長く生きてきて、なんか先が見えてしまった気がする。 自分は憧れの存在にも、人に羨まがられる存在にもなれなかった。 (追記) みんなありがとう。 自分の中でも、どういう感情かわからないから、どんな順番で読むかわからないけれど、なるべく多く読んでみることにするよ。
はてなブックマークのブックマーク数が多い順に記事を紹介する「はてなブックマーク数ランキング」。7月29日(月)~8月4日(日)〔2024年8月第1週〕のトップ30です*1。 順位 タイトル 1位 新卒の子に「とりあえずこれ」と伝えたら生産性が10倍になったメモ(なのに1万字越え)|やまだくにあき 2位 「クレカを止めても不正利用が止まらない」のメカニズム【鈴木淳也のPay Attention】-Impress Watch 3位 とある博物館の売店を運営することになった話 – icoro 4位 夫の作る麻婆豆腐が絶品 5位 全部ア段にすると古典インドっぽくなる言葉 6位 【読書感想】「叱れば人は育つ」は幻想 ☆☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言 7位 「黒字、出ちゃいました」 独立から半年、デイリーポータルZの今 林雄司に聞く (1/4) :: デイリーポータルZ 8位 スイカはこう切って!種が一気
人間にとって良い価値観を保つために社会を存続させるべき、みたいなブログ記事を読んでいて思ったのだが、 「こんな高いレベルの社会規範になんか従ってらんねぇよ」っていう人々の意識が、社会の存続に疑問符をつける反出生主義に肯定的な気持ちを生み、同主義の台頭に繋がっているのかとも思う。 つまり、高すぎる社会の理想に嫌気が差しているその気分が、反出生主義傾倒への主原因なのだと推論する。 反出生主義を主張する人々って本当は、社会規範の押しつけを辞めてくれ、と言いたいだけなのかもしれない。
・死にたいと思い始めたら、それは「死にたい」じゃなくて「逃げたい」なんだと頭の中で繰り返す。 ・誰かに批判されて苦しくなったら、「私は私のことが好き」と頭の中で繰り返す。 ・わけわからないまま不安に襲われたら、全てに「ありがとう」と思って不安感を抑圧する。 ・個別的な不安(明日の仕事のこととか)は、その不安な考えを落ち葉にくるんで、川に流すようなイメージを考える。 ・近い時期の不安は10年後を考える。おそらく乗り越えられていると安心するようにする。
もう既に使い古された有名な表現(クリシェ)を適切なタイミングで挟みながら会話したい。 だって、私が新しい言葉を考え出さなくても十分なくらい、面白い言葉や表現は多数開発されているのだ。 それらをいくつか吸収し、それらを適切に会話に放てば、たぶん「なんか面白い」ことは言えるはずなのだ。 素人である私が新しい言葉を考えて笑わそうとしても、それは車輪の再生産になるはずで、 一昔前の流行語やCM動画など、しょっちゅう見返して、「あっ、新しいな」と思ったら、会話で使ったりしてる。 また、一方でクリシェで話すのには、自分の考えを隠すという役割もある。 他人がよく使っている表現だけを使えば、私の偏用する用語や言い回しから、私の指向性を隠すことができる。 だから、目標は「クリシェだけで話したい」なのだ。 私はクリシェを操るだけで、私自身の言葉を放たない。 そのクリシェをどう選ぶかに、その人の個性が現れるって
それは、乗車時にどこまで行くのか決めなくてよくなったことだ。 切符だと、目的地を決めてそこまでの切符を予め買っておく必要があるが、ICカードなら到着時に精算であり、その必要は無い。 ICカードだと、いわば、目的地に関する「シュレディンガーの猫」状態が味わえるのだ。 私は電車乗るの大好き人間だが、乗車時にどこどこまで行くと決めておかなくても、 気が向いたらどこまでも乗れる自由さが、ICカード化による乗車側の最大のメリットだと思う。 今日もふらっと、銚子まで向かっている。 夏のような暖かさが窓際から差し込んで、心地よい。
私はスポーツガチ勢ではないが、夏は毎日スポーツウェアを着用している。 具体的には、上はサッカー用のプラクティスシャツ、下は陸上用のスパッツ+薄い短パンを履いて生活している。 理由としては、それらが吸汗性・速乾性に優れ、ものによっては冷感まで感じることができ、湿気多い夏を少しは快適に過ごせるからだ。 また、単純にかっこいいというのもある。スポーツウェアは原色中心の色彩が強めであり、暑さで凹んだ気分が少しはアガる。 これも夏を乗り切るのに重要なことだ。 でも、スポーツウェアを非スポーツの場面で、特に暑さ対策として着用するという習慣を寡聞にして存じ上げない。 なので、世の中でもっと流行ると良いと思い、増田で提唱してみる。 今は、世の中に定着していないので、この格好で外に出るには、(本当に運動しようとしているとき以外)やや抵抗がある。 でも、本当に快適なので、個人的には普段のお出かけでもスポーツウ
歴史が苦手だったのは、こんな昔のイベントや用語を覚えて、いったい何になるんだ?と思ったからだった。 そして、個々の知識が細かすぎて、解くべき問題に結びつくまでが遥か遠い、とでも言うべき感覚が嫌だった。 知識をいくつも覚えて、それらを組み合わせてようやくたった一つの答えがわかる。 しかも、それも知ってるか否かだけ。私個人による創意工夫の余地も無い。端的に面白くない。 それらをもどかしく思っていたのだ。 まとめると、歴史は、覚えることのコスパが悪い知識であり、私個人を疎外する教科だと感じていた。 その点で、数学の知識、つまり、公式は一般性を持つので適用範囲が広いし、私の創意工夫も生かせる。 だから、数学は大好きだった。 公式はひとつ覚えれば、多くの問題に適用できるのだ。覚える個数としても、そんなに多くない。 だから、ビジネス書に書かれた格言が多くの応用と工夫の余地を期待されるように、 私も適用
宗教的聖人を決める際には、わざと対象者の悪口を言って、その議論を深める役となる「悪魔の代弁者」というシステムがある。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E4%BB%A3%E5%BC%81%E8%80%85 これに対し、私は「天使の代弁者」となることがよくあるなあ、と最近気づいた。 どういうことかというと、例えば、誰かの悪口で盛り上がっている場で、私は「そんなことないですよ。 ○○さんは、こういう良いところもあるんですよ」と、良いことを言いがちな傾向があるのだ。 いや、これは別に、一人だけ良い子ちゃんをやってるというわけではない。 単に、先の「悪魔の代弁者」と同様、話を盛り上げるためにやっている役割に過ぎない。 私自身、その「良いところ」が悪口の反論になるとはあまり思っておらず、どちらかというと、話に混ざり
鉄道網の維持は国力の基本となるものであり、地方の切り捨てとならないよう、国は支援を行う必要がある。 その地域の方々も、鉄道の復旧を象徴的な意味で願っているはずだ。 復旧すれば、復興を待ち望んだ人々が多数集まり、路線の赤字自体も緩和されるはず。絶対に廃止してはいけない。 というか、そもそも赤字路線で何がダメなのか。国有化して、国民の税金で幅広く穴埋めすればいい。 反発もあるかもしれないが、一人あたりで見れば安く済む。その一方で、地域自治体の負担はかなり軽減できる。 復旧すれば、私もまたあの路線に乗りに行くつもりだ。そうしたら、復興地域の地域経済にも色々と貢献したい。
他人のことを「経理の人」「困ったときに頼る人」みたいに認識してしまうため、他人の名前が覚えられなくて困っている。 (職場では、相手の首にかかる職員証を視線動かさずに見ることで、何とか対応してる。) というか、そもそも論だが、なんで他人には、私が把握する概念(or機能)に即した名称が付いていないのだろう。 例えば、あの「○○さん」は、本当の名前が「経理の人」だったら、私が個体を認識するのに、なんて便利なことだろう。 私の認識する概念と名称が一致して、非常に覚えやすい。 まあ、そんなことが無いのは当たり前だとわかってはいるんだが。 しかし、そんな(私にとって)機能的でない名前なんて辞めればいいのに、改名すればいいのに、 と、毎日親切にしてもらったりしながらも、心の中ではこっそり腹立だしく思ってたりする。 だって、自分の中のプロトコルとして、他人だってプログラムのように、概念や機能が認識できるよ
最近ニュースで「○○は△△と主張している」という言い回しをよく聞く。 そのたびに、この「主張」は正当性が無い言動なんだな、と言外に込められている意味合いを感じるわけだけど、 「主張」って言葉は、元々からこういう使い方してたんだっけ? 元々の「主張」っていう言葉は、「青年の主張」的な、強いメッセージ性を持つ言動のことだと思ってたんだけど、 最近の「主張」という言葉の、正当性の無い言動を揶揄するような使い方って、いつ頃から生まれてきたんだろう。 「主張」って言葉のベースが、メッセージ性の強さじゃなく、正当性の無さになったのは、いつ頃からなんだろう。 (追記) 正当性の有無とは関係なく、端的事実としての表現なのでは。是非の判断とは距離をおいた中立的な表現として解釈している。 うーん。 「是」とする場合は、普通「主張している」なんて表現を使わないと思うので、個人的には中立的表現とは思えんのよね。
某記事で、とある県では、小学校の修学旅行がそもそも無いのだと知った。 それなら他県でも、修学旅行が無くても良い気がする。 修学旅行は中学校でも行くわけだし。 というか、そもそも教員に多大な負担をかけてまで、修学旅行は実施する必要があるのかという問題もある。 修学旅行を実施すると、教員は自宅を空けなくてはいけない。家庭を持つ女性教員にとっては特に悩ましい問題だろう。 また、最近は教員志望者の減少が問題になっている。 部活動や修学旅行といった教員の時間外労働を必要とする校内行事は、教員に負担を強いる=志望者を減少させる可能性があってでも必要なのか、そろそろ考え直すべきに思う。 それに正直、うちの子が旅行行くなら、家族で行けばいいやと思ってるわけ。 それより、教員志望者が減って、十分なレベルの授業が受けられなくなる方が脅威。 教育を受ける方も、何が本当に必要なサービスなのかを規定して、それをより
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