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「最近の若者はダメだ」は昔から言われているが、特に今の若者はひどい。まず、当事者意識が完全に欠如している。さらに、独り立ちをしようとせず、常に何かに依存し、消費し、批判するだけの「お客さま」でいつづけようとしている。これはゆゆしき事態であり、日本社会のありかたにかかわる重大な問題である。 最近の若者は、定職に就きたがらない。あるいは、会社に入っても一定のポジションで身を立てようとしない。なぜなら、社会的なかかわりを、全て暫定的・一時的なものと見なしているからだ。 彼らに言わせると、本当の自分は別のところにあり、現実の自分は仮の姿に過ぎないんだそうだ。本当の自分は棚上げしておいて、いつまでも立場を替え、考えを変え、自分自身をも変身させる余地を残しておく。一貫した主義主張をもたないか、もたないふりをする。特定の党派、集団に全てを賭けることを避けようとする。 その結果、今の若者は、全ての価値観か
「人はさびしいとおかしくなるネ」「人は自己欺瞞をかかえているとおかしくなるネ」「てゆか人がおかしくなる状況ってほとんどこの2つの複合技だよネ」なんてことを30年以上ぼんやり生きてきてなんとなく理解するに至りまして、さてそれでは自分のおかしいところをどうやってほどいていったらいいんだべ、とか思ったりしてるわけですが、たまたま手に取ったこの本の一番最後に載っていた文章を読んでたいへんな衝撃をうけました。日本語ということば (Little Selectionsあなたのための小さな物語)作者: 赤木かん子出版社/メーカー: ポプラ社発売日: 2002/05メディア: 単行本このシリーズは、赤木かん子さんがテーマに合わせて、古今東西の名文家によって描かれたいろいろな短編を選んでまとめたものです*1。わたしが最も衝撃を受けたのは、「『あまえる』ということについて」という、筆者が幼い頃の思い出を重ねて宮
日本に必要なのは内需拡大、つまり日本国民がもっと消費しようよ、ということだが抽象的過ぎる。もっと具体的に自分の消費行動を省みて最近何か変わってきているだろうか。少し変わってきているみたいだ。以前の自分ならしなかった浪費の傾向もあるなと思えてきた。 私はちょっと食いしん坊というくらいで他にはあまり生活にテイストというのはない。失笑を買うかもしれないが、物事にこだわりというのはない。生活は合理的なほうがいい。そういう本筋は変わらないのだが、実際の自分の消費行動を見ていると、このところ以前よりスタンダードなものを避けることがある。単純な話、食材とかお菓子とか、ちょっとよいものを買ってしまう。ワンランク上のものというより、これがスタンダードであるべきだというスタンダード感覚で買っているようだ。 製造や流通、マーケティングといったところで妥当な商品というのがそれなりに優れているのはわかるのだけど、そ
え、読んでなかったのとか言われそうだが、この本との関わりもいろいろ因縁のようなものがあった。先日「極東ブログ: [書評]海辺のカフカ(村上春樹)」(参照)を読み返し、その登場人物のナカタになにか心がひっかかるなと思って書架を見ると、「アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)」(参照)がおあつらえ向きにあった。今なら読めるかと読んだ。読めた。 この本は考えようによっては随分昔から私の元にある。七〇年代からあったかもしれない。この間何度も引っ越ししても蘇生してくる、といって同じ本ではない。今回読んだのは九九年版の文庫だ。購入した記憶がない。貰い物かもしれないが誰に貰ったかの記憶もない。以前の本も、お前これ読めみたいなことだったと思う、というか、なんかよくわからないが私の回りの人が私にこれを読ませようとしてきた。長年書架にあるので、たまたま書架を見た人が、これいいんですよねとか私に共感を求める
私はバートランド・ラッセルが好きで、よく読んだ。英語の勉強をかねて読んだりもした。読みやすい英語かというとそうともいえるしそうでもないとも言える。文章のリズムが現代英語的ではない。この歳こいてみると文章のリズム感は小林秀雄なんかと似ているかもと思う云々。 ほいで。 若きバートランド・ラッセルが自殺を思いとどまった理由なのだが。 数学の問題を解きたかった、 ということらしい。 ラッセルから学んだことはいろいろある。 ラッセル幸福論: B. ラッセル,安藤 貞雄 もあるが、訳はこっちのほうがよいかと思う。 こっち⇒「 幸福論: 本: ラッセル」 ラッセルをちと離れて思うのだが。 子供の頃、小学校一年生くらいだったか、同級生の女の子が、「怖くておかしくて悲しい話って知っている?」というのだ。教えてもらた。 それは、「鬼が出て、おならをして、死んでしまいました」というのだ。 私は感動して、50歳に
世界と「私」はどのような関係にあるのか。その関係はどのように変遷し、今、どう変わろうとしているのか、といった、青臭いネタを書く。話を簡素にするために、叩き台的に哲学者竹田青嗣「『自分』を生きるための思想入門」(参照)を使うが、話の本筋は竹田の議論にそれほど依存しなくてもいい。ただ、その場合は議論が煩瑣になるというくらいだろうと思う。 同書については、ちょっと哲学志向のある高校生や大学生は読んでおくとその後人生が楽になるかもしれない。哲学プロパーな人は些細な点でいろいろひっかかえって途中で放り投げてしまうかもしれない。竹田の著作史的には、初期の現象学とこの時期特有の橋爪大三郎との交流の影響がある。それでも本書の大枠は比較的近著「人間的自由の条件―ヘーゲルとポストモダン思想」(参照)までの射程を持っている。というか、むしろ先の本書のほうが竹田思想のコアが見やすい。 まず古典的な世界象は未だ国会
漱石先生のこれ⇒図書カード:私の個人主義 ベタ読みは⇒私の個人主義 先生、47歳か。 これを中学校か高校の教科書にすればいいのにと思うが。案外そうなっていたりして。 この個人主義という意味に誤解があってはいけません。ことにあなたがたのようなお若い人に対して誤解を吹き込んでは私がすみませんから、その辺はよくご注意を願っておきます。時間が逼っているからなるべく単簡に説明致しますが、個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです。金力権力の点においてもその通りで、俺の好かないやつだから畳んでしまえとか、気に喰わない者だからやっつ
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(キャンペーンブログ) これを途中まで読んだ。 どこまで理解できてるか不安があるが、自分へのメモを兼ねて(大胆にも)野球を使った喩え話で紹介してみようと思う。 一番興味を引かれたのが、バーバラ・ヒューストンという人が説く「ジェンダーセンシティブ」という考え方。しかし、 ある状況下でジェンダーが機能しているのか、どのように機能しているのか、そしてジェンダーに注意を払うべきなのか、それとも払うべきではないのか、性差別をなくすべく導入した方針はうまく働いているのか、などの問題がありますが、これらについて、私たちは抽象的なレベルにおいて答えを知ることはできないのです。このような問題に対しては、(「ジェンダー・フリー」アプロ−チのような)抽象的なレベルではなく、常に個々の具体的な状況に即して、どのようにジェンダーが機能しているか(すなわち、上で述
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