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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (3)

  • 権門体制論理解のために - 我が九条

    中世における国家体制を説明する概念として「権門体制論」というのがある。大阪大学教授であった黒田俊雄が1963年に「中世の国家と天皇」という論文で提唱した概念である。黒田は権門勢家という概念を用いて、中世における公家政権から武家政権への移行を説明した。黒田によれば公家・武家・そして寺社勢力は相互補完的に権力を行使した、と考えるのである。 これに対する議論はいろいろあるが、私はいずれも権門体制論の基を外したうえで議論されている、と考えている。権門体制論は国家論であるが、それ以上に社会構成体史を前提としている。権門体制論を独立に取り上げても仕方がないのだ。 権門体制論に対する厳しい批判を近年活発に展開している郷和人氏は『天皇の思想』(山川出版、2010年)の中で次のように述べる。 ぼくは言いたかった。あなた(「アカデミズムの総家を自認する出版社の、ある高名な編集者」)が高く評価している

    権門体制論理解のために - 我が九条
  • 左が左を嫌いになる時 - 我が九条

    私はかつて次のように書いた(「扇動されやすい人2 - 我が九条」)。抜粋しておく。 情報弱者で論理的な思考力が欠落しているが、その自覚のない人が大学に入って、「政治的な理由で教科書には書かれていないが、これが真の歴史である」とか、「馬鹿には理解できないが、これが真の歴史である」とか、「みんなマスコミに洗脳されているが、これが真の歴史である」とか、仄めかされると、当時は立派なサヨクが誕生したのだ。 扇動されやすい人がサヨクに走った理由は、当時言論界では「左翼」が幅を利かせていたからであり、大学に入って世話になるオリターに左翼が多かったからである。その頃はマルクス主義を標榜しないと「右翼」または「ブル」呼ばわり。いろいろなレッテルがあった。私は丸山真男に凝っていたのだが「近代主義者」、佐藤進一に凝ると「実証主義者」。これらはいずれも当時は「ウヨ」という意味である。ちなみに日共が日共とは異なる左

    左が左を嫌いになる時 - 我が九条
  • 終わりの始まり - 我が九条

    戦後左翼運動史のエントリ。別に他意はない(笑)。 多くの若者が参加した60年代末の学園紛争。それが急速に退潮した背景には何があったのか。 全共闘運動がある意味カジュアルな参加を勝ち得た最たる例が日大全共闘だろう。全共闘運動が左翼のみならず、ノンセクト(無党派の70年代的言い方)学生を惹きつけ、「ノンセクトラジカルズ」と呼ばれた人々を作り出したのは、全共闘運動が主として政治的にゴリゴリな左翼的主張を掲げたからではない。例えば中央大学では学費闘争から始まっている。東大全共闘は登録医制度の反対から火がついた。その中でももっとも「全共闘」的だったのは日大学の例だ。 1968年2月、国税庁が日大学の使途不明金20億円を摘発、そこから日大の乱脈経営に抗議する学生の運動が盛んになった。5月21日の抗議集会を皮切りに23日には2000名の学生によるデモ、それに対して大学が15名を処分してデモは拡大、2

    終わりの始まり - 我が九条
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