシニフィエの位相のずれ、ということにでもなろうか。*2 さて、そうすると次のようなことが言える。 老人達の言う「まじめさ」とは、同調主義的「従順さ」であり、 若者達が言う「まじめさ」とは、個別集中的「奔放さ」だということである。 「従順さ」とは、まさに「みんなとおなじ」主義であり、沈黙・隷従をよしとするものである。 「奔放さ」とは少し分かりにくいかもしれないが、動的か静的かを問わず、それぞれが個別に「好きなこと」に没頭することを意味し、そこでは自分の意に反するものに対しては
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