【ウェブ限定】朝ドラ「あんぱん」ヒロインの今田美桜さん「暢さんは天真らんまん。自然とやなせさんを引っ張っていたのでは」 記者会見で「ドキンちゃんポーズ」も
ブラジル勝ち組機関誌『輝号』(復刻版、不二出版、2012年)を読んでいて、妙なことに気がついた。 同誌、昭和26〔1951〕年7月号から昭和28〔1953〕年2月号(=終刊号)まで、奥付横のページに、サンパウロにあった「遠藤兄弟商会」というレコード屋が、毎月の「新譜」広告を出している。しかしその中に、どう考えても戦後のレコードではないものが混じっているのである。 一番わかりやすいのが、昭和27〔1952〕年8月号のこの広告だ。 「8月発売傑作盤」と銘打たれた「新譜」の、キングレコードのコーナーを見て欲しい。レコード番号2808に『紀元二千六百年』(A面:永田絃二郎&長門美保、B面:キング管弦楽団)が載っているのである。が、サンフランシスコ講和条約発効後であるとしても、『紀元二千六百年』なんて奉祝国民歌をキングレコードが再発するだろうか? キングレコードの1953年の目録を調べてみたが、この
坂本典昭『福祉行政最前線』高輪印刷株式会社、1990年。 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I025774932-00 13日に亡くなった私の祖父は、いくつかの書物を自費出版しています。そのうちの一つは、市役所での仕事を中心にした自分史のようなものになっています。これは老齢に達した人がよく書くジャンルではないでしょうか。その本の冒頭部に、1945年8月6日以降に関する記述があったので、ここに抜き書きしておきます。私には興味深い証言に思えました。この時、坂本典昭は江田島の海軍兵学校にいました。 そして、運命の日、あの悪魔の火の爆発が8月6日午前8時15分、広島で爆発いたします。 江田島の生徒館の中庭で体操を終わり、直立していた小生、ピカッとマグネシュウムを焚いたような閃光と、熱風の風圧を首に受けて思わず首筋に手をやります。 ガラガラと生徒館の雨樋が崩
橘玲氏がこんなことを書いています。 日本では南京大虐殺について詳細な検証が行なわれており、旧日本軍による蛮行を認める戦史研究家でも、陥落時の南京城内の人口が20万人程度だったことなどから、死者30万人の“大虐殺”を史実とはみなしません。しかしそうした研究はほとんど英語に訳されることはなく、一部の現代史の専門家を除けば欧米ではまったく知られていないのです。 http://www.tachibana-akira.com/2012/10/4879 南京事件についてまともに調べたことのある人なら、南京事件当時の南京人口20万人説がデマであることは当然知っているでしょう。 そもそも中国が30万人の犠牲者が出たとしている範囲は南京城区だけでなく周辺4県半を含んでおり、その人口は優に160万人に達します。南京人口が20万人だったという説は、当時南京難民区を管理した外国人が難民区の人数を概算した人数に過ぎ
エントリタイトルで引用したように、連合軍向けの慰安施設RAAにまつわるデマだが、tumblrやtwitterで拡散しているらしい。 もともと2ちゃんねるに書き込まれ、まとめサイトに採用された匿名の主張にすぎず、根拠も提示されていない。 http://blog.livedoor.jp/newskorea/archives/1723366.html それが下記tumblr等に転載されて広まっているようだ。 http://laft.tumblr.com/post/32572680025/ghq 日本の戦後、 多くの子女がGHQの米兵にレイプされる事件が頻発したため、... しかし、エントリタイトルでも簡単に説明したように、RAAは1945年8月18日に日本政府が開設するよう指示していた。連合軍が進駐したのは8月24日だから、GHQの米兵が婦女暴行事件を起こしたため開設したという主張は時空がねじれ
週刊ポストの与太記事を真に受けた低リテラシー層によって「NHKクローズアップ現代が毎度の捏造!」と捏造が拡散されている(呆 週刊ポスト2012年10月12日号 NHK「特攻隊員の遺書1000通新発見」に遺族が大困惑 2012.10.05 http://www.news-postseven.com/archives/20121005_146878.html <1000人を超える隊員の遺書が回収され、そのままになっていたことがわかりました。これらの遺書は、特攻隊員の遺族に対する調査で集められ、海上自衛隊の倉庫にしまい込まれていたのです>。 “歴史的新事実”を印象づけるナレーションとともに、番組は始まった。NHKが8月28日に放送した『クローズアップ現代』は、海軍の特攻作戦に参加した隊員の遺書1000通あまりが、広島県江田島市にある海上自衛隊第1術科学校から「突然出てきた」として、遺書を回収した
「独山二一もう一つの戦争」溝部一人、P71 ところで、連隊長以上の高級将校の性はどのように処理されていたのだろう。例えば、部隊が第六師団配属下で、石城湾東地区附近に警備してたころ、大沙坪で団隊長会議があった。これがいわゆる井上旅団長の温情のもとに、管内の連隊長のために設けた「ピー買い会議」であった。(戦後原田連隊長が山口静一氏に話された) 前線ではこうした機会が利用されたし、また後方になると、内地から調度品ごとそっくり運び込んだ料亭の芸者と仲居が、高給軍人たちの”高給慰安婦”として、昼夜をとわず”会議”の名目のもとに、その務めを果していた。 一例をあげると、漢口には将校用料亭として、日本料理店三軒、中国料理店一軒。ここには接待婦(芸妓−といっても芸妓と娼妓の二枚鑑札)をおいてあって、その数二十四〜五名ほど。このほか日本租界に、軍司令部は副官部直轄として高給料亭「曙」と「喜楽」をもっていた。
「今村均回顧録」(芙蓉書房出版、昭和45年5月15日第1刷、昭和63年3月30日改題第9刷発行、P326-328) 慰安所 南寧方面に新設された、第二十二軍司令官に補職された久納中将は、二月中旬、その官舎としている家に、私と桜田近衛旅団長を主賓とし、軍の幕僚各部長ら総数二十名ぐらいを招き、夕会食をやった。軍司令官に就任の披露を兼ねたもの。 話は大部分、安藤軍のやった大攻勢に関するものであり、その後は雑談に移った。同席していた軍の管理部長が、次のようなことを云いだした。 「話は下がりますが、きょう自動車で十五名ほどの抱え主につれられて、百五十名の慰安婦が到着し、軍管理部で、家屋の都合はつけました。全部を南寧に留めておいてよいか、近衛部隊は南寧から八キロも離れた部落におりますので、そちらには何名ほど移らせたらよいか、ご決定を願い、その方の設備は桜田旅団でやっていただきたいと存じております」 す
「アゴラ」で石井孝明氏*1が『慰安婦と戦場の性』の書評を書いていたのだが、色々と目を疑った。 http://agora-web.jp/archives/1486690.html 内容は『慰安婦と戦場の性』から、開き直りに利用できる部分をつまみぐいしているだけで、目新しくはない。 日本人が朝鮮から女性を狩り集めたという嘘の証言をした吉田作治が、それを嘘と認めた電話インタビューも掲載されている。 ……「吉田清治」の誤記だろうか。 読むと、「慰安婦問題」とはいったい何なのかと、徒労感、無力感を抱く。何でこれが政治問題になるのかが分からない。 政治問題となることを当然と考える論者の主張と読み比べなければ、状況が理解できなくて当然だろう*2。 前後するが、石井氏は書評で書籍内容を要約している。一部を引用しよう。 女性が騙された例は多くあった。当時はいわゆる前借金を渡され返済するという形で事実上の人身
大正から昭和にかけての雑誌や絵本などに登場するイラストレーション。 その時代の雰囲気を伝えるレトロな感じのイラストレーションを紹介させていただけたらと、考えています。 座談会に出席の子供たちの発言から、 当時の子供たちの戦争に対する認識が伺えます。 大東亜戦争はどうして起こったか 平櫛少佐をかこんで 大東亜戦争を勝ち抜くお話會 (少年倶楽部 昭和17年12月号掲載) 大東亜戦争一周年に際して 少国民の方たちに 内閣総理大臣 東条英機 関連記事 画像をクリック ………………………………………………………………………………………… 江田島 遠い記憶 終戦記念日特集 2 二十年ほど前のことです。神田の古本屋で"Far the memories" と書いてある茶色く焼けた袋が…… 114 番外編 ………………………………………………………………………………………… 日米戦争への予感 終戦記念日特集
歴史学においては一次史料を中心に書くのが基本である。 とは言っても一次史料がほとんどない分野が存在する。中世の北海道史はその典型例だろう。いきおい編纂物である『新羅之記録』に頼ることになる。しかし残念ながら『新羅之記録』の信憑性は非常によくない、と近年の研究では指摘されている。しかし『新羅之記録』は一種の麻薬みたいなもので、使い出すと止まらないのだろうな、と思っている。その典型例として私はこの五年ほどやり玉に挙げているのが「下国安藤氏十三湊還住説」である。 『満済准后日記』に永享四年に下国安藤氏が没落した、と書いてあり、『新羅之記録』には嘉吉二年に没落した、と書いてある。この両者は年代以外はそれほど齟齬がない。双方とも基本的な出来事は南部氏と下国安藤氏が争って、下国安藤氏が敗北し、北海道に逃亡した、ということである。これだけを見れば、一次史料である『満済准后日記』と編纂物である『新羅之記録
まず一般論として、匿名の編集者が雑多に情報を集積させるため、Wikipediaの歴史認識項目は情報源として信頼をおくべきではない。 以前から何度も主張しているが、とりあえず信頼できる最低限の情報として、既存の百科事典から引くサイトを活用するべきだ。 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=00683300 かつて、主に戦地で将兵の性の相手をさせられた女性。 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6/ 旧日本軍の海外駐屯地で兵士たちの相手をさせられた女性。娘子(じょうし)軍ともよばれ、占領地の婦女子に対する兵士たちの暴行行為を防ぐ意味も
室町時代の津軽道南地域に関わる史料は少ない。以下に掲げる史料は、数少ない室町時代の津軽地域に関する史料とされている史料である。 政所内評定記録(『室町幕府引付史料集成』) 寛正四年 四月十五日、内談 (中略) 一 武田被官与一色左京兆被官相論舟荷物事 於舟者盗物沽却云々。召上彼訴論人可被遂対決。至荷物者、彼船頭負物在之間押取云々。所詮、舟之荷船頭之計哉否、自余之津湊例相尋之、可依左右。 本ー清泉 合ー治河 四月廿六日、内談 (中略) 一 武田○〈被官〉与一色左京兆被官若州小浜住人等売買船相論事 売主有現在者、不日被召上、可有糺決云々。 本奉ー清泉 合ー治河 六月二十六日、内談 (中略) 一 武田被官与一色左京兆被官申舟荷物事 十三丸〈大船、〉事者、重格別之上者、於小浜立請人、先被返渡、相論枝舟事者、仰豊前守護、可被召上売主。 本ー清泉 合ー治河 寛正四年に室町幕府政所に提訴された訴訟の記録
インターネット検索すると上位に出てくるサイトであり、よく日本軍を正当化する根拠として持ち出されているのだが、その内容は十数年前の歴史研究の水準にすら届いていない。 単に誤っているというよりも、従軍慰安婦問題について理解していないため、意図せず歴史学における通説の正しさを認めてしまっているのだ。 まず、小野田寛郎元少尉の『正論』記事が、下記ページで流布されている。 �¬–ì“cŠ°˜Y�uŽ„‚ªŒ©‚½�]ŒRˆÔˆÀ•w‚Ì�³‘Ì�v 靖国神社や南京大虐殺と同様に「全く理由のない他国からの言いがかり」と主張しているのだが、逆に他国からの批判を補強する証言資料となっている。 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。 私は
軍関与を明らかにした史料が発見されるより前、1990年6月6日の参議院議事録に、従軍慰安婦への言及が存在する。当時の政府が持っていた認識と、問題視する側の意識がうかがえる。 参議院会議録情報 第118回国会 予算委員会 第19号 ○政府委員(清水傳雄君) 従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております。 この政府委員による主張は、吉見義明『従軍慰安婦』でも一部が引用されている*1。 まず、当時の日本政府が民間業者へ全ての責任を押しつけつつ、政府による調査を拒否していたことがわかる。未調査であるのに民間業者が行っていたと主張していること自体、責任回避を優先した態度というこ
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