海底に沈んでいた旧日本軍の航空機を展示する「引き揚げられた航空機」展が23日から、福岡県と鹿児島県にある三つの戦争資料展示館で同時開催される。会場は福岡県筑前町立大刀洗平和記念館と鹿児島県南九州市立知覧特攻平和会館、同県南さつま市立万世(ばんせい)特攻平和祈念館で、いずれも特攻出撃の拠点になった旧陸軍飛行場の一角にある3館が初の連携展示を企画した。戦後75年の節目に特攻基地と引き揚げられた航空機のドラマを紹介する。 ◆大刀洗平和記念館 大刀洗飛行場は大陸への中継基地として大正8年、陸軍によって現在の筑前町、大刀洗町、朝倉市にまたがる地域に建設された。戦艦からの砲撃を避けるため内陸部が選ばれたのだ。その後、西日本の戦略拠点としての重要性が高まり、航空機製造などの関連産業が集まる「軍都」に発展。昭和15年には陸軍飛行学校が開設され、西日本一帯に開設された分校は18校にも上った。だが、昭和20年
福岡市博物館で開催中 戦後75年を迎え、福岡市早良区百道浜の市博物館では企画展「戦争とわたしたちのくらし」が開かれている。国威発揚のための衣服や食の節制を呼び掛けたポスターなど約60点が、「戦時下の日常」を映し出している。 企画展は、1945年に2千人以上の死傷者を出した福岡大空襲の日(6月19日)に合わせて毎年開催され、今回が29回目。37年に始まった日中戦争から太平洋戦争にかけて住民の身近にあったさまざまな物を、「装い」「食」「住まい」「お金事情」の四つのコーナーで展示している。 衣服は、綿や絹の原料不足に伴い人造繊維「スフ(ステープルファイバー)」が混ぜられ、主流となった国民服やもんぺのほか、戦車や軍艦がデザインされた羽織や子ども用はんてんが並ぶ。食については、砂糖購入券や価格表、「節米一割」とうたったポスターなど、厳しい統制が敷かれていた状況が見て取れる。 戦争の長期化に伴い、生活
米軍の爆撃により、福岡市で2千人を超える死傷者、行方不明者を出した福岡大空襲を報じた西日本新聞が、福岡市早良区西新3丁目の西日本新聞エリアセンター・シーサイド百道に展示されている。75年前の6月19日深夜、降り注ぐ焼夷(しょうい)弾で火の海と化した福岡の街をどう伝えたのか。セピア色の新聞は、軍の戦時報道体制に組み込まれた新聞の在り方を含め、訪れる人にさまざまな視点で戦争と向き合わせている。22日までで、午前10時~午後5時(21日は午後3時)。入場無料。 社史によると、空襲時、市中心部にある西日本新聞本社周辺でも火の手が上がったが、社員の防火活動によって焼失を免れ、新聞を発行することができた。空襲直後の20日早朝、市内に号外を配布。この日夜には電気が回復し、輪転機で2ページの新聞が刷られた。 展示中の紙面は、この時の新聞だ。1面の見出しは「敵の無差別爆撃激化」。西部軍管区司令部発表を伝える
宗像大社(福岡県宗像市)は、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産への登録が決まった沖ノ島を保護するため、毎年5月に島で開催してきた現地大祭を来年から中止する方針を固めた。原則入島禁止で、年に1度だけ一般の上陸が認められる機会だったが、遺産登録に合わせて運用を厳しくする。 宗像大社によると、大祭は日露戦争の日本海海戦が1905年に沖ノ島近海であり、日本が勝利したのを記念。戦前は本土の宗像大社で式典をしたが、58年からは大社の沖津宮(おきつみや)がある沖ノ島で海戦のあった5月27日に開催し、両国の戦没者を慰霊してきた。 沖ノ島に一般男性の参拝が認められているのはこの日だけで、毎年、全国から公募で選ばれた200~250人が参拝していた。 ユネスコの世界遺産委員会は…
JR小倉駅から車を北西に20分ほど走らせゲートをくぐると赤茶けた建物が並ぶ広大な工場の敷地に入る。その中にネコの頭部が3つ並んだような、ひときわ特徴的な“顔”の建物がある。戦時中の1941年築。当時の表記は日本製鉄株式会社八幡製鉄所戸畑ロール旋削工場。現在は新日鉄住金の子会社の日鉄住金ロールズが管轄、ロール加工工場と呼ばれている。 「工場という制約が多い施設ですが、機能性を追求しながら村野独自の工夫もなされています」 笠原さんは建物の魅力を語る。そのポイントは屋根。 「屋根の構造体をハサミ形に交差させ、その端に斜めの開口部を入れています。部材の数を減らすためでしょう。また開口部を斜めに入れたのも、垂直にする場合より多くの光を内部に取り入れることができるからだと考えられます」 ネコ耳のように屋根の一部が付き出すデザインは合理性にのっとったものだと笠原さんは考える。3つの棟は中央が最も高く、南
1959年、戦時中でもないのに中洲を戦車が走った!いったいナゼ?! ▲ 福岡市中央区警固のギャラリールーモで開催中の「有楽映画劇場秘蔵ポスター展」。 ▲ 北九州市八幡東区前田にある有楽映画劇場(通称:前田有楽)は昭和29年創業で、オープン当初からほぼそのままの状態で営業を続ける映画館です。 ▲ リアルなレトロが残る建物であることから、映画「ALWAYS 続3丁目の夕日」のロケ地にも選ばれた映画館です。 ▲ その前田有楽の倉庫に眠ったままになっていた1960〜70年代の貴重な映画ポスターがギャラリー内を埋め尽くす、という企画展です。 ▲ ポスターの他にも様々な映画関連のレトロな品々が展示され、八幡製鉄所の労働者に娯楽を提供し続けてきた映画館の歴史を垣間見ることができました。 ▲ そして先日2月11日には、元・大映宣伝マン中島賢さんと女優の紺野ユカさんによるトークイベントが開催されました。 ▲
^ 太平洋戦争開戦時の軽巡那珂水雷長[3]、その後は重巡妙高水雷長、駆逐艦芙蓉艦長等を歴任していた[4]。 ^ 五月雨は前年8月18日にパラオのガルワングル環礁で座礁、行動不能のまま8月26日に潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS-310) の雷撃で沈没した[5]。大熊を含めて生存者は駆逐艦竹に救助された[6]。 ^ 戦死(士官2名、下士官兵20名)、負傷(准士官以上2名、下士官兵58名)、撃墜6(不確実3)[30]。 ^ イギリスのアームストロング社で建造された浅間型装甲巡洋艦の2番艦、日露戦争で活躍した[33]。旧式化により機雷の敷設艦に改造され、第四艦隊に所属して太平洋戦争を迎えた[33]。 ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127800, pp.34 ^ a b 軍艦武藏、下巻 2003, p. 390. ^ 軍艦武藏、下巻 2003, p. 556.
大きな地図で表示 香椎軍需品集積所松原倉庫 福岡市東区八田2-35 竣工 1943(昭和18)年 撮影 2013(平成25)年6月 前々回・前回は陸軍松原倉庫引き込み線の廃線跡を辿りました。上図の左のラインは香椎操車場から、右は土井駅から出ていた引き込み線です。 さて3回目はその倉庫について紹介します。『福岡の戦争遺跡を歩く』によると、香椎軍需品集積所松原倉庫は現在の福岡市東区若宮・舞松原・水谷・土井の水田地帯に1943(昭和18)年に設置され、若宮・舞松原に需品廠の倉庫が、土井に糧秣廠と衛生材料廠の倉庫があったそうです。倉庫の規模は1棟300坪で棟数は30~40棟。引き込み線の荷降駅から各倉庫までは馬車で輸送。また、若宮1丁目に軍用犬訓練所が、山頂の神社にかけて及び土井1丁目には朝鮮人の住宅があったとのこと。 _ 終戦後、進駐した米軍がこれらを接収しますが1949(昭和24)年に撤退して
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福岡県那珂川町の人権啓発イベントで町立中学校が上演予定だった朗読劇が、町の判断で中止になった。戦時中の写真をスクリーンに映し、歌などを交えて戦争の悲惨さを伝える劇だった。写真の中に原爆で亡くなった子どもの遺体などが含まれていたことから、町は「幼い子どもらも参加するイベントで衝撃が大きい」と中止を決め、準備を進めてきた学校側も受け入れた。 町や学校などによると、イベントは町などが主催し、町内で6日に開く「第21回人権フェスタなかがわ」。人権啓発、反戦・平和を訴えるパネル展示のほか、ステージでは劇やダンスの発表などもある。 中学生の朗読劇は2年生数人で行い、ステージのスクリーンに第2次大戦やベトナム戦争時の写真を映しながら、説明を加えたり、歌を歌ったりして戦争の悲惨さを伝える予定だった。 映し出す写真には、長崎原爆資料館(長崎市)が「黒焦げとなった少年」「背中一面に熱傷を受けた少年」と題して展
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