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ブックマーク / ish.chu.jp (5)

  • 「少数派マジョリティ」は片想いし、シャハラザードは聞き上手を求める

    しあわせのかたちのsho_taさんと「乳について語る資格」のコメント欄で交わしていた会話が面白いので、まとめた上で少し展開してみます。 といっても、話題の始まりは当該エントリではなく、「選挙権を行使しまくる、というライフハック」というココロ社さんの「『選挙権を放棄する』というライフハック」に対するエントリです。キーは「同一化」「多数派の中の少数派」そして「語りだすことで変わること」。 ish: (・・・)そういえば、先日の「選挙に行かないライフハック」ネタ、わたしも何か言おうかと思ったのですが、あんまりアホらしくて乗り遅れちゃいました。言いたいことの半分はsho_taさんが言ってくれている。ありがとう。 ただし、わたしはサッカーは見ないし、何かの「ファン」になる、という同一化をほとんど経験していません。だから結果的な行動としては、sho_taさんとは全然かぶらない。「応援」というのは未だに

    Masao_hate
    Masao_hate 2007/08/10
    うーん、難しいなぁ。
  • 寛容さと共存の何が問題なのか

    「オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家」でオルテガを話題にしたところ、しあわせのかたちのsho_taさんより、「自由主義デモクラシーの賛美こそオルテガの真骨頂であり、これを取り上げるべき」とのご指摘を受けました。 そこで「美しい」として引用されていたのが以下の下りです。 政治において、共存への最も高度な意志を表明した形態は、自由主義的デモクラシーである。自由主義的デモクラシーは、隣人を考慮しようとする決意を極端に示しており、「間接行動」の典型である。政治権利の原則は自由主義であり、社会的権力はその原則に従って、全能であるにもかかわらず自分自身を制限する。つまり、最も強い人たち大多数の人たちである社会的権力は、自分が犠牲を払っても、自分が支配している国家のなかに、自分たちと同じように考えたり感じたりしない人びとが住めるような場所を残そうと努める。今日このことを思い出す必要があるが、自由主義とは

  • 空気が読めない者、その罪状と判決 : ish☆サイボーグだから電気羊の夢は見ません

    今まで何度か「ブログを非-mixi的・非-お付き合いの道具的に使うこと」について書いてきました(※1)。コメント欄の敷居の高さや、ブログ全体で用意しておく殺気や「壁」についてです。 ところが、中には「壁」そのものが見えない人がいます。いわゆる「空気が読めない人」です。 防壁を突破してくる人というのは二極分化していて、片方は侠気と知性に溢れた好人物、そしてもう一方が防壁を認識する能力すらない「空気が読めない人」です。真ん中のメインストリームはバッサリ切り捨て、という問題は脇に避けておくとして(笑)、この「壁が見えない人」の威力は凄まじいです。 「壁が見えない人」も大別すると二種類いて、一つは古典的なパラノイア。 昔からリアルでも壊れている人になつかれる傾向が強いのですが、このブログのテクストが彼・彼女の宇宙に突然ヒットしてしまったらしく、「それは冥王界で言うところの下位の神ですね!」的な熱烈

  • 「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか

    「わたしのことどう思う?」。 この問いを受けた男性諸氏はさぞかし煩わしいことでしょうが、もちろん、男女を問わずこの問いは発せられます。つまり、「他人にとってわたしは何なのか」系の質問です。 こうした質問が大変魅力的なのは、心理テストに夢中になる人々からもわかります。また「外国人から見た日」といった語らいが衆目を惹くのも、同じ魅惑によるものです。 「わたしのことどう思う?」の問い-答えの反復は、大変楽しいです。特に「外国人から見た日」系には、わたしもかなり惹かれます。 しかし、この問いは決して<わたし>のことを明らかにしませんし、それゆえにこそ独特の快楽をもたらします。そしてこの気持ち良さは、「寛容さと共存の何が問題なのか」で触れた「寛容」の気持ち良さと欺瞞につながっています。 「わたしのことどう思う?」の気持ちよさは、ナルシシズムに由来します。 ただし、ここで言うナルシシズムとは、問い

  • 交流、直流、コミュニケーション

    「なぜコメントの敷居を高くするのか」について、某所で「書き言葉の敷居とコミュニケーションの敷居が一緒くたになっている」というツッコミをみかけました。こっそりツッコんだものをネタにしてしまって申し訳ないですが、この指摘にはちょっとハッとするものがありました。 確かにごっちゃになっています。 書き言葉の問題はそれとしてあるのですが、これをクリアしてなお、コミュニケーションの敷居というのがあるように思います。 それを書き言葉の敷居に還元するような書き方をしてしまったことには、いくつか理由があるでしょう。 一つは、わたし自身がこの還元を意図せず行っていたこと、つまりこの問題をコミュニケーションの問題として取り上げることに対する心的防衛、という要素です。この背景にはおそらくわたしの深い心の闇が横たわっているのでしょうが、そんな痛い話を公開してしまってはせっかくの無意識的防衛が無駄になってしまうので、

    Masao_hate
    Masao_hate 2007/03/10
    面倒くさいと思うことは、多々ありますわな。
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