チャコールやインクやペンキやペンなどのストローク系をはじめ、レースとかファーとか女子服のふわっとした質感、光やぼけの美しいエフェクト、他にも炎や煙や雪や水など、そのクオリティがすごいPhotoshoopのブラシ素材を紹介します。 お絵描きにもよし、デザインのアクセントや質感を加えたりとPhotoshopをパワーアップするものばかりが揃っています。
![イラストやデザインの質感アップに使える!鉛筆や木炭やペンキ、ふわっとした女子服、ぼけ・光・煙・霧などを描くPhotoshopのブラシのまとめ](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/7a57643531687d475ff35cdae14e19a21c25cf5f/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcoliss.com%2Fwp-content%2Fuploads-201404%2F2014112101-01.png)
猫用ベッドといえば一般的に床置き式のクッション素材でできているものを想像しますが、壁に取り付けるタイプの猫用ベッドがあるようです。掃除するときや移動するときに邪魔にならず、デザインも結構オシャレ。また寝るためにちょっとジャンプしなければならないため、ネコの運動不足解消にも役に立つかもしれません。 詳細は以下より。 これがネコ用壁掛けベッドを実際に取り付けた状態。 土台の板は丸みのある形になっており、ネコを包み込むようになっています。土台の素材はクルミもしくはカエデの木で作られており、重量35ポンド(約16キログラム)まで耐えることができるとのこと。クッションは取り外し可能で洗濯機で洗えるほか色のバリエーションも5種類あります。 オーソドックスな黒。黒猫が寝ていたて気づかないかも。 ブラインド柄。 マスク柄。 千鳥格子柄。 スクエア柄。 このベッドは以下のサイトで199ドル99セント(約1万
(元)無気力東大院生の不労生活勤労意欲がなく、東京大学の大学院に逃げ込んだ無気力な人間の記録。 学費を捻出するために、不労所得を確保することに奮闘中。 でした。 濱野智史『アーキテクチャの生態系』を読了。 インターネット関連の事象について、ひとつの切り口としては、こういう整理の仕方も十分に「アリ」だと思いますが、少なくとも私に対して訴えかけて来るような議論は展開されていませんでした。 もちろん、内容が薄っぺらいわけではないから、人によっては参考になる本だと思います。特に、あまりこの種のことに詳しくない方には、入門書として間違いなくお勧めです。 ただ、例えば、アーキテクチャについて、レッシグが何を語っているのかをもう少し確認してから、「アーキテクチャ」を論じた方が良いと思います。ちょっと都合良く「アーキテクチャ」という語を使い過ぎかと。このへんは、誌面の都合もあったのでしょうけど。 他にも、
前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2-1 写像と命題 [ 分析哲学 ] 思考の可能性を見出すために、事実を対象に分解し、それらを再結合して事態を構成する必要があることをみた。しかし、現実の対象を組み合わせて新たな事実を作ったのでは、それは現実性であって可能性ではない。そのため、Wは先の存在論的な議論を離れ、2.1からは、どのように我々が事実や対象と関係をもっているかという議論、つまり、事実の写像、思考、言語などの議論に移る。 写像理論(picture theory) 現実性である事実から可能性を見出すには、事実の代替手段が必要となる。それが現実の像(独Bild, 英picture, image)である。我々は、事実を写像することによって事実の(観念的な)模型として像を作る(そして、この事実の模型としての像もまたひとつの事実である)。そして、何かを理解するということは
タイトルからはじめよう.「母たち」とは,ゲーテの『ファウスト』の有名な一シーンで,恐れおののくファウストがメフィストフェレスに導かれてゆく,「そこには場所も時間もない」ような「母たちの国」からとられている.これは現在もっとも注目すべきイタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが,その問題作『夜の歴史』(竹山博英訳『闇の歴史』せりか書房,1992年)のエピグラフに掲げたものである.一方,上村忠男はギンズブルグとの批判的対話を試みた本書『歴史家と母たち』の冒頭でこの「母たちの国」に触れながら,場所と時間こそが歴史学が成立するための必要不可欠の条件であると述べている.「歴史家」と「母たちの国」.「と」で無雑作につながれたこの関係は,むろん穏やかなものではあるまい.上村が『夜の歴史』の批判的読解を試みた本書の第1論文「歴史家と母たち」をそのまま本書のタイトルに掲げるとき,それは本書の全体を貫く問題がどこ
論理とは何か? という前に、「それは非論理的だ!」という非難について考えてみよう。 何らかの主張に対して、それが非論理的だという非難は頻繁に行われるが*1、非論理的だという非難の正当だと思える使い方には二つある。一つは、ある主張が矛盾を起こしているとき、その矛盾を指摘して、それは非論理的だと非難することは正当だろう。もう一つが、ある主張が論理的に妥当な推論を行っていない場合、それは非論理的だと非難することは正しくはある。 後者、つまり、ある主張が論理的に妥当な推論を行っていないことを非論理的と非難する場合、これは前述のとおり正しくはあるが、極めて限定された場合以外は、あまり役に立つ非難ではない。というのは、全面的に論理的に妥当な推論など論理学の演習問題以外では求められていないだろうし、論理学の演習問題以外ではほとんど役に立たないだろうからだ。 もちろん、どのような分野であっても、部分的に論
仙台ルーマン読書会。 ニクラス・ルーマン『社会の法』(1993→2003) ISBN:458800767X / ISBN:4588007688 ニクラス・ルーマン『システム理論入門―ニクラス・ルーマン講義録〈1〉 (ニクラス・ルーマン講義録 1)』 第二章「法システムの作動上の閉鎖性」第8節再訪。再度、最終(20)段落──妥当シンボルの時間的性格──について。 「作動の現在-と-回顧と先取」の同時性については、「法的決定」について論じた7章および『入門』III「時間」などを。 〈システム-と-環境〉の同時性については、十章「構造的カップリング」を。 2章「作動上の閉鎖性」8節(20)[p.116]7章「裁判」3節(07-10)[p.431-433]/4節(02-05) 10章「構造的カップリング」1節(05) 妥当に関する 唯一放棄されえない根拠は、時間のうちに存する。より精確に言えば、全
基本的にネット上で手に入る学術的な資料ばかりから判断してるので注意 現代の普遍論争について調べてみて困ったことは、学者によって概論的な見解があまりに異なることだ。心の哲学における心身問題の扱いが教科書的に比較的整理されているのに比べると、形而上学における普遍問題の扱いはうまく整理されていない。もちろん基本となる概念や文献はあるのだけれど、それをまとめる段になると意見が一致しない。例えば、D.M.アームストロングは普遍説とトロープ説を排他的に対立させて考えている。しかしア−ムストロング自身が認めているように、普遍とトロープを両立させている哲学者は存在する。それに対して、アームストロングはオッカムの剃刀を振り回して、余計な概念の共存を一切認めない。しかし、どうもこれは偏った見解に思えてならない。 現在の普遍論争でよく知られている問題として束説と基体説の対立がある。中立的な言葉である性質を用いて
■「茂木氏は科学者ではない!」 脳科学ブームとやらで、茂木健一郎(45歳)という東大大学院理学系物理学専攻博士課程修了の理学博士というピッカピカの「脳科学者」が、売れっ子タレント並みの露出度でテレビ、新聞、雑誌などを席巻している。 ソニーは出井伸之CEO時代の'91年、高品質商品群を「クオリア」という新ブランドに育てようとしたことがあった。「クオリア」とは、「意識のなかで立ち上がる、数量化できない微妙な質感。人間が感じる感覚を特徴づける質感、感覚質」のことだ。昔から主に哲学者が用いていた「専門語」だ。それが十数年近く前から脳科学者なども積極的に使うようになった。 出井氏が新商品群にクオリアと名付けたのは、ソニーコンピューターサイエンス研究所の研究員である茂木氏と作家の井沢元彦氏との雑誌の対談を読んだことから着想したという。茂木氏は脳と心についての著書も多く、'04年に著した『脳と仮想』(新
Guest | Cash Advance | Debt Consolidation | Insurance | Free Credit Report at Kazuyaserizawa.com 1968 年、世界中の大学で紛争の波が巻きおこった。日本でも既存の左翼を批判して学生たちが立ちあがり、〈自由〉を求めて警官隊と激しい攻防戦を繰り広げた。あれから40年。あの体験は何をもたらしたのか。また、その記憶は、これからの我々にとって何になりうるのか。多様な切り口でこの問題を論じてきた、幅広い世代の論者たちと、東大闘争の内部を目撃した唯一の写真家、渡辺眸のスライドショーが届ける、新しい「1968年」。 基調講演/渡邊一民 司会/芹沢一也 荻上チキ パネリスト/絓秀実 酒井隆史 橋本努 鈴木謙介 写真協力/渡辺眸 日時:2008年9月23日(祝) 開場13:30 開演14:00 場所:立教大学池袋
西洋政治思想史における「政教分離」とは、the separation of church and stateである。教会と国家の分離なわけである。具体的には、ある特定の公定宗教(establishment church)が、それに属していない人々を政治的・社会的に弾圧することを禁じるものである。裏を返せば、宗教弾圧の禁止なのであり、公定宗教の存在自体は、必ずしも即座に政教分離原則への違反にはならない。英国国教会があってもイギリスは政教分離の国なのである。だから、大統領が就任式で聖書に手を置いて、牧師の前で宣誓しても政教分離原則への違反にはならないのである。これが、アングロ・サクソン・スタイルである。これに対して、フランスの政教分離原則は、公式の場からの宗教の排除である。これは、フランスが公立学校でのイスラムの女児のスカーフの着用を禁止したことに端的に示されるだろう。つまり宗教排除は、アング
(Dziga Vertov Group, Vladimir et Rosa, 1970)監督・脚本・撮影・録音・編集:ジガ・ヴェルトフ集団(ゴダール、ジャン=ピエール・ゴラン) 1968年8月のシカゴ民主党大会で騒乱を画策したとして起訴された、いわゆる「シカゴ八人組(Chicago Eight)」の裁判記録を基に、ジガ・ヴェルトフ集団の織りなす風刺劇。ゴダールとゴランはウラジミールとローザと称していわば道化役に回り、この裁判劇にコメントしたり、登場人物が行うテニス試合の横で互いにインタヴューしあったり、音声を録音したりする。バーレスク趣味が横行し、スラップスティック喜劇かテックス・アヴェリーのアニメのようだという評もある。(95年「フィルモグラフィ」の中条省平執筆の項から抜粋・改変)後半sm488762
久しぶりの良いお天気。息子も僕も、ひとつずつ歳をとった。さて、タイトルのテーマに移るとするか。 最近の答練で「社会的相当性」に関する質問が出てきたので、以前にも書いたかもしれないけど、もう一度書いておこう。 学説には、過失犯において客観的注意義務違反のない行為は不法ではないという前提から、一部に、誤想防衛や違法性の錯誤の場合も含めて、無過失行為は適法だとする誤解があるが、エンギッシュもヴェルツェルも、またその後のドイツ刑法学の中にも、そのような理解は、筆者の知る限りでは、ない。 客観的注意義務違反という要件は、過失一般ではなく、もっと客観的な行為の属性だからである。そしてまた、ヴェルツェルの本来の考え方では、その客観的注意義務を守っている行為は「社会的に相当」なので、もはや犯罪の構成要件に該当しないとされる。決して、構成要件に該当する行為の違法性を阻却するものとされているわけではない。 手
【出荷までに1週間程度お時間を頂く場合がございます】 都市や建築等すべての景観を包摂するランドスケープの構造を,距離,視線入射角,奥行等の指数を設定し解明するとともに,日本の伝統的な高野山等の景観について述べた好書. 【主要目次】1.ランドスケープの視覚的構造(可視・不可視,距離,視線入射角,不可視深度,俯角,仰角,奥行) 2.ランドスケープの空間的構造(水分神社,秋津洲やまと,八葉蓮華,蔵風得水,隠風,神奈備山) 景観の構造 序 論 はじめに 研究の位置づけ I編 ランドズケープの視覚的構造 序章 1章 可視・不可視 1 空中写真法 2 数値地形モデル法 2章 距離 1 距離の指標化に関する従業の研究 2 ランドスケープにおける距離の指標化 距離の分類 基準となる対象の設定 定性的分類 定量的分類 3 実例の分断 宮室の地 庭園 3章 視線入射角 1 面の見やすさと視線入射角 2 実例の
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