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ブックマーク / mazmot.hatenablog.com (52)

  • 人に死ぬ時期を決める自由はない、という話 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    半年ほど前から、老齢の父親の調子がよくない。それでもどうにか生きながらえて年を越すことができた。感謝すべきなのだろう。 だが、素直に喜べないのは、病床にあって父親が日々苦しんでいるのを知っているからだ。循環器系にガタがきていて、身体全体に酸素が足りない。高山で生活しているようなもんだから、とにかくしんどい。そのしんどさを耐え忍んでも、その先にそれが改善する見込みはほとんどない。よくて現状維持、わるければ、いつでも最期がくる。そういう状態でいる人を前に、それでも「生きていてよかったね」とは、素直に言えない。 父親は、決して命に未練があるタイプではない。むしろ、無意味な延命治療はしてくれるなと、これは元気なうちからずっと言い続けてきた。過去に何度か大病を生き延びてきているので、医療に対する信頼は厚い。治る病気なら、現代医学の力で必ず治るものだと信じている。そして、治らないのなら、ムダな抵抗はせ

    人に死ぬ時期を決める自由はない、という話 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2024/05/21
    “主治医自身が「延命のための延命はしません」という方針に当初から同意していても、「じゃあいまの状態はどうなんですか?」という問いには、明瞭な答えは出せない。”
  • 「ディスレクシア」(マーガレット・J・スノウリング)を読んだ - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    をもらったので、昨日、一気に読んだ。もっとも、200ページほどのだから、それほどたいへんな話ではない。 www.jimbunshoin.co.jp 「もらったから読んだ」というのは身も蓋もない事実で、けっして興味があったわけではない。とはいえ、私の仕事にまったく無関係かというとそうでもない。というのは、(言語圏によって発生率は異なるようだが)ディスレクシアはそこらの公立小中学校でも各学年に1人か2人いるのがふつうなぐらいにありふれた障害であるからだ。そういった障害が学校でうまくサポートされず、家庭教師にヘルプを求めてくるケースは十分に想定される。家庭教師商売をやっている以上、無関係とはいえない。 無関係ではないが実際には、10年を超える家庭教師としてのキャリアで毎年十数人からときにはそれ以上の生徒を教えてきているにもかかわらず、私はいまだにディスレクシアの範疇に入りそうな生徒にあたった

    「ディスレクシア」(マーガレット・J・スノウリング)を読んだ - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
  • 中学受験は子どもの成長に寄与するのか - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    逆境は人を成長させる? 「中学受験は子どもの成長に寄与するのか」という大仰なタイトルにいきなり答える形でいうならば、「それは場合による」。さらに言うならば、たいていの場合は寄与する。ただしそれは、人間というものがそういうものだからだ。人間は、どんなバカバカしい状況にあっても、それを成長の糧とすることができる。逆境にあればあるほど成長するとさえいえる。たとえば、戦争は大きく人間性を蝕むものだが、ときにそのなかで人間を大きく成長させる場合もある。だから、いきなりで申し訳ないが、このタイトルの問いは立て方をまちがっている。いや、そりゃ、何らかの寄与はあるでしょうと。 ただ、それでもあえて、ときにこういう自問をしてしまうのは、多くの中学受験生の親に見られる言説を聞くシーズンに入ってきたからだ。家庭教師にとって、この季節はそれまで抱えていた受験生(私の場合は中学受験生と大学受験生が今年は合計8人いた

    中学受験は子どもの成長に寄与するのか - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
  • シチズンシップについてのわかりにくい話 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    「シチズンシップについてのわかりやすい話」みたいな解説がどこかにあったら、ぜひ読みたいと思っていた。というのも(あんまりはっきり書くと不都合もあるのでやや事実を枉げて書くのだけれど)大学を受験する高3生から「世界市民としてあなたはどう生きるか」というお題について質問を受けたからだ。「入試の小論文なんですけど、世界市民って、どういうことなんでしょうか」というわけだ。尋ねられたって困る。私も知らない。 知らないでは務まらないのが家庭教師だ。知らなくても、言葉の背景ぐらいは説明できる。そこで私はおもむろにホワイトボード(「白紙」と書きたいけどオンライン授業なんで)を広げ、説明をはじめた。 一家庭教師のシチズンシップ理解 「市民」の概念は、「都市国家」に遡る。「都市国家」はメソポタミアや中国にも発生したけれど、現代に続く「市民」の概念についてはギリシアまで遡れば十分だ。世界史の教科書だか資料集だか

    シチズンシップについてのわかりにくい話 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2023/11/26
    「問題を解決していくためには、当事者がそれをどう経験しているかから出発しなければなりません。そして、そのときにシチズンシップは役に立つと思うのです」
  • 新刊発売のご案内 - 「貧困とはなにか」(明石書店) - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    去年の秋から年末にかけて1冊のを翻訳していた。ようやく出版、発売になる。 www.akashi.co.jp 新版 貧困とはなにか - 株式会社 明石書店 https://www.amazon.co.jp/dp/4750356484 この翻訳に関するネタは、何度かこのブログでも取り上げてきた。 mazmot.hatenablog.com mazmot.hatenablog.com mazmot.hatenablog.com なので、いまさら書くこともないようなものだけれど、やっぱりモノが手許に届くと嬉しいので、改めてこの記事を書いている。なにせ専門書だから、「ぜひ読んでください」と宣伝する意味もあんまりない。買う人は宣伝なんかなくても買うだろうし、そうでない人は買わない。業界の人なんか、こっちが言わなくても知ってるだろうし。 それでも宣伝めいたことを書くとするなら、この、原書が改訂された

    新刊発売のご案内 - 「貧困とはなにか」(明石書店) - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
  • 息子が不登校になったときの思い出 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    学校は行っといたほうがいい。これはもう大前提だ。その上で、実際には学校なんてそこまでのもんでもない。だから、命がけで行くようなもんじゃない。しんどかったら行かなければいい。新学期のこの時期、こどもの自殺が有意に増える。死ぬくらいなら休めばいいし、何なら不登校になったっていい。私の息子は中1の夏休み明けに不登校になった。それでもおかげさまで二十歳になったいまも元気に生きている。 ただし、彼は絶賛無職アルバイト中で、世間的にいう安定した人生への道からは大きく外れている。たぶん、外れっぱなしのままでいくんだろう。だから、一般には学校に行っといたほうがいいのはまちがいない。命、とまでは言わなくとも、健康(心の健康も含め)に大きく被害が出ない範囲であれば、まあガマンして行っといたほうがいい。 もちろん、いったん路線を外れても復帰する道はある。実際、私がこれまで教えた生徒でも、半年不登校やってましたと

    息子が不登校になったときの思い出 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2023/09/04
    “彼らにとって宿題をしないことは犯罪行為に等しく映るはずだ。”
  • 己を知るということ - 自己認識と思い込みのはざまで - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」は孫子の兵法以来、経験則としてあらゆる勝負事の基とされてきた。敵(彼)を知ることは、困難ではあっても、一定の限界内では客観的に判断可能だ。これは通俗ビジネス書などではたとえば顧客情報や市場分析のような文脈で語られる。それらの情報は必要な程度には入手可能だし、あるいは入手できないときにはその不可能性自体が判断上の有力な情報となる。「役員構成もわからないような会社は怪しい」みたいなふうにね。その一方で、己を知ることは難しい。もちろん、表面的な情報であれば敵よりも自分のほうがよくわかる。ところが、それがどのくらいの価値があるのか、みたいなことになると、案外に頼りにならない。「このぐらいの実力はあるだろう」と踏んでいたものが、実際にはまったく役立たず、みたいなことはふつうに起こる。だから私も、家庭教師として生徒に説教するときには、「己を知る」ことの重要性をこ

    己を知るということ - 自己認識と思い込みのはざまで - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2023/06/03
    「ある人の状況に関するもっとも優れた専門家はその当人である」
  • 無目的な行動と合目的的な行動と - まとまらない雑感 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    山登りらしい山登りをやめてから20年以上になる。ピッケルだとかクライミング用のロープだとか山だとかは、結婚したときに捨てた。命を危険にさらすことができる立場ではなくなったと覚悟を決めたからだ。ただ、実質的にはその数年前からそういった道具類を使うことは絶えてなくなっていた。時間がなかったからでもあるし、大学山岳部が衰退してそちらから合宿に参加を求められることもなくなったからでもある。ある意味、ちょうどいいときにやめていたのかもしれない。というのは、おそらく、体力的には山登りをやめる直前の30代なかばまでの頃がピークだったからだ。 実際、あの頃は、いま思えばバケモノ並みに体力があった。条件のいい残雪期とはいえ白馬岳から唐松岳、鹿島槍ヶ岳を経て扇沢までの40km、高低差9千メートルぐらいはある行程を山スキーを履いて2泊3日で走破したのなんか、ちょっとアタマおかしいんちゃうかと冷静になれば思う。

    無目的な行動と合目的的な行動と - まとまらない雑感 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2023/05/15
    “目標のない人生、行きあたりばったりの人生では、人はたいしたことを達成できない。けれど同時に、目標や作戦に縛られた人生は、その合理性が連れて行ってくれる場所にしか人を運ばない。”
  • 校正やってた頃の思い出 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    大学を途中で辞めてバイト生活をはじめてしばらくして、私が自分の仕事として選んだのは編集だった。もう40年も前のことだ。まだDTP以前の時代で、主流は写植だった。電算写植がそろそろ出てきていたけれどまだ虫眼鏡でドットが見えるぐらいの解像度で評判は悪かった。むしろ活字のほうがきれいだということで、実際、活版清刷り*1の仕事なんかもそこそこにあった。そんな時代のことだから、現代の常識とはちがう。もっというと、出版関係のオペレーションは出版社によってちがうし、業界によってもだいぶ常識がちがう。たとえば私のいた学参業界なんてのは著者と編集者の境界線が非常に曖昧だった。編集プロダクションは著者を起用する前提で原稿料と編集料の両方を請求するのだけれど、手練の編集者になると著者への依頼はせずに自分で原稿を書いてしまい、両方とも懐に入れるなんてことをやってた。出版社もちゃんとした原稿ができればそれでOKとい

    校正やってた頃の思い出 - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
  • 少し、中学受験指導の要領がつかめてきた - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    中学受験に関してはこのブログでも再々書いているのだけれど、ぶっちゃけていえば、私自身は中学受験指導の経験がそれほど豊富とはいえない。家庭教師業、いちばんお客さんが多いのは高校受験だし、中学受験は手数ばかりかかる。高校受験のノウハウは割と確立しているので、こっちもそれを繰り返すほうが楽だ。なので、訪問指導で仕事をしていた頃には小学生が来たら、何かと口実をつけて他の講師に早い段階で交代するように心がけていた。主にスケジューリングの都合を優先すれば、それほど角もたたずに交代できる。まあ、なかには「この生徒は大学受験まで付き合いたい」と思わせてくれる生徒もいたが、それも事情で途中交代した。なので、自分の担当で合否が出るところまで教えたのは5年か6年前に番直前の数ヶ月だけを教えた1件があるきりだった。 それがオンライン指導専任になってから、急に中学受験生が増えた。増えたといっても年に2、3人だけれ

    少し、中学受験指導の要領がつかめてきた - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2023/02/05
    「中学受験はクソだ。だが、そのなかでも、それをうまく使って成長していける細い道筋がある。」
  • 「貧困」という言葉を誤解していたらしい - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    「実家が太い」と言ってしまっていいと思うのだが、私は貧しさと無縁な生活を送ってきた。無縁というのもちょっとちがう。いろいろな局面で貧しさと隣り合わせになりながら、そこにつきものの苦しみから質的に遠いところにいた。事業がうまくいかなくなって畳むときには現金が足りなくて当に困ったが、それでも三度の事を欠かすことはなかった。定収入なしで結婚したときも、どうにかなると思っていたらどうにかなった。不景気の風が吹いて仕事がなくなったときにも、安い給料でかまわないやと思ったら雇ってもらえるところがあった。実家が太いと、「親の老後のために貯金をしとかなければ」というプレッシャーがない。子どもができていろいろと金がかかるだろうといっても、高価なものは頼まなくてもやってくる。祖父母の楽しみなのだから、そこは譲ってもかえって親孝行ぐらいなものだ。結局、自分がべていければそれで十分であり、べるだけなら1

    「貧困」という言葉を誤解していたらしい - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
  • 「高三の夏休み」の比喩がわからない - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    はてなの有名人のシロクマ先生のブログは、語り口が柔らかくて、読んでいて気もちがいい。だから割と楽しみにしていて、私がいつも見ている「お気に入り」のリストにあがってくるとたいてい読んでいる(そしてシロクマ先生の記事はたいてい誰かがブクマしている)。読者であると言って差し支えないと思う。ただ、ときどき、シロクマ先生の感性がよくわからないことがある。以前、このブログでも、シロクマ先生の記事に触発されてひとつ書いたことがある。生きる世界がちがうこともあって、どこか理解し合えないところもあると思っている。 それはほとんどの人がそうなのであって、そのこと自体にどうという感慨もない。私は自分自身の親きょうだい、息子とでさえ、わかりあえない部分をもっている。人間と人間はそういうもんだし、また、そういうことがなければ人生おもしろくもないと思う。ちがっている人間同士がたまに重なるから、「ほう!」と膝を打つわけ

    「高三の夏休み」の比喩がわからない - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2022/11/06
    『高校三年生』は舟木一夫ですね。
  • オンライン家庭教師を2年以上続けたので、そのノウハウを公開する - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    前史(ここは飛ばしてOK) あまり気が進まないままに家庭教師をはじめて10年以上になる。そこら辺の事情は別で書いたので、繰り返さない。やっているうちにいろいろ考えて、「やっぱりこれは自分の仕事なんだろうなあ」と思うようになっていった。そこにすべてを賭ける気にはなれないが、いろんな仕事のひとつとしてこの先もずっと付き合っていくことになるんだろうぐらいに思うようになった。その矢先、アレルギー性の喘息が再発した。再発というのもおかしいかもしれない。小児性の喘息持ちだったのが成人して寛解しても、年をとるとまた出てくることがあるらしい。それだった。自分の感覚では喘息なんて慣れたものと思っていたのだが、実際に数十年ぶりに発症してみると血中酸素濃度が下がって平地にいるのに高山で行動しているような覚束なさに陥った。通常5分の駅までの道のりを途中2回休憩のためにしゃがみこまなければ歩き通せなくなって、命の危

    オンライン家庭教師を2年以上続けたので、そのノウハウを公開する - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
  • それは「予言の自己成就」ではない - 類似の構造ではあっても - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    前回の記事 mazmot.hatenablog.com について、早速にブックマークコメントを頂いた。こういうことがあるからブログはやめられない。ありがたいことだ。 指標が勝手に自己実現してしまう現象について知りたい - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて 社会学的には「予言の自己成就」という用語がまさにドンピシャという感じですかね ( https://kagaku-jiten.com/social-psychology/interpersonal/self-fulfilling-prophecy.html ) 2022/02/04 07:02 b.hatena.ne.jp 社会学的には「予言の自己成就」という用語がまさにドンピシャという感じですかね そういわれてみれば、「予言の自己成就」とよばれる概念に、私があげた事例はよくあてはまるのかもしれない。これは基的には情報のフィードバック作

    それは「予言の自己成就」ではない - 類似の構造ではあっても - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2022/02/14
    IQテストもIQを測れない。
  • 指標が勝手に自己実現してしまう現象について知りたい - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    人間は外界の様子を知るために五感を備えているのだけれど、これが案外とアテにならない。アテにならないとはいえそれを使わなければ情報が得られないのだから、なるべくそのあやふやさをなくすために指標が用いられることになる。温かい寒いの感覚は前日の気温に左右されてしまうから、古くは山のコブシの花を見て農作業のスケジュールを決めた。こういうのを指標という。社会が複雑になってくるとこういう指標は数値化できるものが好まれるようになる。兵士を選抜するのに「コイツは強そうだ」みたいな検査官の主観ではなく、身長、体重、血圧などの測定可能な指標が参照される。指標は客観的であり、人間の感覚のあやふやさをよく補ってくれる。 ただし、この指標、知りたいことを知るためのものだから、指標が知りたい事象をよく反映しているかどうかということは常にチェックされねばならない。たとえば、百年以上前には俵を担げるかどうかは強壮であるこ

    指標が勝手に自己実現してしまう現象について知りたい - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2022/02/04
    “もともと「家賃と民度は比例する」という事実があったかどうかにかかわらず、いったんそういう言説ができてしまうと、結果として「家賃と民度は比例する」という現実が生まれる。”共同幻想?美人投票?
  • アンラッキーと貧困と - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    「子どもの貧困とライフチャンス」の各章の紹介、というよりも読書感想文をここまで書きつづってきた。監訳者のあとがきをのぞけば、これですべてである。あとがきについては、ふれる必要はないだろう。あとがきだ。このシリーズは、これでおわりにしよう。今回は、自分なりのまとめ、というか雑感だ。 www.amazon.co.jp 今回よみかえしてみて、最初におもったのは、「翻訳、ヘタクソだなあ」。言い訳はあって、まず特急でたのまれたということ。さらに監訳者がつくということだから、そこに気をつかった。具体的にいうなら、自分の翻訳なら文章の構造をくみかえて論旨を整理したり、伝聞の形式を整理してまだるっこしさをなくしたり、いろいろとくふうをする。そんな箇所も、できるだけ原文の構造はかえないように訳出した。監訳者が原文とつきあわせるときにまよってしまうからだ。そのせいで、日語の感覚だとなかなか論旨がはっきりせず

    アンラッキーと貧困と - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2022/01/13
    “どこにいても人間ひとりがうけとることのできる快楽の量には限度があるし、安楽は一定をすぎれば安楽でなくなる。けれど、生命の危機にかんしては、そんなのんきなことはいってられない。”
  • 提言を価値あるものにするために - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    「子どもの貧困とライフチャンス」の第10章〜12章は、ここまでのまとめということになっている。10章は各章で述べられてきた事実、すなわち所得、家族の構造、幼児教育、学校教育、健康、健康、メンタル、住居、就労の問題を有機的にまとめ上げている。11章は測定指標の提案だ。「ライフチャンスを改善するというのなら、それはどうやって測定可能になるのですか?」ということをあきらかにする。12章は、むすびとして「子どもたちの未来のためにライフチャンスが必要だというのなら、じゃあどうやったらそれがめざす結果をあげられるのですか?」という疑問にこたえようとするものだ。結局は、それがこの全体をとおしたテーマでもある。 www.kamogawa.co.jp 私のようなシロウトはとばして読むのだけれど、実は書のなかでもっとも実用価値がたかいのは第11章なのだろう。実際、監訳者もここには力をこめていた。4ページに

    提言を価値あるものにするために - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
  • 金がないのは、かせげないからだ - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    かせぐにおいつく貧乏なし、とはよくいったものだが、最近ではどうも貧乏の足がはやくなったのか、ときどきおいつかれてしまう。経済の基礎代謝があがっているからだ。過去30年ばかりも賃金はあがっていないのに、固定的に出ていく金額はジリジリとあがってきている。そりゃ、そのぶんだけ便利にもなったし快適にもなった。けれど、「生活が苦しいからその便利さと快適さをがまんするんで支出をへらしたい」といっても、世間標準がそれをゆるさない。具体的にいうなら、通信費が高いからといってスマホをやめたら、たちまち仕事がなくなるだろう。クレジットカードをつかいすぎるからと解約したら、日常の光熱費の支払いにもこまる。むかしのように6畳一間の安下宿があるわけではないし、外出するならマスクだってつけなきゃならない。ラジオで必要な情報がとれる時代じゃないから、アマゾンプライムに課金ぐらいはしとかなきゃいけない。文化水準はあがり、

    金がないのは、かせげないからだ - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2022/01/07
    “政府が若者の失業問題にたいしてもつ「若者がニートになったり質の低い仕事から抜け出せない問題はスキルアップで解決可能である」という前提をきびしく批判”
  • 住む場所の問題 - 生きることの基礎として - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    長く生きてきたおかげで、いろんな場所に住んできた。豪邸からアパートまで、ひととおりの暮らしはわかる。いちばんせまかったのは公称6畳、天井を見上げたらベニヤ板が3枚半という便所共用の中野のアパートだった。いちばん惨めったらしかったのは、田んぼの真ん中にある作業場併設の飯場みたいな小屋に住んだ半年ほどで、あそこでフロッピーディスクにぜんぶカビをはやしてしまった。事務所の床にころがって仮眠したこともあれば、ホームレスさながらに深夜のゴミ置き場で新聞紙にくるまって寒さをしのいだこともある。いまは一戸建てでストーブに薪をくべながら優雅な生活をさせてもらっているが、結婚してからでも田舎の古民家、地方都市の棟割長屋、都市郊外の高層アパートと転々とした。子育てに住居がどれほど重要かも実感してきた。 だから、「子どもの貧困とライフチャンス」の第8章で住居の問題が語られていても、「そりゃそうだろう」とおもうば

    住む場所の問題 - 生きることの基礎として - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2022/01/06
    「そうやってラクをしたほうがしあわせなら、それを選択すればいい。しあわせに育ったひとは、長じてしあわせな世の中をつくるだろう。」
  • 心が不調でチャンスがつかめるか - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

    「子どもの貧困とライフチャンス」の第7章は、第6章にひきつづいて健康の問題だ。そのなかでもとくに、メンタルヘルスにかんする問題をあつかっている。貧困下に暮らす子どもたちはメンタルをやられる。それがライフチャンスに影響しないわけはないだろう。だったらまずは貧困をどうにかしないといけないんじゃないのかと、ほかの章でもくりかえされた論法で話がすすむ。 www.amazon.co.jp 一般的な健康ととくに分けて章立てされているのは、心の不調が外見上わかりにくいからだろう。ときには怠惰であることや協調性がないことなど態度を改めれば解決するとおもわれたり、反抗的であることや粗暴であることなど周囲の指導で矯正可能であるとおもわれたりする。実際には、すくなくともその一部は健康の問題であり、医療をふくめた専門家の介入がなければ解決しないものである。ときにはそれは人の変化だけでなく、周囲の合理的な配慮と対

    心が不調でチャンスがつかめるか - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて
    arajin
    arajin 2022/01/05
    “貧困下に暮らす子どもたちはメンタルをやられる。それがライフチャンスに影響しないわけはないだろう。だったらまずは貧困をどうにかしないといけないんじゃないのか”