駅舎の上に着陸した本物のジェット機? 福岡県筑前町の甘木鉄道・太刀洗駅に隣接する旧国鉄駅舎に自衛隊機が展示され、珍しい光景が訪れる人の目を引いている。 飛行機が目を引く資料館 ここは、渕上宗重さん(90)の私設資料館「太刀洗レトロステーション」。1986年に旧国鉄甘木線を引き継いだ第3セクターから、古くなった駅舎を借り受け、「平和記念館」として運営してきた。記念館としての役割を町立の施設に譲った今は、「昭和の忘れ物」をテーマに時代の"息づかい"が聞こえてきそうな生活用品を並べている。
戦時中、中国人を拉致して日本の炭鉱等で強制的に労働をさせた中国人強制連行強制労働事件の跡地探訪に参加しました。 今回は4回目。これまでは、門司地区、大牟田地区、筑豊地区を訪れ、今回は福岡地区です。 戦時中、日本政府は3万8935人の中等人を拉致し日本各地の炭鉱等で強制労働をさせ、わずか2年で6830人を死亡させました。死亡率は17.8%です。 炭鉱の多かった福岡県は北海道に次いで多くの中国人が働かされました。 糟屋郡宇美町にある三菱鉱業所(現在の三菱マテリアル)勝田鉱業所大谷坑では、わずか1年間で約25%の中国人労働者が飢えや病気、リンチなどで亡くなりました(352人中87人が死亡)。1年間の労働で4人に1人が死ぬという過酷な労働でした。特に配給のピンハネが酷く、中国人労働者にはごく僅かの粗末な食事しか与えられませんでした。 大谷坑の強制収容所跡。 大谷坑の購買部跡。 大谷坑の巻き上げ機の
三菱大谷炭坑・中国人強制連行強制労働史碑「大谷炭坑日中平和友好不再戦誓約之碑」除幕式に参加しました。 この慰霊碑は、かつて三菱鉱業所大谷坑があった糟屋郡宇美町貴船に建立されました。 戦時中、日本政府は3万8935人の中国人を拉致し日本各地の炭鉱等で強制労働をさせ、わずか2年で6830人を死亡させました。死亡率は17.8%です。 炭鉱の多かった福岡県は北海道に次いで多くの中国人が働かされました。 糟屋郡宇美町にある三菱鉱業所(現在の三菱マテリアル)勝田鉱業所大谷坑では、わずか1年間で約25%の中国人労働者が飢えや病気、リンチなどで亡くなりました(352人中87人が死亡)。1年間の労働で4人に1人が死ぬという過酷な労働でした。 87名の方は故郷に帰れないままここで亡くなりました。 中国人労働者が解放されて78年が経ちました。 除幕式には中国総領事も出席しました。 2016年に三菱マテリアルが中
戦争の記憶を後世に伝える「戦争遺跡」 終戦から80年近くが経ち、その多くが老朽化や再開発などによって消滅の危機に直面しています。こうしたなか、かつて東洋一といわれる軍事施設があった町が、クラウドファンディングを活用した保存に乗り出しました。 福岡県筑前町高上地区にある高さ7メートルあまり、幅36メートル近くにのぼる「掩体壕」 「掩体」は戦時中、敵の空襲から軍用機を守るために造られた格納庫です。 大刀洗平和記念館 尾籠浩一郎館長「当時の戦闘機でいえば2機が入るくらいの広さで、こ の規模の掩体豪はちょっとあまり残っていません」 かつて特攻の中継基地だった大刀洗飛行場の周辺にも数多く造られましたが、終戦から7 8年が経ち老朽化が進んでいます。 大刀洗平和記念館 尾籠浩一郎館長 「コンクリートなので少しでもひびがあればそこから雨水が浸透していって、中の鉄筋を 腐食させるということになりますのでやは
空襲の爪あとなどを残す「戦争遺跡」。多くが開発などで失われつつあります。「物言わぬ語り部」を未来にどう継承していくのか、大きな課題です。 福岡県教育庁文化財保護課 城門義廣さん「こちらが掩体(えんたい)そのものになります」 2023年3月、戦争遺跡として初めて福岡県の文化財に指定された行橋市の「稲童掩体」。「掩体」とは、戦時中に敵の空襲から軍用機を守るために作られた格納庫です。福岡県内では、海軍が今の築城町に建設した航空基地の周辺に50基あまりが作られました。 太平洋戦争中、航空基地と軍事施設があった周辺地域は何度も空襲を受け、50人近くが死亡、稲童地区でも住民6人が犠牲になりました。掩体には当時の爆撃や機銃掃射の跡が今も生々しく残されています。 福岡県教育庁文化財保護課 城門義廣さん「コンクリートを見るとわかりますが、剥落もしている。どういった形で(戦争遺跡を)見せるのかは課題になると思
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事情を知る人物が慰霊祭の会場にいた。福岡市の医師、東野(とうの)利夫さん(89)。「解剖実習室で血の付いた床を流したときの何とも言えん気持ちは、今も忘れられんとです」。事件は1945年5月17日に起きた。 九州帝国大医学専門部(福岡市)に入って間もないころだった。教授の手伝いで解剖学教室に詰めていると、目隠しをされた白人2人が護衛兵に抱えられ、実習室へ入っていった。 気になってのぞくと、麻酔で眠る一人が解剖台に横たわり、白衣姿の約10人に囲まれていた。陸軍将校が説明する。「この捕虜は無差別爆撃をやったB29の搭乗員である。傷は落下傘で降りてきたときに村民から猟銃でやられたものだ」 メスで肩から胸にかけて切開された。ポキポキという音とともにあばら骨が切り取られていく。赤紫の臓器が取り出された。「人間は片肺でも生きられる」。執刀医の声が聞こえた。中座して戻ると息絶えていた。 もう一人の手術が始
福岡市内の小さな神社の敷地にある防火水槽から3月下旬、不発の焼夷(しょうい)弾14本が見つかり、陸上自衛隊の不発弾処理隊が出動する騒ぎがあった。現場は地下鉄駅に近い幹線道路沿いで、周辺にはマンションなどが建ち並ぶ。幸い爆発せずに回収されたが、なぜ重い鉄製のふたで閉じられた地下水槽の中に不発弾があったのか。周辺で話を聞くと、空襲が激しさを増す太平洋戦争末期の暮らしとのつながりが見えてきた。 不発弾騒動があったのは同市中央区今川にある平野神社。きっかけは1本の電話だった。3月18日午後3時ごろ、市民から市消防局中央消防署に「平野神社の防火水槽に不発弾のようなものが沈んでいるのを思い出した」と通報があった。この市民は「地域の先輩からずいぶん昔に聞いた話で危険はない」と説明し、時間があれば確認するよう勧めたという。
福岡県警は22日、福岡市中央区今川の「平野神社」境内の防火水槽から不発の焼夷(しょうい)弾14本が見つかったと発表した。現場に派遣された陸上自衛隊の不発弾処理隊は爆発の恐れはないと判断して回収を終えた。 県警や市によると3月半ばごろ、市民から「防火水槽に不発弾のようなものがあるのを思い出した」と市消防局中央消防署に情報提供があった。 同署は20日、神社境内の防火水槽(水深約2・5メートル)に焼夷弾とみられる物体があるのを確認。市が22日午後、県警に通報して同日夜、陸自目達原(めたばる)駐屯地(佐賀県吉野ケ里町)の不発弾処理隊が14本の焼夷弾(長さ40~45センチ、直径8センチ)と特定し、危険性がないことも確認した。防火水槽は市消防局の所有で、どういう経緯で入れられたのかは不明という。
旧日本軍の内地部隊の日々の活動を描いたスケッチ帳が、福岡県小竹町の「兵士・庶民の戦争資料館」に寄贈され、5日から展示される。一人の兵士が所属部隊の様子を描いたとみられ、訓練の場面から寝起きや外出先でくつろぐ姿まで、高いデッサン力で表現されている。同館は「軍隊生活を記録した貴重な資料」としている。 ◇ スケッチ帳は、福津市の諸藤幸枝さん(62)が昨秋、中間市の実家の荷物を整理した折に持ち帰った。亡父の中河原英(ひでし)さんの遺品で、父は生前、「戦友にもらった」と話し、大事に保管していたという。諸藤さんは絵の素晴らしさにあらためてふれて、昨年12月、同館に寄贈した。 スケッチ帳はB4判。最初のページに「中河原様」と書かれ、「西部一六部隊 合志隊 山村鉄巳」の署名がある。山村さんが描いたスケッチ帳を中河原さんに贈ったとみられる。 描かれているのは、戦友の軍服姿の横顔、銃を持っての行軍、川での水泳
旧陸軍施設「振武寮」跡地の前で話す西南学院大の伊藤慎二教授=福岡市中央区で2020年12月2日午後1時33分、矢頭智剛撮影 太平洋戦争末期、機体トラブルなどで帰ってきた特攻隊員を次の出撃まで収容した旧陸軍施設「振武(しんぶ)寮」(福岡市中央区薬院)跡地でマンション建設が進んでいる。振武寮を巡っては戦後、元隊員らが「収容中は生還したことを上官に激しく非難され、暴行されることもあった」と証言している。日本が無謀な戦争に突き進んだ日米開戦から8日で79年。惨禍を語り継ぐ体験者が少なくなる中、戦争遺跡の保存・継承を求める声は各地で高まっている。専門家は、埋もれた特攻の歴史を語り継ぐ必要性を訴える。 振武寮は1945年、特攻作戦を主導した旧陸軍第6航空軍が福岡女学校(現在の福岡女学院中・高校)の寄宿舎を接収して創設。生還した特攻隊員約80人が収容された。特攻部隊の名称「振武隊」が名前の由来とみられる
福岡県筑紫野市の山中で明治期の文楽関係者とみられる「豊竹緑太夫」の墓石を地元住民が見つけた。この一帯は戦時中、旧日本軍の拠点として接収され、墓石の多くは当時、軍が地中に埋めたという。放置され続けた太夫の墓石などが戦後75年を経て、地域住民の手で建て直され、25日に供養祭が開かれる。 見つかった墓石は高さ約1・8メートル。表には「豊竹緑太夫墓」、裏には「明治二十四年旧三月十八日 行年六十才」と刻まれている。緑色片岩とみられ、周辺にはないという。 数年前から地域で進めている公園整備のため、通路を作ろうとしたとき、地元住民の祖先の墓石とみられる高さ50~30センチの墓石があちこちに転がっていた。太夫の墓石はひときわ大きく、斜面にうつぶせに倒れたままで、人力で動かせなかったため、故人の名前までは分からなかった。 ところが今春、近くの元建設業石川栄次郎さん(76)が小型重機でこの墓石を持ち上げ、刻ま
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