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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/zoot32 (129)

  • 2009-05-17 - 空中キャンプ ■大田区からサンテック・シティへ

    5月10日 わたしはこの日、大田区でおこなわれた文学フリマという催しものに参加しました。ミニコミ、同人誌販売のイベントである。生まれて初めて自分でを作り、それを売ろうというのだ。数ヶ月前から原稿を書きため、せっせと小説を書いてきた。書いては直し、また書いては消し、をくりかえしてようやく完成させました。誰も買ってくれなかったらどうしよう、という不安を胸に、会場へと向かう。最寄りである蒲田駅を降りると、それらしき人たち(なぜかわかる、同士の匂い…)が向かう人の流れがある。地図もろくに確認せずに、その流れに身をまかせて数分ほど歩くと… ここだ! 今日ここでわたしはがんばってを売るのだ。まずは入口で受け付け、そして設営をおこなう。印刷会社から会場へ、は直接届いており、わたしもここで初めて実物を手に取り、そのできあがりを見る。表紙を担当してくれたフキン君のがんばりもあって、とてもキュートなしあ

    2009-05-17 - 空中キャンプ ■大田区からサンテック・シティへ
  • 文学フリマ終了しました - 空中キャンプ

    bassai718
    bassai718 2009/05/11
    買わせていただきました。大切に読みます。
  • 昨年の手帳 - 空中キャンプ

  • 5/10文学フリマに出店します!- 空中キャンプ

    みなさんこんにちは。空中キャンプを書いている者です。GWいかがおすごしですか。わたしはなぜか仕事が休めず、基的には働いています。昨日、ようやく休みがもらえたので、せっかくだから遊ぼう! ということになり、渋谷のクラブでDJ KAORIのプレイを目撃してきました。 白いドレスでDJするケオリさんにもぐっときましたが、衝撃だったのは、DJブースに常時スタンバイしているアシスタントのお兄ちゃん。ケオリさんが曲をかけ終わって彼にレコードを渡すと、元のジャケットにしまうのである。そんな「レコードしまい係」の人がつねに横に待機しているDJをわたしは見たことがなかったので、そこに強烈なセレブ感を発見したことを書いておきたいです。 さて、今週末になるのですが、文学フリマという催しものが開かれます。ミニコミや同人誌の販売イベントですね。そこに、わたしも空中キャンプとして参加します。こうした催しものに参加す

  • マリオカートが遊びたい - 空中キャンプ

    bassai718
    bassai718 2009/05/01
    すごくよく分かる。それで家電を買うのをいつも躊躇してしまう。
  • 不都合な真実 - 空中キャンプ

  • ひとつめの杭 - 空中キャンプ

    音楽家のヤン富田氏は著書のなかで、かつて試したある作曲法について書いている。まずはレコード屋さんへいき、もっともかっこいいジャケットデザインのレコードを買ってくる。しかし、レコードを聴いてはならない。ジャケットを眺めながら「このレコードに収録されているのはいったいどういう音楽か」を想像し、作曲をするのだ。 この手法はさまざまなジャンルに応用できそうな気がする。たとえば洋服のデザインをする人が、ある特定の人物をおもい浮かべながら「あの人に着せたらすごく似合うであろう服」を製作をする、といったしかたである。想像力を喚起するなにかをまずはひとつ設定しておき、方向性を絞ったうえで製作にとりかかる。 おもうに、表現ではスタート地点においては360度どこへでも向かうことができるから、逆に一歩目を踏みだすのがむずかしいようにおもうのである。表現という行為はあまりに自由すぎるために、なにかしらのとっかかり

  • あたらしい婚活 - 空中キャンプ

    トルーマン・カポーティの小説に、死んだの墓参りのために墓地を訪れた男性が、ふとしたきっかけから、たまたまその墓地にいた女性と会話になるという短編がある。墓地で見知らぬ女性から声をかけられるという状況にとまどう男性。作品を読み進めると、それは「を早くに亡くし、お墓参りにきている独身男性」をターゲットに声をかけ、結婚へ持ち込むべく婚活中の女性であった……ということがわかる。 これは、自分の目標に向かってターゲットをいさぎよく絞りこんだ、なかなかいいアイデアではないかとわたしはおもった。自分がなにを求めているかがはっきりしていなければ、こうした行動は起こせない。墓地という場所の選択にも意外性があっていい。短編では、女性のほんとうの意図があからさまになってしまい、婚活は失敗するのだが、こうしたアイデアはさまざまな場面で活用できるのではないだろうか。 弁護士を狙うなら、裁判所の近くにある定屋さ

    bassai718
    bassai718 2009/04/08
    この小説読んでみたい。
  • あたしの予告編、僕の予告編 - 空中キャンプ

    人はミステリアスなものに惹かれる性質がある。ぱっと見ただけでおおむねわかってしまうようななにかについて、それ以上あえて追求する意欲はあまり起こらないものであり、われわれもやはり同様に、底知れなさ感、謎めき感などを演出していった方がおもしろいのではないか、とわたしはおもう。 たとえば映画の予告編をおもいだしてほしい。たいていは、それがどういう映画なのかについて、ひとまずの概要は伝えながらも、もちろん核心には触れていないし、おもわせぶりな映像やシーンだけを効果的につないでいくことで、あたかもそこにはすごい興奮があるかのような予告をしている。仮に映画がひどい駄作であったとしてもかまわない。それがどうにか演出し、できるだけおもしろそうに編集する。卑怯かもしれないが、予告編とはそういうものである。 では、われわれにとっての予告編、つまりは「あたしの予告編」「僕の予告編」といったものが存在するとすれば

  • ふつうはむずかしい - 空中キャンプ

    メジャーリーガー田口壮のインタビューでおもしろかったのは、打撃を我慢だと話していることだった。どんな投手がきても、どんな場面であっても、自分が練習してきたことや、自分の狙い、バッティングのスタイルを崩さずに打つ。田口はそれを「ふつうに打っていく、我慢して打っていく」と説明している。なるほどとおもった。 ふつうになにかをするというのはとてもむずかしい。これはほんとうにむずかしいのだ。わたしにはそれがよくわかる。たとえば、あきらかにゆるゆるのボールを投げてくるピッチャーがいたとする。まっすぐのボールがまったく走っていない。そういった場合、こんなボールならかんたんにホームランにできる、と意気込んでしまい、つい大振りするバッターがほとんどだろうとおもう。わたしもきっとそうしてしまう。そこで我慢。ふつうどおりのコンパクトなスイング。これは口でいうほどかんたんではない。大振りの誘惑に勝つのはかなりむず

    ふつうはむずかしい - 空中キャンプ
  • 飲み会でとなりに座った女の子 - 空中キャンプ

    エヴァンゲリオン』の監督である庵野秀明さんは、飲み会でとなりに座った女の子に自慢できるアニメを作りたい、という気持ちで『エヴァ』を作ったという。とてもいい話である。わたしはこのエピソードがすきだ。なんだか元気がでてくる。この話を聞いて、「そんな低次元の目標のために表現をするのか」「誰にどうおもわれようと関係ないのではないか」などと反対意見を述べるのは、さみしいことだとわたしはおもう。 それまでの庵野さんは、自分がアニメ制作者であることを恥じ、たまたまどこかの飲み会に参加したときに職業を訊かれたりすると、会社員ですなどとごまかしていた。このままではいけない。友だちに呼ばれた飲み会で、ぐうぜんとなりの席に座った、CLASSYを読んでそうなコンサバOL(26歳)にもちゃんと説明できて、なおかつ「見たらぜったいおもしろいから、今度見てね!」と胸をはっていえるアニメを作る。それが庵野さんの目標だっ

  • 小説と映画のちがい - 空中キャンプ

    小説映画の大きなちがいは、それが個人でできる作業かどうかであるとおもう。基的に、商業映画をひとりで作ることはできない。規模の大小はあれ、複数の人間が関わることでしか映画は完成しない。反対に、小説はひとりで書き上げるものであり、他者が介在することはすくない。あくまで小説は個人作業なのだ。小説映画という表現手段には、そのような差異がある。 複数の人間が関わることで、そこで予期しなかったできごとが確実に発生する。それが映画という表現の特徴である。カメラの前で役者たちがどんな演技をするかは、撮ってみないとわからない。とある風景を撮ったとき、そこにたまたま写り込んでしまうなにかを、事前に言い当てることができない。想像もしていなかったようなシーンがたまたま撮れてしまう可能性はおおいにある。複数の人間が共同でひとつの作品に参加するとき、そうした偶然によって映画が豊かになっていくし、そこが映画のおも

  • あまりにも破壊力のありすぎる記憶 - 空中キャンプ

    若気の至りってやつは、実に途方もなくおそろしいものである。わたしはなぜ、あのように恥知らずな言動ができたのか。同じ自分のふるまいだとはおもいたくない。かつて自分のさらした、さまざまな醜態。自分があのとき、あのタイミングでいったこと、やったこと。それらをおもいだしただけで、「う、うわーっ」と叫びながら、誰もいない山奥に逃げて、そのまま隠遁生活をはじめたい衝動にかられる。 数多くの人びとがそうであるように、わたしの記憶内部にもまた、過去におけるいくつかの醜態がしっかりと残っており、なかでも+Aランクに恥ずかしいのは、二十五歳のころのあれと、二十七歳のころのあれで、そうした過去をおもいだしただけで、わたしは格的に具合がわるくなってくる。これらは、あまりにも破壊力のありすぎる記憶なので、脳もかなりしっかりと封印してくれているのだが、ほんのちょっとしたきっかけ、たとえば人間関係の悪化、仕事の失敗と

    bassai718
    bassai718 2009/02/18
    これを読んで思い出したくないことがたくさん浮かんできました。
  • ぜったいに繁盛しない貸店舗 - 空中キャンプ

    それはたいてい、どことなくぱっとしないビルの一階にあって、二十坪ほどの貸店舗になっている。その近所に住んでいる人なら、たいていは、その貸店舗はどんなテナントが入ってもぜったいに繁盛しない、魔の場所であることを知っている。そんな貸店舗が、どの駅前にもひとつはあるものだ。そうした貸店舗の前を通るたびに、なぜこの場所ではいかなる商売も繁盛しないのだろうと、わたしはふしぎな気持ちになってしまう。 今、わたしが住んでいる最寄り駅の近くにも、ぜったいに繁盛しない貸店舗がある。そこはかつて安売り生鮮品店で、その後ダンス教室になり、現在は美容院である。ほんの二年で、かかる変遷が見られた。そして問題は、その美容院の前をわたしが通りかかったとき、髪を切っている人をほとんど見たことがないという点である。だめなんじゃないか。この貸店舗もまた、負の連鎖から逃れられないのではないか。 かつてわたしが住んでいたところ

  • 会社の人たちが仕事でメールを使ってくれない - 空中キャンプ

    わたしの悩みは、会社の人たちが仕事でメールを使ってくれないことである。けっこう重要な伝達であっても口頭で指示がくることがほとんどだ。よってすべてこちら側でメモを取って復唱しないといけないし、なにより口頭なので記録が残らない。トラブルが発生したさい、言った言わない問題に発展する場合も多く、対策として、伝えられたことを箇条書きにまとめたメールを送り返して記録を残すようにする*1など、ほんらいであれば相手がやるべき仕事をこちらが引き受けるかっこうになってしまって実にめんどうである。これはどうにかならないものかしら。 それでも、伝達があるていど的確であれば、口頭でもかまわない。「やってもらいたいことは3つ。これとこれとこれ。期日はいつまで。よろしく」といったぐあいであれば、まちがいも起こりにくいし、こちらとしてもわかりやすく、すぐに取りかかれる。しかし、なんでも口頭で伝える人というのは、おおむね「

    bassai718
    bassai718 2009/02/04
    指示を曖昧にしておいて、気をきかせてやってねというタイプの上司はけっこういる。明確にしておかないと齟齬が生じたときにこちらが不利になるからなー。
  • 東京の合唱 - 空中キャンプ

    若い人たちが東京に憧れなくなったのだという。東京に求心力がなくなり、若者は「ジモト」を志向している。いい傾向だとおもう反面、そんな話を聞くと、わたしは自分だけがやけに歳を取ってしまったような気がしてならないのである。わたしは、みっともないくらい東京に憧れていた。 東京へいきたい。高校生のわたしは、それだけを生きるよすがにしていた。かっこいい東京。いや、わたしの東京への憧憬は、「憧れていた」などと過去形で語れるようなしろものではない。わたしはいまだに、東京に憧れているのだ。東京に住んで十九年。もうそろそろ飽きてもいいころだが、わたしの憧れは続いている。 たとえば、上京して十七年目のこと。わたしはついに、かねてからの希望であった、都内のとあるおしゃれタウンに越すことができた。たくさんの若者が集うことで知られる、音楽ファッション文化の街。わたしはついに、おしゃれタウンの住人となったのだ。この

  • http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20090115

    bassai718
    bassai718 2009/01/16
    「東京水」とか案外売れているらしいですね。
  • 個人的なルーティン - 空中キャンプ

    bassai718
    bassai718 2009/01/13
    "メールのカタカナをすべて半角にする人などがいて"これは・・(笑)
  • しあわせがつらい - 空中キャンプ

    ある精神科医の書いたを読んでいて、おもしろいなとおもったのは、病気が治りそうになると、治療にこなくなり、他の病院へ転院してしまう患者がいるということだった。理由はもちろん、「このままだと当に治ってしまうから」である。病気が治るのは、実はけっこうつらいものだ。今まで、病気だということで免除されていたあれこれと、現実的に向きあわなくてはいけなくなるからである。就職はどうする。税金を払え。結婚をしろ。子どもは、家は、生活は。それならば、いっそのこと病気でいいやと、つい考えてしまう人がいても、おかしくはない。病気はくるしい。しかし、治るのもけっこうしんどい。だったら、今のままでいいや。これは、たしかに想像がつく。 誰もがしあわせになりたがっている、というのは、たぶんまちがっている。幸福も、けっこうたいへんなのである。逆に、「また失敗しちゃった」とか、「やっぱりだめだった」というのは、とても安心

  • 神の子どもたち - 空中キャンプ

    渋谷駅前の交差点、路上に設置されたスピーカーから流れてくるのは、いくぶん抑揚に欠けた男性の声で、その声は「キリストを呼び求める人は救われます」と何度も繰り返していた。たくさんの通行人が行き交う年末の渋谷。強風で、外は寒い。信号待ちをしながら、わたしはふと気がついた。「キリストは罪を赦し、永遠の命を与える」──そう書かれた看板を持って立っていたのは、小学校五年生くらいのちいさな女の子だった。 われわれは親を選択することができない。どのような親のもとに生まれるのかを選び取ることができない。両親は、彼らにとって「善きこと」を子どもに伝えようとするし、そこにはそれぞれの親の価値観が大きく関係してくる。それはときに宗教であったり、ある種の思想であったりもする。親は「善きこと」を子どもに伝える。それはあたりまえのことで、他人があれこれと口をだす問題ではないのだとおもう。 両手でしっかりと看板を支えなが