館ミステリやゴシック小説で、館が「ラストで炎上」というイメージはどの作品から定着したのか、という疑問から始まったTL。 館の炎上・崩壊が持つ意味合いについてなど。
![館もののラストにおける館の炎上について](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/60c43760f6839faede42a2f4ad1ab3ade39f0df1/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fs.tgstc.com%2Fogp3%2F79ab01a8bac7ad365c6956776fc2b5cb-1200x630.jpeg)
ハードロマンやバイオレンス小説と呼ばれる衰退したジャンルだが、寿行の傑作群のようにゴミやゲテモノに混じって次世代の精読に耐えうる作品が忘却されている。最近では健さんの訃報に際し、『君よ憤怒の河を渡れ』が復刊されたり、同作のジョン・ウーによるリメイクが発表されたりと微風ながら追い風が吹いている。今回は多数の傑作を内包する西村樹海で遭難してみよう。 ラドラム『The Bourne Identity(邦題:暗殺者)』の訳者解説において、本にプロフィルを書き込む癖のある医師が『暗殺者』をラスト付近まで読み、未読ページを破り取って残りを飛行機内に置き捨てたところ、見知らぬ他人から結末を教えてくれ!という電話を受けたというエピソードが小説の面白さを示すエピソードとして挙げられているが、皮肉にもこれが冒険活劇に対する読者のスタンスを端的に表している。この記事の読者だけでもスルメの味わい方を知らない連中に
「那須川天心vsメイウェザー」は興行格闘技で意図的に発生させたバグだ。しかも大晦日のTVで見ているうえで、ほとんどの人間がバグだと気づかないように出来あがってしまった。いま(選手の競技能力の上では)厳密なシステムで運営されている格闘技にプロモーションがチート行為を行うことで、見た目にはおもしろいバグを生み出し、表向きは多くの人々が喜ぶ結果になったのである。 スポーツとはルールの上で、勝ち負けを競い合うことで成り立つものだ。しかし興行格闘技では簡単にいかない。ジャンルの性質上、たとえばポイント制のように完全なルールで決着できるものにすれば、勝ち負けの判定に不純物はほとんどなくなる。だけど、興行としての魅力はなくなってしまう。結局のところ、どちらが強いかという決闘の部分を見たいから成立している。 だけど選手ふたりを闘わせるなかでバグはどこかで紛れ込む。どちらが勝ちかを判定するなかで、どうにも観
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