全長2メートル超の火縄銃や西洋の技術を模索して製造した洋式銃など計40丁が、堺市に現存する鉄砲鍛冶(かじ)屋敷から見つかった。うち7丁は江戸末期の製造と特定された。鉄砲専門家らは、外国船来航に備えて堺の鉄砲生産が幕末にも増えたとする資料を裏付けるとともに、激動の時代の息づかいを感じられる貴重な資料としている。 この建物は鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、市の指定文化財。井上家は江戸前期に堺に定着し、主屋も江戸時代初めに建てられた。明治末ごろまで鉄砲を生産していた。 2014年に屋敷の蔵などから大量の古文書が見つかり、市と関西大が共同研究を開始。ペリー来航直後の1855年に海岸防備のため大筒を幕府側に上納した記録など、鉄砲づくりが江戸中期以降衰退したという通説を覆す記述も見つかった。さらにその過程で40丁の銃を確認。年代の特定を進め、府教委へ古式銃の登録をしてきた。 26丁は火縄
【Click here for details in English.】 特集記事『祝・開館!「鉄炮鍛冶屋敷」見学レポート』を公開しました(2024年3月1日) 一説によると種子島に伝わった鉄炮の製法を橘屋又三郎などが堺に伝えてから、堺は日本一の鉄炮の生産地になりました。井上関右衛門家住宅は、全国で唯一のこる江戸時代の鉄炮鍛冶の作業場兼住居として堺市の有形文化財に指定され、「鉄炮鍛冶屋敷」として公開しています。 井上関右衛門家住宅が立地する環濠北部エリアは、鉄炮鍛冶やその関連職人が集住し、分業により日本でも有数の鉄炮生産をおこなっていました。 近年、屋敷内からは2万点を超える古文書など江戸時代の鉄炮生産に関する歴史資料が発見されました。堺市では、これらの資料や「本物のものづくり空間」である貴重な建物を広く公開するため、令和2年から文化財建造物として保存修理工事を進め、令和6年3月から「鉄炮
堺市と関西大は17日、江戸時代前期に建てられた鉄砲の生産現場として全国で唯一現存する市内の鉄砲鍛冶屋敷の古文書を分析した結果、最盛期の年商は約3億円だったと発表した。報告書をまとめた藪田貫・関西大名誉教授(日本近世史)は「鉄砲ビジネスの実態が初めて分かる貴重な史料だ」と話している。 堺で1660年代には鉄砲鍛冶をしていたとされる井上関右衛門家の屋敷に残された2万点…
加藤清正に出兵を命じる豊臣秀吉朱印状(部分)。文書の左端に秀吉の朱印が押されている=愛知県刈谷市の市歴史博物館で2019年3月27日午後5時半、亀井和真撮影 戦国武将の豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、重臣だった加藤清正(1562~1611)に出兵を命じた「朱印状」が愛知県刈谷市の寺で見つかり27日、報道陣に公開された。 市歴史博物館によると、朱印状は縦21・5センチ、横125・5センチ。江戸時代に旧刈谷藩士だった旧家の菩提(ぼだい)寺で発見され、昨秋に同館に寄贈された古文書数百点の一つで軸装されていた。 朝鮮出兵の1592(文禄元)年3月23日、主計頭(かずえのかみ)に任じられていた加藤清正への書状で、「高麗に出陣して陣を固めたら早々に知らせること」と命じている。「異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断はしないように」と念を押しているほか、先に出兵を命じた九州や四国、中国
豊臣秀吉(1537~98)が、武将加藤清正(1562~1611)に宛てて朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかった。愛知県刈谷市の市歴史博物館が27日発表した。「文禄の役」で清正が出兵する直前に出されたものとみられる。 朱印状は縦21・5センチ、横125・5センチで軸装されている。竜のようなマークが特徴の秀吉の朱印があることや書状の紙質・形状などから本物と断定した。 清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。3月23日の日付があり、文禄の役で第2軍を率いて4月に出兵した1592年のものと推測される。 博物館によると、内容自体は福岡藩の黒田家に伝わる古文書に引用されている黒
羽柴(豊臣)秀吉(1537~98)が、織田信長の家臣として播磨(はりま、兵庫県南西部)を治めていたころにつくらせた検地帳の写しがみつかった。県立歴史博物館(姫路市)が26日発表した。信長政権下の検地帳が確認されるのは珍しく、これまでにみつかった秀吉の検地帳の中でも2番目の古さ。専門家は、政権奪取後に秀吉が始めた太閤(たいこう)検地の成立過程を知るうえで貴重な史料として注目する。 検地とは戦国~江戸時代に領主が所領を把握するために実施した土地調査。検地帳は、その検地の結果をまとめた土地台帳を示す。 みつかったのは「播磨国飾東(しきとう)郡緋田(あけだ)村」(現姫路市四郷〈しごう〉町明田)の検地帳の写し(縦約32センチ、横約21センチ)。二つ折りにした18枚の和紙の表裏を使って計72ページに及ぶ。表紙に天正8(1580)年10月24日の日付と村名が記され、本文には税をまとめて納める名請人(なう
昭和天皇の生涯を宮内庁が24年かけてまとめた「昭和天皇実録」で、天皇、皇后両陛下に献上した「奉呈本」や、報道機関や研究者らに提供した内容に約5千カ所の誤りがみつかった。関係者が明らかにした。一般向けに出版する作業の過程で、日付や地名、人名など多くの誤りに気づいたという。宮内庁は確認を終え次第、正誤表を公表する方針だ。 実録は、宮内庁が天皇の日々の動静や発言の要旨などをまとめ、完成時の天皇に献上される言わば「公式記録」。昭和天皇実録の場合、87歳で逝去した翌年の1990年に編纂(へんさん)作業が始まり、2回の延長を経て2014年8月に「完成」し、現在の両陛下に奉呈本が届けられた。 奉呈本と同じ内容が掲載されたものが皇太子さまやほかの皇族方にも届けられたほか、報道機関に電子データで提供され、さまざまな報道で引用されている。また、情報公開請求に基づいて研究者らにも提供されている。 実録は完成後、
よみがえる膨大な白黒写真 - 国策鉄道会社が遺した戦時期広報用写真の研究データベース 公開目的・公開宗旨: 日本語 | 簡体中文 | 繁体中文 | 華北交通アーカイブは、日中戦争期に中国北部・西北部(華北)の交通インフラを管轄していた華北交通株式会社(以下、華北交通)が所蔵していた3万8千点あまりの広報用ストックフォトをもとに構築された統合型の研究データベースです。ここに含まれる個々の写真は、当時の風物を詳細に調べるための精密(precise)な資料としての価値があります。一方、写真群全体の意味を考えるには、特定の撮影対象がなぜ選ばれたのかという意図を考えることも不可欠であり、そうしたバイアスを踏まえると、この写真群は事実の正確(accurate)な描写とはみなせない面もあります。こうした問題を考えるために、戦時期日本人/日本語話者向けに用いられた広報用写真を学術研究資源として公開しました
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古墳から出土した古代の鏡、「三角縁神獣鏡」を復元して光を当てると、反射した光が裏に描かれたものと同じ文様を映し出す現象が起きることを、京都国立博物館などの研究グループが明らかにしました。 研究者は、当時の権力者が神秘的な鏡を使い権威を高めたのではないかと注目しています。 京都国立博物館の村上隆学芸部長などの研究グループは、古代の鏡の三角縁神獣鏡が、作られた当時、どのような性質を持っていたのか調べました。 発掘された実物はさびついてほとんど光を反射せず、磨くこともできないため、比較的保存状態のいい愛知県犬山市にある「東之宮古墳」から出土した三角縁神獣鏡にレーザー光線を当てて、形を精密に計測しました。 そのうえで、実際と同じ銅などを使い、3Dプリンターと呼ばれる装置で複製し、表面を磨いて、作られた当時の姿に仕上げました。これに太陽の光などを当てると、反射した光が、鏡の裏に描かれた物と同じ文様を
本館ブログ(書評等):ものろぎや・そりてえる(http://barbare.cocolog-nifty.com/) ツイッター:https://twitter.com/troubadour_k (運営者:黒羽夏彦 /黑羽夏彥/KUROHA Natsuhiko 2014年1月開設) 台湾の民族分布を一瞥すると、山地にオーストロネシア系の原住民、平地に漢族系と棲み分けられているように見える。しかし、漢族系の人々が大々的に台湾へ移住してきたのは17世紀以降のこと。それまでは平地にもオーストロネシア系の人々が暮らしていた。台湾の原住民族は言語的に多様なグループから成るが、平地に住んでいた人々は一括して「平埔族」と呼ばれる。こうした原住民のうち、最も早くから漢人やオランダ人と接触していたのは、現在の台南近辺にいたシラヤ族であり、その中でも新港社(「社」は集落を指す)の人々だったと考えられている。台南
近世(江戸時代)の琉球は中国(清朝)の朝貢国でありながら日本の幕藩制国家にも従属する国家で、中国と日本に使節をそれぞれ派遣していました。中国へは北京の皇帝のもとへ朝貢使節を派遣していたことはよく知られています。一方、日本へは江戸の徳川将軍と薩摩藩の島津氏のもとへ不定期ですが使者を派遣して服属の儀礼を行っていました。いわゆる「江戸上り」と「中城王子上国(じょうこく)」です。 このような歴史的な性格から、琉球では当時の東アジアでも珍しい体験をする人物が登場します。その一人を紹介しましょう。彼の名は毛維基(もう・いき、城田親方)。久米村の毛氏5世で、元祖は17世紀に中国から渡来した華人です。維基は久米村行政のトップ(総役)の地位についたエリートで、書道や芸能にも通じていました。彼は何と、中国皇帝・徳川将軍・琉球国王という3カ国の「元首」に会ったことのある人物なのです。 1752年、国王尚穆(しょ
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