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増田と批評に関するTomosugiのブックマーク (16)

  • 批評飽きた。

    高校生のとき、『動ポモ』とか『アニメ批評家宣言』とか読んでから、小難しいことをちゃんと考えて、作品を観たら面白い意見を言わなければ、とか思って来たんだけど、もう飽きた。書いても書いても虚しい。ブクマで誉められてもトラバで貶されても面白くない。俺如きの言葉で世の中なんて動かないんだもん。まだVIPで祭りをやっている方がマシじゃないのか。祭りで注目されるとコンテンツに落ちる金増えるんだから。ネットで批評やっても誰の得にもなってない。もうやだ。辞める。辞めて沈黙した消費者になる。大学三年からちゃんと就活する。そんでフツーの社会人になってDVDとかグッズをモリモリ買うオタリーマンになる。もうしらん。もういやだ。溜め込んだ小難しいアニメ研究書も全部処分する。資料と思ってとってあるアニメ誌のバックナンバーもおさらばしてやる。やだやだ。

    批評飽きた。
  • ツッコミスキルの鍛え方

    「ツッコミスキルを鍛えたい!」と世の中のみんながそう思ってる。何故だ?何故なんだ?ツッコミなんてお笑い芸人だけのものだろう?それともあれか、合コントークに使うのか? いやいや。ツッコミというのは「人心掌握術」なのだよ。人を感動させ賛同させるためのな。生きていく上で必要不可欠な存在、それがツッコミスキルなのだよ。 え?「なんでや!ツッコミはそんな大層なもんじゃないやろ!」って?ノンノン、ツッコミは凄いんだ。大層なものなんだ。なのに「ただの間違いの訂正と誤解されている」んだ。 例えば。「なんでや!阪神関係ないやろ!」っていう間違いの訂正。違和感の訴えとも言えるが。まあ、芸のあるツッコミとは言えません。 この場合は相手がツッコミ待ちだからマシだけど、そうじゃない場合には?ツッコミって体(てい)で間違いを訂正したら嫌な顔されたなんてオチが見えますねえw だから間違いの訂正に間違いの訂正をしたい。そ

    ツッコミスキルの鍛え方
  • ゲームに「批評」は存在しないし、これからも存在しないだろう。

    バカが考えもせずに「ゲームに批評なんて必要ない!」ってキレてる姿がよくネットで散見される。 録画してカウチポテトで爆笑しながら鑑賞したいくらいおもしろいバカなんだけど、バカが心配せずとも、批評はどんな分野にも必要で、にもかかわらずゲームに批評は今も昔もこれからも存在しないので大丈夫です。 ゲームで批評が成立しない理由はとてもカンタン。 「あらゆるゲームを網羅しているフリができる人がいないから」。 批評っていうのはつきつめればおもしろいつまらない価値があるこれはゴミだみたいな判断を下すことなんだけど、 じゃあなんのために価値をつけるのか、っていえば、歴史にその作品を位置づけるためです。ここでいう歴史っていうのは何年にスーパーファミコンが発売されて何年にファイナルファンタジー6が出ました、とかそういうカタログの話ではありません。いやまあ、カタログの話と関係ないわけではないんだけど。 で、その歴

    ゲームに「批評」は存在しないし、これからも存在しないだろう。
  • けもフレの民は響鬼路線変更問題の真相を教訓とすべき

    もはやけもフレオタ達はけもフレ2に関わる人間すべてを狩猟対象としているが、 ここで古のオタクが思い出すのは仮面ライダー響鬼路線問題である。 響鬼は平成ライダー第一作である仮面ライダークウガの生みの親、高寺プロデューサーが指揮を取り 斬新かつ人の温かみを感じる作風から支持されていたシリーズだったが、 それが放送途中で高寺Pが急遽降板。 白倉プロデューサーと脚井上敏樹といういつもの座組に変更され、 作風も大きく変わり、自然を主な舞台としていたのが街中に変わり、 ドラマより戦闘シーンが増え、嫌味な新キャラが投入された。 この路線変更に前期の作風に惹かれていたオタは激昂。 公式ブログにスタッフやキャストへの誹謗中傷が書き込まれけ、各所掲示板は荒れに荒れた。 その中でも白倉Pと井上敏樹は最大の戦犯とされ、これ以降長い間アンチのやり玉に挙げられ続けるのだった。 しかし、この騒動には一つのオチがある。

    けもフレの民は響鬼路線変更問題の真相を教訓とすべき
  • 大学ってもっとすごいところだと思ってた。

    自分は現役で合格したところの大学レベルじゃ満足できなくて 一浪してワンランク上の大学に入った。 そうした理由は学歴を良くしたかったっていうのもあるけど純粋に勉強がしたかった。 自分は天才。天才だからもっと伸ばさないともったいない。 大学って、もっとこう、門外不出の秘伝を教えるところだと思っていたよ。 あらゆることが系統的に、かつ大学に行かなきゃ絶対に学べないようなのがあるんだと。 でもテキストは市販のだしそんなことはない。 質問して教授の知を吸い取ろうとするけど専門外はただのオッサン、底が見える。 これならを乱読したほうがマシなんじゃないだろうか。 教授の質もバラバラだしこれなら「この人だ!」っていう人を探して それぞれの大学に潜り込んだ方がいい(実際に四月からそうしようと思う)。 なんかこう、毎日が発見に溢れていて大学じゃなきゃ知り得ないことがたくさんあって・・・ そんな素晴らしい世

    大学ってもっとすごいところだと思ってた。
  • 宮崎駿のマンスプレイニング、底の浅い女性観

    旧TVアニメ版『うる星やつら』が終了した後、水曜日19時30分の放映枠では、同じく高橋留美子作品である『めぞん一刻』が放映された。 この時、雑誌『アニメージュ』では、何人かのクリエイターたちに「『めぞん一刻』のアニメ化についてどう思うか?」というインタビューを行い、それを記事として掲載した。 『アニメージュ』は、風の谷のナウシカの原作を連載していた雑誌なので、当然のように宮崎駿にも意見を聞いたのだが、宮崎の語った内容が、実に気持ち悪かった。 宮崎駿曰く「『めぞん一刻』なんて、五代くんが管理人さんを押し倒しちゃえば、それで終わる話なんですよ」という、正確な文面ではないかもしれないが、大体そういう言葉だった。語尾には「(笑)」も付記されていたように記憶している。 宮崎駿に限らず、昭和時代の男性クリエイターたちは、こういった「無理やり手籠めにしてしまいさえすれば、最終的に女性は男になびくもの」と

    宮崎駿のマンスプレイニング、底の浅い女性観
    Tomosugi
    Tomosugi 2022/10/16
    宮崎駿が24歳で結婚した昭和40年は見合い結婚と恋愛結婚の比率がちょうど半々。ここに書かれているような前時代的にあ男女観、人間観の持ち主でも不思議ではない
  • 「公式が勝手に言ってるだけ」からはじめる文学理論半世紀

    最近、二次元に魂を奪われ二次創作に萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。 歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的に要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事を専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである(構造主義の話はしません)。 すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに稿は、加藤典洋『テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。 さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石の作品を批評する、

    「公式が勝手に言ってるだけ」からはじめる文学理論半世紀
  • 野間易通はオタク差別全盛期の差別当事者

    される側のね。 1.苛烈なオタク差別に直面した野間世代そもそも野間がイキってる写真とか見るとわかる人にはわかる。 あれは不良のセンスではない。 むしろオタクのセンスに近い。 野間は自分より一回り以上上の世代だが、あの世代のオタク独特の臭いが強くする。 エヴァ放映時に30過ぎだった世代(エヴァに最も発狂的反応を示してた世代)だ。 あの世代の人達はメインストリームから外れることに多大な勇気が必要だった。 メインストリームで生きづらい人の大変さが今と比べても強かった。 いま30代後半の自分達は思春期にかろうじてその空気の尻尾を感じた。 あれの空気の体が思春期に重なったた世代はさぞ苦しかったと思う。 差別に直面し苦闘したオタクたちは色々とヘンテコリンな自意識を生み出した。 いまギャグとして消費されてる「イキリオタク」はライトな病理だから誰にでも笑える(理解出来る)。 20代の小汚いオカマ氏が「要

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  • 吾妻ひでおは萌えの始祖ではない。

    『吾ひでお「けいおん観た。空虚だ。何もない。作る方も観る方もそんなに現実イヤか?」:アルファルファモザイク』 http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51518538.htmlひでおとアニメ「けいおん」に熱中するような人たちとは相容れないところがある。アニメや漫画(あるいは映画音楽、文学など)作品に求めるものが違うのだ。いったい吾ひでおのような人種は漫画などの作品に何を求めるのか?そのあたりの事を作家のカフカが実に的確に表現している文章がある。 僕は、およそ自分を咬んだり、刺したりするようなだけを、読むべきではないかと思っている。僕たちの読んでいるが、頭蓋のてっぺんに拳の一撃を加えて僕たちを目覚ませる事がないとしたら、それではなんのために僕たちはを読むのか?君の書いているように、僕たちを幸福にするためにか?いやはや、がなかったら、僕たち

    吾妻ひでおは萌えの始祖ではない。
  • どこまでが「批判」でどこからが「圧力」か

    銀英伝まわりで 「社会学者が変えろと言ったら圧力だ!」 「『変えるべき』って発言している以上強制だ!」 っていってる人いるけどさ お前ら「表現の自由」どこにやっちゃったの? 「この作品のここはこうよくないから変えた方がいいと思う」 って批評自体がもう許されないものだと気で思ってんの? つうかこれほんとにこれからの社会で合意とってかなきゃいけない問題だと思うんだけど どこまでが自由な批判・批評で、どこからが圧力か ってその場その場でブレないそれなりの基準がいると思うわ みんな自分に甘くて相手に厳しいんだもん あいちトリエンナーレ潰そうとしたネトウヨにせよ 宇崎ちゃんに抗議したフェミにせよ 今回の社会学者にせよ 全員が「表現の自由」を持ってるというのが前提だろうよ お前らヴォルテール大好きなんじゃなかったの? 個人的な基準はこんなかんじ 異論は認める 圧力・法的な表現規制 ・国会議員・市議会

    どこまでが「批判」でどこからが「圧力」か
  • なぜ増田には読書感想・映画批評がないのだろう

    を読んだり映画を観賞したりした後、日記がわりにちょっとした感想や批評を書きたくなることってあると思う。そしてときには、それを公開して作品について他の人と話し合ったりしたくなることもあると思う。 でも自分のブログ等でそれをする場合、自分がどんな映画を見るのかといった情報が読者に知られることとなってしまう。そんなの気にしないという人ももちろんいるだろうが、それは嫌だという人もそれなりにいるだろう。またそうしたやり方をする場合、どうしても自分が発信者で他の人は情報の受け手という関係になりやすく、対等な立場で忌憚のない意見交換をするということは難しいんじゃないかとも思う。 こうした難点を考えるとき、増田は誰が書いたかわからず、またトラバによって気軽に対等な意見交換をすることも可能であり、感想・批評の投下にきわめて適した場所ではないかと思うのだけど、そういうのはほとんど見ない。なぜ?何か理由が

    なぜ増田には読書感想・映画批評がないのだろう
  • 邦画だって面白いんだよ!絶対おもしろい映画監督リスト

    邦画はクソだと思ってるやつ、映画は監督で見ろよ。配給で見るな! ネット社会でアレはダメだったから邦画がダメになった、みたいに言ってるやつは見てる映画が悪い! 大体、「みんな」が見る東宝映画は金かかってるぶん、スポンサーに気を遣ってCMを入れる民放ドラマみたいになってる状態で(NHKは視聴者と国に気を遣いまくってる) 邦画漫画実写はダメだとかいうヤツもいるけど、じゃあ漫画映画一切見んなっつーの!と言いたい(「みんな」見るから売れる、だからやる。摂理) あと批評家の宣伝方法がどうのとか言っても、今更批評家で興行は決まらないし……(インターネット時代になって批評家時代は終わったのだ) この時代の日にもしっかりした作品を作る映画監督が居ることを、ハッキリと言っていたい。 オリジナルで良作連発。漫画実写だけどミニシアター系でよくできてるのもたくさんだ。 そういうのが認められるようになったら、邦画は

    邦画だって面白いんだよ!絶対おもしろい映画監督リスト
  • まともにトラップもできない“にわか”は黙ってろよ

    ・俺自身も高校時代県ベスト8が限界だった選手にすぎないから、この理論を突き詰めていくと、トップレベルの選手しかサッカーを語れなくなってしまう。 ・サッカー技術と「試合を見る目」はまったく別のもの。 ・楽しみ方は多様であっていいし、試合を分析してあーだこーだ議論する楽しみ方はあってもいい。 上記は充分に理解している。だが、しかし言わせてもらいたい。 まともにボール蹴ったことないような奴がえらそーに「アタッキングサードの動きが…」とか語ってんじゃねぇよ。 「日本代表には有効なサイドチェンジがない」。そうかもしれないけど、お前はサイドチェンジのボールとか来たら、絶対一発でトラップできないよね?ミスってライン割っちゃうようね?ボール出す側だったら、逆サイドなんか目にも入らないよね? そもそも偉そうに語ってる連中のほとんどは、そいつらが一番体力的に充実していた時期であっても90分間走りきれないだろ

    まともにトラップもできない“にわか”は黙ってろよ
  • 匿名ダイアリーの公開質問へのお答え - 映画評論家町山智浩アメリカ日記

    匿名ダイアリーの公開質問にお答えします。 http://anond.hatelabo.jp/20140629111911?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter ====== 『時計じかけのオレンジ』におけるキューブリックの「自由意思」について http://www63.atwiki.jp/loversrock/pages/5.html すみません。 キューブリックはちゃんと「『時計じかけのオレンジ』は自由意志についての映画だ」と言っていますが、別のインタビューでした。 http://www.visual-memory.co.uk/amk/doc/interview.aco.html 「キューブリック この映画(時計じかけのオレンジ)の中心にあるのは自由意志についての問いに他ならない。善悪を自分で選ぶことができなければ人間性は失われてしまうのでは? タイ

    匿名ダイアリーの公開質問へのお答え - 映画評論家町山智浩アメリカ日記
  • 盗作と承認欲求

    『風立ちぬ』を見て驚いたことhttp://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdceceこの批評記事がはてブで人気になっている。中身は映画公開初日に岡田斗司夫がニコ生で行った風立ちぬ批評のパクりだ。どの部分が、なんてレベルではなく最初から最後まで完全に引き写している。自分の意見を1ミリも混ぜていない。見事なまでに徹底的に完璧に岡田斗司夫レビューのコピーだ。お前は一体何の為にこんな事を?まあ、多くの人の承認が欲しいのだろうと察する事は出来るが。しかし、この記事がどれだけ人気になろうとその賞賛はお前に対してではない。こんな鋭い考察を書いた!としてお前への評価が上がろうと、それを今後も維持する為にはこういった盗作批評を続けるしかない。次もその次も、全てが明るみになって破綻するまで続けるしかないのだ。ホムンクルス

    Tomosugi
    Tomosugi 2014/02/20
    え、あのデブは「フリー化」を謳ってるからいいんじゃねーの?
  • 一生、一人でいい。

    何が一番辛いって、自分の感受性に嘘を吐いて生きることだと思う。感情には嘘が付ける。でも感受性って、それまでの人生で自分が見たり聞いたものの積み重ねで出来ている。理解されなくてもいい。どうか放っておいて欲しい。なのにそれを否定されると、私は全てがどうでも良くなる。それまで何ともなくても、一気に波が引いたように冷める。そうして、心が冷えていく。 私が人付き合いを厭う一番の理由はそれだ。人との関わり合いでは、必ずどちらかが少なからず我慢しなければならない。私は、我慢が嫌いだ。我儘なんだと思う。他人を振り回す程の勇気もない。だから一人でいるのに、時々興味位で近付いてくる人は必ずいる。そうして好き勝手に私を批評して利用して、私はそれに振り回される。 大して良いと思わないものを賞賛して、聞きたくもない話に耳を傾け、好きでもない他人に媚び諂う時に、最高に魂が抉れる。人生は限られてる。不快な思いは、なる

    一生、一人でいい。
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