Tokyo, August 7, 2024 — Japan Cosplay Summit is more than just an event; it's a transformative experience for many participants. This annual celebration of cosplay brings together the best and most p...
いろんなものを並べてやれば、沢山の人に何かしら持たせて帰すということになる。 客の一人がひとりが満足してうちへ帰っていくというわけだ。 というのは、ファウストの前狂言から。 ゲーテは、芝居屋だったので、世の中に言葉を「売る」ということをわきまえている。 この辺の割り切りは、Google先生と仲良くなれそうな雰囲気だ。 結局、物語が再利用性されるかどうかは、小さな細部が輝いているかどうかで決まる。 平野耕太の台詞回し、然り。 デスノートの精密なコマ絵、然り。 誰かが再利用したくなるような《何か》を埋め込む余力があるかどうかで、最後のジャンプは決まるのかもしれない。 だが、そこにたどり着くまでが一苦労だ。 本当の競技は走り幅とびなのに、助走距離がマラソン。 なんか、現代社会のコンテンツは、そんな感じになっているようだ。 ・・・いや、私が不器用なだけかも。 * そんなわけで、最近のW
理系は文系を騙してきたのか 「原発問題は、人災だ」といろんなところで言われている。 こういうのは、危険な言い方だけど、世の中の大半の人は、事故が起こるたびに 「『理系=強者』が『文系=弱者』を騙してきた」 と感じているのかもしれない・・・などと、最近は思ってしまうのですよ、加害妄想症の理系人間としては。 ナイーブな嘘の告発 僕がこんなことを言い出したのは、このサイトを読んだからだ。 2011-04-08(金) [長年日記] 斉藤和義の「ずっと嘘だった」という歌が評判だというので聴いてみたけど、「なんだこりゃ」だった。 (中略) こんな歌、十代の子供なら許されるかも知れないけど、斉藤和義はもう44歳、おれと同世代じゃないか。この歳になったら言っていいのは「(自分より若い世代に対して)無知でごめんなさい、騙されててごめんなさい、黙っててごめんなさい」だろうよ。いい大人がイノセンスぶって責
フラグの回収と運命 昔、フラグ展開の嫌いな友人がいた。 戦場で家族の話をすると、3分後にそのキャラクタは銃弾の雨の中でミンチになったりする。そういうのがすごく嫌で、だんだんフィクションを読むのがつらくなってきた、最近はノンフィクションばかりだと言っていた。 当時は、そのフラグ展開の陳腐さが嫌なのだろうと思っていた。それなら理解できると。 今は彼が嫌っていたものは、ちょっと違ったんだろうなあと思っている。 それは要するに観察者の無力感という奴だ。 ジェットコースターが上がっていくと、そのうち落ちることが分かっている。だけど、それを止めることができない。 そのヤキモキ感なんだろう。 * 最近、周囲の人が、「魔法少女が」という会話をすることが妙に多い。最近アニメから離れていた僕も、久々に見てみることにした。 で、薄々聞いてしまっていた話が、「3話目と8話目があ」という悲鳴だった。
八百長より恐ろしいもの なんか、世の中が大相撲の八百長で大騒ぎしているらしい。 別にそんなもん、どうでもいいじゃねえのか、とか思うのだが。 * そもそも「相撲に八百長は一切無い」と、心のそこから信じていた日本人って、何人くらいいるんだろう?たぶん、あんまりいないんじゃないかなあ、と思う。 週刊誌では、相撲の八百長の話がずっと書かれていたし、いろんなところで言われていた。でも、証拠が無いから、まあ「見なかったこと」にしていたわけなのだろう。 ホンネでは八百長があることを知りつつ、タテマエのうえでは八百長のことはいわない。ところが、証拠が見つかってタテマエの世界に出たとたんに、すげえ大騒ぎになる。 正直言うとなんか、こういう世界の仕組みが、ちょっと気持ち悪い。 * こういう話は、どこにでも転がっている。このまえは、検察で大騒ぎしていた。 検察が強引な取調べとか、でっち上げしているのは、
403Forbidden Access to this resource on the server is denied! amp-web-push-widget button.amp-subscribe { display: inline-flex; align-items: center; border-radius: 5px; border: 0; box-sizing: border-box; margin: 0; padding: 10px 15px; cursor: pointer; outline: none; font-size: 15px; font-weight: 500; background: #4A90E2; margin-top: 7px; color: white; box-shadow: 0 1px 1px 0 rgba(0, 0, 0, 0.5); -we
広江礼威マンガにおける「ビッチデレ礼賛」 前のエントリ では、広江マンガは同人に成りにくいとか書いたけれど、それはそうとして、広江マンガ自体には萌える。twitterにも書いたが、1ファンとしては、ビッチのレヴィが変に奥手になる瞬間は果てしなく萌えまくる。 bakagane11:34pm, Apr 24 from Web 全面的に同意します。あの「言いたくねぇ」とかの場面は、萌え死ぬかと思いました。 RT @santohei 1ファンとしては、ビッチのレヴィが変に奥手になる瞬間は果てしなく萌えますけどねえ そこで「ビッチデレ」 という言葉を思いついた。 さっそく、ググって見たら結構使用例があるようだ。さすが集合知。 でも、なんか用法を勘違いしているっぽいんだよ。 たとえばwebでも「ビッチがデレても、ただのビッチじゃん?」というツッコミがあった。 違います。 違います。違います。違い
物語における「アニキの死」について 以下は、言うまでもないが、ジャンプでの「あのマンガ」を意識してのエッセイだ。連載時のマンガについてあまりネタバレはしたくないので、一般論として読めるように書いた。直接には引用しない。ジャンプ嫁。 父親殺しとアニキの死 物語や神話の基本テンプレには「父親殺し」という重要なテーマがある。 このテーマを基本にして、フロイトは「無意識」の存在を語った。父親を倒して、父親の所有する社会権利を(象徴としては「母」を)奪いたい、という人間の無意識願望があるぜ、というストーリだ。 エヴァンゲリオンやらスターウォーズやら、このテーマに沿って構成された傑作の物語は数多い。 フロイトが取り上げた「父殺し」に比べると注目されることが少ないが、それに匹敵するレベルで「アニキの死」という大きなテーマがある。このテーマも、数かすの名作を生み出している。 「アニキと俺」の物語 父親
自殺と戦争と共同体 内田先生が「Twitter と自殺について」というブログ記事を書いていた タイトルは釣りっぽい。「Twitterで自殺多発?」みたいな噺かと思ってみたら、twitterの話と自殺の話は無関係に列挙されていた。 さて。自殺予備軍のエリート幹部候補生である私として、日本の自殺分析のお話は少々気になるところだ。 要旨 内田先生の自殺の話は、こんな筋だった 1:デュルケームの古典研究をまとめる 結果的には、「気候が暖かいところに住み、儀礼的な宗教を信仰し、大家族の一員であるような人間」はめったに自殺せず、「寒くて、厳しい宗教的緊張が強いられ、単身者であるような人間」は自殺しやすいということになる。 納得のゆく結論である。
人間の社会はニセ科学批判に耐えられるのかなあ? 「ニセ科学批判」という運動は、根本的に正しいことを言っているのだが、根本的に難しい要素を含んでいる。難しい要素というのは、「人間社会がそもそもニセ科学的」であるという点に尽きる。 * なぜ人間社会がニセ科学的であるかといえば、人間の脳が致命的にニセ科学的であるからだ。つまり、 ○ 知っている範囲の知識を援用して、手当たり次第に「原因」と「結果」を捏造して、その仮定の下に行動する。 ○ 一度仮定を組み立てたら、よほど個人的に手痛い反証を受けない限り、その仮定を維持し続ける。 ○ 仮定に個人的な手痛い体験の反証が加わらない限り、スキあらばその仮定をもっともらしく他人に「教えて」伝えようとする。 人類始まってから、こういう「ニセ科学的な行動」というのは続いてきた。この膨大な歴史に比べると、近代科学の歴史など皮一枚に過ぎない。このシステムは、古くは占
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く