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ブックマーク / blog.tatsuru.com (30)

  • 感染地域より - 内田樹の研究室

    羽田空港で庄内空港への乗り継ぎを待っていたら、携帯が鳴って、大学事務長からインフルエンザ対策の緊急会議の招集がかかった。 すみません、墓参で鶴岡に行く途中なんで・・・と欠席の言い訳をしたが、どうもたいへんなことになっているらしい。 空港の待合室のテレビを見ると、神戸市内の感染者がまた増え、「神戸まつり」が開催中止となり、東灘区の小中高は休校措置に踏み切ったと報じている。 次々といろいろな人からメールが入る。 神戸センター街は人気がなく、マスクを買う人びとが先を争っているというジョージ・A・ロメロ的展開を知らせてくれる。 神戸市が「感染地区」になったということは、ここに住まいし、ここを通勤通学経路としている人たちは地区外への移動を自粛したほうがよい、ということである。 そういうときに対策会議を欠席して、遠く山形まで来てしまった。 年に一度のことであるから、ご容赦願うしかない。 いつものように

  • 壁と卵 - 内田樹の研究室

    村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチが公開されている。 非常にクリスプで、ユーモラスで、そして反骨の気合の入ったよいスピーチである。 「それでも私は最終的に熟慮の末、ここに来ることを決意しました。気持ちが固まった理由の一つは、あまりに多くの人が止めたほうがいいと私に忠告したからです。他の多くの小説家たちと同じように、私もまたやりなさいといわれたことのちょうど反対のことがしたくなるのです。私は遠く距離を保っていることよりも、ここに来ることを選びました。自分の眼で見ることを選びました。」 そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。 Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how r

  • 村上春樹と橋本治 - 内田樹の研究室

    の批評家は村上春樹を評価していないと書いたら、以前『B學界』の編集長だったO川さんからメールを頂いて、村上春樹を評価している批評家はたくさんいますよと名前を教えていただいた。 「三浦雅士、清水良典、石原千秋、川村湊、藤井省三、鈴村和成、風丸良彦、荒川洋治、川三郎(特に初期において、現在は批判的)、柴田元幸、沼野充義、和田忠彦、芳川泰久氏、ほかに若い批評家、学者は無数」ということだそうですので、先日のブログのコメントは訂正させていただきます。 蓮實重彦以下ごく少数のケルンが執拗に村上評価を拒否しているらしい。 そうか、彼らは孤立無援の少数派だったのか。 私はどのような論件であれ、絶対的少数派でありながら自説を枉げない人には無条件の敬意を抱く傾向にある。 こうなったら蓮實重彦さんたちにはぜひがんばって孤塁を死守していただきたいと思う。 でも、私が日の批評家たちを(少数の例外を除いて)あ

  • ノーベル文学賞の日 - 内田樹の研究室

    今日はいよいよノーベル文学賞の発表である。 村上春樹氏ははたして今年ノーベル文学賞を受賞するであろうか。 物理学賞、化学賞と立て続けに日人受賞者が輩出しているので、今年は「日イヤー」になるかも知れない。 というわけで、新聞社から「村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメント」の予定稿を求められる。 今回は S 新聞、K 新聞、Y 新聞の3紙から求められた。 S 新聞には過去2回書いているので「三度目の正直」。 私のような門外漢に依頼がくるのは、批評家たちの多くがこの件についてのコメントをいやがるからである。 加藤典洋さんのように、これまで村上文学の世界性について長期的に考えてきた批評家以外は、村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである。 だが、説明がつかないから黙っているというのでは批評家の筋目が通るまい。 批評家というのは「説明できないこと」にひきつけられ

  • 知識についての知識について - 内田樹の研究室

    毎日新聞の次は『新潮45』。 総合雑誌の廃刊休刊相次ぐ中で苦戦中の『新潮45』も12月号からリニューアルするそうである。 野木正英さんが編集部に参加する。 野木さんは旧友故・竹信悦夫と高橋源一郎さんと灘の同期である。 このトライアングルがどんな過激で愉快な中学高校時代を過ごしていたのかについては源ちゃんと私の対談(『ワインコイン悦楽堂』)に詳しい。 そういうご縁があるので、竹信への供養もかねて、リニューアル『新潮45』に一臂の力を仮すことにしたのである。 野木さん、編集長の宮さん、三重さん、そしていつもの足立さんが御影においでになる。 インタビューのお題は「呪いのコミュニケーション」。 話頭は転々で何を話したのかよく覚えていないのだけれど、その中で「知識がある」ということが今ほど無意味になった時代はないということを話した。 20年ほど前の学会では、学会発表のあとの質疑応答で「重箱の隅をつ

  • 総合誌は生き残れるのか? - 内田樹の研究室

    四日目でようやく体内時計が日時間と同調した。 やれやれ。 終日『街場の教育論』の推敲。 去年の4月に、授業ではできたばかりのサイバー大学(福岡市、ソフトバンクが出資する株式会社立大学)について「この大学はユビキタス大学の失敗例となるだろう」と予言している。 理由はビジネスマンは「師弟の対面状況」の重要性を理解していないからだと書いているが、サイバー大学が単位認定と非認定大学(学位工場)からの学位で新聞記事になるような問題を起こした後にになるので「なんだあと知恵じゃん」と思われるだろうな、きっと。 教育再生会議の批判ももうあまり新味がない(というか、これほど短期間に教育問題に対する世論が「冷めた」ということに驚く)。 一昨年暮れから去年はじめにかけては、日中が教育問題でわきたっていたのにね。 そういう言論状況のなかで、長期にわたってリーダブルであるようなものを書くというのは、なかなかむ

  • 「著者様」と呼ばれて (内田樹の研究室)

    とある進学教室から「著作物の無断使用についてのお詫びとお願い」という文書が届いた。 塾内教材として、これまで私の著作物を何度か使用していたが、「この度、他の著者様から著作物の無断使用についてご指摘をいただきまして、社内で調査致しましたところ、先生の作品を過去に無断で使用していた期間がございましたので、過去の使用についてご清算をさせて頂きたく、書類をお送りさせて頂きます」とあった。 6万円ほどの著作料が入金されるそうである。 何もしないで6万円いただけるのはありがたいが、何となく気分が片づかない。 何もしていないのに、そんな大金をいただく「いわれ」がないような気がするからである。 そもそも「著者様」というワーディングが「怪しい」。 なくてもいいところに「様」がつくときは眉に唾をつけることにしている。 何年か前から病院では「患者様」という呼称が厚労省の行政指導で導入された。 そのあとどういうこ

  • 北京オリンピックに思うこと - 内田樹の研究室

    今朝の新聞を読んだら、新彊ウイグル地区で爆弾テロがあった。 北京オリンピックは果たして無事に開催されるのであろうか。 毎日新聞に三ヶ月おきに書いている「水脈」という時事エッセイの締め切りなので、そのことについて書く。 北京オリンピックについては、二ヶ月ほど前に TBS の報道研究誌に寄稿を求められて、少し長めのものを書いたことがある。 あまり人目に触れる機会のない媒体であるから、その後半部分をここに転載しておく。 友人のビジネスマン平川克美くんは「中国人が北京オリンピックで失うものは、日人が東京オリンピックで失ったものの10倍規模になるだろう」と予測している。私の実感もそれに近い。 中国の人々が北京オリンピックで失うものは私たちの想像を超えて巨大なものになるだろう。 こういう国家的イベントによって失われるものは「かたちのあるもの」ではない。むしろ、「かたちのないことが手柄であるようなもの

  • コピーキャット社会 - 内田樹の研究室

    『こんな日でよかったね』(バジリコ)がもうすぐ発売される。 まだ書店には配架されていないが、すでに重刷が決まったそうである。 ネット「青田買い」してくださる読者のみなさんのおかげである。 自分でいうのもなんですけれど、たいへん面白いです。 ところが、読んでいるうちにすごい誤記を発見する。 261頁に「ナチスドイツの宣伝相であったゲーリングは」とあるのだが、これは誰が何と言っても「ゲッベルス」の間違いである。 ゲーリングはゲシュタポと空軍の創設者の方である。 「ゲーリング」ヴァージョンを買ってしまった方は、稀覯書を手に入れたと思ってください。三刷りからは直しておきます。 (と書いたあとにネットで調べたら、amazonで46位、bk1では全体で3位、社会で1位になっていた。もう書店に並んでいるのであろう。1位というのははじめてのことなので、これはたいへんうれしいです。お買い上げのみなさん、あ

  • パイレーツ・オブ・チャイナ - 内田樹の研究室

    文藝協会というところに入会したので、会報が送られてくる。 文藝協会はたぶんもともとは寄る辺なき文士たちの相互扶助組織として発生したものではないかと思う。 「寄る辺なき人々」のための相互扶助・相互支援組織というのはたいせつな中間共同体である。 しかし、文藝協会の最近のメインの仕事は著作権の管理である。 私はこれがどうにも、「なんか違うんじゃないか」という気がしてならないのである。 いま著作権の保護期間は50年である(これを国際標準に合わせて70年に延長することを協会は求めている)。 著作者が死ぬと、著作権はその親族に継承される。 だから、文藝協会の会員も相当数は操觚の人ではなく、著作権継承者の方々である。 著作者自身が自分の書き物について、その使途や改変について「ちょっと、それは困るわ」という権利を留保することは許されると思う。 文章が書き換えられて、それに自分の名前がつけられて流布して

  • 格差社会論(再録) (内田樹の研究室)

    今回の秋葉原の事件に「格差社会下層」に自分を「格付け」するという「物語」が深く関与していることにはどなたも異論がないだろう。 私は以前そのような「物語」が瀰漫することに、とりわけそれが「政治的に正しい」説明原理として称揚されることについてその危険を指摘したことがある。 『神奈川大学評論』という大学紀要に寄稿したものであるので、大学関係者以外には読まれた方はほとんどおられないであろうから、ここに再録する。 2007年の9月に書かれたものである。 この論考のせいで私は「保守系リベラル」「中道右派」とカテゴライズされることになった(ウィキペディアにはそう書いてある)。 ここに書かれたことのどこが「中道」なのか、どこが「保守」なのか、私にはよくわからないが。 善意の格差論のもたらす害について 内田樹 「格差」という語はそれ自体では価値中立的なものであるが、現在のメディアではこの語は中立的なものとし

  • 忙しい週末と翻訳のこと - 内田樹の研究室

    金曜日は授業が午前中だけだったので、午後から教育実習校訪問。 京都のNトルダム女学院高校にゼミ生のN西くんが行っているので、受け入れ先にお礼のご挨拶をするのである。 東山の斜面の木立の中にあるたいへん雰囲気のよい学校である。 ミッションスクールはどこも立地がよい。 最初に場所を選んで、校舎を建てたのが宗教家なので、「霊的プロテクション」ということがはっきり意識されているからである。 「霊的プロテクション」というと鼻で嗤う人がいるかもしれないけれど、これは築城の条件とほとんど同じである。 「難攻不落」というのは単に物理的な条件だけを言うのではない。 攻撃的な意図をもった人間がそのエリアに足を向けると、なんとなく「気後れ」がして、「ま、ここは後回しにするか・・・」というような reluctance を人の心に生み出すのが実は「難攻不落」の不可欠の条件なのである。 物理的に攻略することがいかにも

  • 甦るマルクス - 内田樹の研究室

    マルクスが「プチ・ブーム」らしい。 『赤旗』からの電話取材で、「このところのマルクス・ブームと日共産党再評価の動きについて」訊かれる。 たしかに、マルクスについて言及される回数がこのところ心持ち増えたような気がする。少なくとも、私自身の書きものに「マルクス」という語の出現頻度が上がっているのは間違いない。 日共産党再評価云々については、ほんとうにそんな動きがあるのかどうかわからない(「希望的観測」の域を出ないのではないかと思うけど・・・)。 どうして「今、マルクス」なんでしょう? どうしてなんでしょうね・・・ 一つはかつてドミナントなイデオロギーであったせいで、すっかり飽きられた「歴史主義」が、このところあまりに冷遇されていたせいで、むしろ「物珍しい」ものになったという事実がありそうである。 歴史主義には悪いところもあるが、いいところもある。 特にいいところは、「私たちが今生きているこ

  • 週末婚? - 内田樹の研究室

    ゼミのお題は「週末婚」。 「しゅうまつこん」と聴いて「終末婚」という文字を思い浮かべた人もいた(臨終間際に永遠の愛を誓い合う男女・・・シュールだ)。 週日はばらばらに暮らして、週末だけいっしょに過ごす。 自分らしいライフスタイルは仮に配偶者であっても邪魔されたくないという欲求が見出したソリューションである。 なるほど。 発表した学生によると、週末婚実践者たちのブログをチェックすると、GW明けは男女問わず「配偶者と長くいたので、疲れた」という愚痴が書かれていたそうである。 疲れる理由は「自分のペースで生活できない」。「家事負担が増える」などなど。 要するに配偶者が「自分の生活」に関与してくるのをどのように抑止するかにみなさん心を砕かれているわけである。 そうですか。 でも、それなら結婚しなけりゃいいじゃないですか、とゼミの学生たちが一様に言う。 そうだね。 まあ、先方にもいろいろご事情という

  • 被害者の呪い - 内田樹の研究室

    毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。 いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。 昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。 こんな話。 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「

  • 中国が「好き」か「嫌い」かというような話はもう止めませんか - 内田樹の研究室

    朝刊を広げたら、週刊現代の新聞広告を目に入った。 特集は「中国、『好き』か『嫌い』か」。 なんと。 外交は好き嫌いでやるものではない。 小学生ではないのだから、「好き嫌い」で外交戦略を決するような愚かしいことは止めて欲しいものである。 どのような人がこのような特集に寄稿しているのか一瞥すると、「中華思想の骨法がわかれば中国は御しやすい」などという愚なるタイトルを掲げた文を草しているものがいる。 誰だ、このバカはと思ってみると、私の名前が書いてある。 う? そんなもの私は書いたのか? たしか十日ほどまえに「中国との付き合い方」というタイトルで寄稿を依頼された覚えがある。 週刊現代だったかもしれない。 その中に私は「好き嫌いで外交方針を起案するような愚かなことはいい加減やめたらどうか」ということを書いた。 外交戦略は先方がどのような国家像をもち、どのようなコスモロジーのうちにおのれを位置づけて

  • 麻雀の季節 - 内田樹の研究室

    16の2。 0.125 かろうじて「割」が残ったが、このままあと5半荘負けると「割のない男」になってしまう。 麻雀の勝率はだいたい野球の打率と同じくらいの難度のものとお考えいただいてよい。 2005 年度は3割8分2厘、2006 年度は3割4分2厘、2007 年度はあれだけ前半苦戦しつつも最終的には3割1分7厘をキープした総長であるが、2008 年度は年頭より歴史的不調のうちに喘いでいる。 先般麻雀についての取材を受ける。 麻雀について取材を受けるというのは例外的なことであるが、これは事情があって、非公開のメディアである。 インタビュアーは若い方であったが、彼らのまわりでも最近ひそかな麻雀ブームが起きているそうである。 これはいったいいかなる社会現象でしょうかというご下問である。 お答えしよう。いささか長い話になるが我慢していただきたい。 映画に行っても、バレエに行っても、歌舞伎に行っても

  • 国を愛するとはどういうことなのか - 内田樹の研究室

    レヴィナス『困難な自由』の再校が続いている。 ようやく半分ほど終わる。あと二日あれば、終わる。 夏前にはになるだろう。 あまりに内容がタイトなので、読んでいてこめかみがきりきりしてくる。 鈴木邦男『失敗の愛国心』を読む。 これは理論社が出している『よりみちパン!セ』という中学生向き図書シリーズのうちの一つである。ちくまの「プリマー新書」みたいなものらしい。 私も執筆を頼まれている(たしか天皇制についてだったような気がするけれど、違うかもしれない)。 「以下続刊」のところに名前が出ていた。 西原理恵子/リリー・フランキー/叶恭子/安野モモヨ/杉作J太郎/内田樹/中沢新一・・・というふうに著者名が並んでいる。なかなか意欲的なラインナップである。 鈴木さんのを読むのは初めてである。 読み始めたら、面白くて最後まで一気に読んでしまった。 そのの中で鈴木さんは以前長崎市長テロ事件のあと『朝まで

  • ようやく春休みになった - 内田樹の研究室

    「ねんきん特別便」というのがいまごろ届いた。 開封してみたら私の年金加入記録が残っているのは1990年からの私学共済だけで、それ以前の年金はすべてが「記録もれ」になっていた。 すごい。 私は1977年からは(株)アーバン・トランスレーションの社員であり、そのときもきちんと年金は支払っていたはずであるが、その記録がない。 それどころか、1982年から90年までは東京都の公務員だったのであるが、その年金記録も記載されていない。 社保庁の仕事がずいぶんデタラメだということは報道で聞き知ってはいたが、まさか公務員の年金記録もなくなっているとは知らなかった。 このままだと私は年金受給年齢になったときに「加入年数が25年に満たないので年金は上げられません」ということになったわけである。 とりあえず「訂正してね」という返事を書いて送る。 けれども、1977年のアーバン・トランスレーションの住所なんか、遠

  • 「政治的に正しいこと」は正しいのか? - 内田樹の研究室

    バリ島海水浴でばりばりに日焼けした上にスキー焼けしたので、季節感のない色黒男になってしまった。 むかしはこういうのを「くろんぼ大会」と称したのであるが若い人はご存じないであろう。 1960年代までは夏休み明けに一番黒く日焼けした子どもを学校で表彰していた。 たいへんよい企図のものであったと思うのだが、「くろんぼ」がご案内のとおりポリティカリーにコレクトではないということで使用禁止用語となり、ついでに「よく遊んだこと」を肌の黒さを基準に考量し、これを讃えるという風儀もまた失われたのである。 ポリティカル・コレクトネスによる用語制限によって私たちが得たものと失ったものはどちらが多いのか、ときどき疑問になる。 自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣を定着させたという功績はむろん高く評価されねばならぬ。 だが、PC の難点は「自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣に伏流