タグ

歴史に関するcomzooのブックマーク (211)

  • 日露戦争と歴史の真実 ─『坂の上の雲』ではわからないこと一 山田朗 講演会記録

    日露戦争歴史の真実 ─『坂の上の雲』ではわからないこと一 2009年12月5日ねりま九条の会総会にて 講師  山田 朗さん 山田朗さんのプロフィール 1956年 大阪府豊中市生まれ。 明治大学文学部教授(史学博士) 専攻は日近代史・日軍事史・天皇制論。『大元帥・昭和天皇』で 第20回野呂栄太郎賞を受賞。 主な著書に、『昭和天皇の戦争指導』(昭和出版, 1990年)『大元帥・ 昭和天皇』(新日出版社, 1994年)『軍備拡張の近代史——日軍の 膨張と崩壊』(吉川弘文館, 1997年)『歴史修正主義の克服——ゆがめ られた<戦争論>を問う』(高文研, 2001年)『昭和天皇の軍事思想と戦 略』(校倉書房, 2002年)『護憲派のための軍事入門』(花伝社, 2005 年)『戦争の日史20 世界史の中の日露戦争』(吉川弘文館, 2009年) はじめに 今日は

    comzoo
    comzoo 2011/12/05
    “その時代に生きていた人の価値観と感性だけで、その当時の歴史を見ようとする、同時代史的な把握でしかないのです。植民地支配の問題などは当時の人には見えていないのですから、出てこないのです。”
  • 北平近郊における通州事件直前の日本軍による虐殺事件 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    「日人は差別されているという右翼の言い分もまた、きちんと聞かなければならないということだな」*1と言われたからではありませんが、主に南京事件否定派が「中国人による日人虐殺」と大騒ぎしている通州事件について、これまで結構調べてきました。 今回調べたのは、通州事件当時、通州近郊の状況はどうだったかのか、と言う点。 軍事行動については通州事件/通州(通県)起義の背景に記載しましたが、それ以外の部分です。なお、通州事件の際に通州だけではなく、順義でも保安隊の反乱が起こっていたと言う記述が寺平忠輔氏の「盧溝橋事件」にありますが、これ以外では見かけません。これについては要調査というところです。 さて、調べてみると、日軍は北京包囲の態勢を作る過程で進行路上の住民を少なからず殺害していることがわかります。 1937年7月27日 大興区 大興区は北京南方にあり、総攻撃時の主戦場となった南苑のすぐ西南部

    北平近郊における通州事件直前の日本軍による虐殺事件 - 誰かの妄想・はてなブログ版
  • 沖縄タイムス | 元兵士と牛島中将の孫、沖縄戦の実相語る

    元兵士と牛島中将の孫、沖縄戦の実相語る 社会 2011年11月24日 10時42分Tweet(22分前に更新) 【京都】日中戦争や沖縄戦の最前線で陸軍兵士として戦った三重県桑名市に住む近藤一さん(92)と沖縄戦司令官、牛島満中将の孫で平和学習に取り組む東京都大田区の教師、牛島貞満さん(58)の講演会(主催・沖縄平和ネットワーク・関西の会)が23日、京都府左京区の同志社大中学・高等学校魁ホールで開かれた。戦場体験を基に下級兵士の「加害と被害」を証言した近藤さんに、牛島さんは「牛島満と沖縄戦」をテーマに考え、追い続けた沖縄戦の実相を語った。 20歳で中国山西省の部隊に入隊した近藤さんは生きている中国人捕虜を銃剣で突き刺す訓練を受け、「人間を殺すことがなんでもなくなった」という当時の状況を説明した。中国では「略奪や強姦(ごうかん)、破壊など悪いことを全てやった」と述べ、「まさに日兵は東洋の鬼だ

  • 通州事件の政治利用の始まり - 誰かの妄想・はてなブログ版

    通州事件に関する情報が通州外に届いたのは、7月29日正午ごろ日軍偵察機による報告が最初と見られます。しかし、29日中は航空機のみの情勢把握が行われただけで、ある程度の詳細が知れるのは翌30日午前1時半ころの通州城内の日軍守備隊との通信によってです。 この通信も無線通信で情報量には限界があり、そもそも日軍守備隊が兵営から出られない状況でしたから、居留民の被害についてはほとんどわかりませんでした。 居留民被害について明らかになるのは7月30日の夜明け以降で、通州外部からの救援が到着するのは30日午後4時になってからです。 報道機関が被害状況を現地取材したのは8月2日以降で、取材結果が報道されたのは8月4日以降です*1。 通州事件の詳細がまだ報道されていなかった8月2日、以下のような通信が上海の日大使館付武官から発せられました。 通州事件其他に関する報道の件 【 レファレンスコード 】

    通州事件の政治利用の始まり - 誰かの妄想・はてなブログ版
  • モンテ・カッシーノの戦い - Wikipedia

    1943年9月、連合軍イタリア方面総司令官ハロルド・アレクサンダー指揮の第15軍集団はイタリア・サレルノ上陸作戦(アヴァランチ作戦)ののち、イタリアの“背骨”を形成しているアペニン山脈の東西両側からそれぞれ北方へ進撃した。西側戦線では、マーク・ウェイン・クラーク中将指揮のアメリカ第5軍がナポリからイタリアの“ブーツ”を北上し、東側戦線では、バーナード・モントゴメリー大将のイギリス第8軍がアドリア海沿岸を進軍した。 第5軍は、困難な地形、悪天候および熟練したドイツ軍の抵抗により、進軍が遅れていた。ドイツ軍は、最大のダメージを与えるよう設計・準備された陣地から戦闘を仕掛けては退き、ローマ南方の守備陣地グスタフ・ラインを建設するための時間を稼いだ。当初、ローマは1943年9月には陥落すると見込まれていたが、それは楽観的すぎた。 アドリア海沿岸のイギリス第8軍はグスタフ・ライン東側を突破し、オルト

    モンテ・カッシーノの戦い - Wikipedia
  • 第442連隊戦闘団 - Wikipedia

    第442連隊戦闘団[2][3][4][5](だい442れんたいせんとうだん、英: 442nd Regimental Combat Team)は、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍が有した連隊規模の部隊である。士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成されていた。ヨーロッパ戦線(英語版)に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られる[6]。 第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。 ロサンゼルス東南東、ボイル・ハイツ(英語版)にあるエバーグリーン墓地(英語版)には、442連隊を含め日系二世兵の墓石がならんでいる。墓地の後方正面に立つ大きな白い大理石の塔には大きく漢字で「殉国碑」、その右下には同連隊を指揮したマーク・W

    第442連隊戦闘団 - Wikipedia
  • 小学館『日本の歴史』の凄さについて少し - 法華狼の日記

    下記コメント欄を見て、[twitter:@SF_yomi]氏の主張に異論をおぼえた。 小学館の学習漫画『少年少女日歴史』の凄さ - Togetter でも庶民が貴族の生活史学んでも意味無いと思うんだよね。儒教的に偉い人の生活は偉いって時代でも無いと思うし。誰が何をしでかしたかを知って置けば良いとも思うんだけど。 SF_yomi 2011/05/18 13:09:31 貴族社会をそうやって「良い物」かのように認識させちゃうのはどうかなって思うんだよね。あと歴史で物凄く気になってるのが、欧米だと「ペスト」とか優れた作品が有るけども。 SF_yomi 2011/05/18 13:11:32 日の場合祇園祭は疫病が流行ったから始まった。とか数行で終っちゃうんだよね。東日の津波とかもそうだけど、一般人にとってはそっちの方が重要な歴史だと思うんだ。そこに政権の邪魔が何如にからんでるのかって視点

    小学館『日本の歴史』の凄さについて少し - 法華狼の日記
  • asahi.com(朝日新聞社):「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見 - 文化

    印刷 上の方に「日」の文字が見える。「最古の日」の可能性が高い=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から  中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考えられるとしている。日と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が物ならさらにさかのぼることになる。  中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。  百済を救うために日は朝鮮半島に出兵した

  • 『日本海軍400時間の証言』 - Apeman’s diary

    NHKスペシャル取材班、『日海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』、新潮社 関連エントリ: http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090809/p2 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100829/p1 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100906/p1 09年に放送されたNHKスペシャルの取材班が取材のいきさつや舞台裏、番組に盛り込めなかった発見や作り手サイドの思いなどについて書いた。戸田一成氏が編集した『[証言録]海軍反省会』がPHPから出たことについては「まあそんなところか」と思ったが、NHKの出版部門ではなく新潮からこのが出たというのはどういういきさつによるものだろうか。その手の事情に通じていないので……。まあ新潮が好みそうな題材とは言えるだろうし、スタッフの個人的な思いが前面に出

    『日本海軍400時間の証言』 - Apeman’s diary
  • 産経は「シベリア抑留」という通称に何の疑問も持たないのだろうか? - Apeman’s diary

    産經新聞水準で評価しても、これは相当間抜けな記事の部類に入るのではないだろうか。 msn産経ニュース 011.9.26 「赤の広場で 「捕虜」とは何事か」 ロシア仕事をしていて許せないことの一つは、第二次大戦後にシベリアなど旧ソ連各地に強制抑留された日人をロシア人の多くが「抑留者」でなく「捕虜」と称することだ。一流大学を出た若手の日専門家なども例外ではない。 なにが気に入らないのか、まったくわかりません。日軍が内輪向けに「降伏しても捕虜じゃないからね」と強弁したという事実はありますが。戦時国際法が「捕虜」に保障した権利など降伏した日軍将兵にはなかった、と強弁したいのでしょうか? そもそもソ連の「対日戦争」自体が不当な一方的侵略だったのだから、「捕虜」の用語は全く不適切だ。強制抑留は、武装解除後の日将兵を速やかに帰還させるとしたポツダム宣言に明白に違反する行為でもあった。 「一方

    産経は「シベリア抑留」という通称に何の疑問も持たないのだろうか? - Apeman’s diary
  • 新選組:局長、近藤勇直筆の掛け軸 京都市内で発見 - 毎日jp(毎日新聞)

    幕末の京都で活躍した新選組局長、近藤勇(1834~68)直筆の掛け軸が京都市内で見つかったことが分かった。「英雄」をテーマにした自作の漢詩で、近藤が活動資金調達のために豪商などから金を借りる際にお礼として書いたものと見られる。近藤直筆の掛け軸は数点しか見つかっておらず、近藤の人間像を知るうえで貴重な発見という。 掛け軸は縦196センチ、横63センチ(書は縦136センチ、横60センチ)。同市内の美術店が08年に大阪府内で入手して所蔵していたものを今月、広島県尾道市の医師が購入した。幕末を中心とした歴史博物館「霊山(りょうぜん)歴史館」(京都市東山区)に持ち込まれ、木村幸比古・学芸課長(幕末史)が筆跡や落款(らっかん)などから真筆と判定した。 書の詳しい内容は未解明だが、「英雄」に対する心情を披露し、最後に「剣客士 近藤書」と書かれている。 木村課長によると、近藤らが関東から入洛(にゅうらく)

  • 404エラーページ|神戸新聞NEXT

    トップ 新着 地域 社会 事件・事故 経済 スポーツ カルチャー 教育・子育て 医療 連載・特集 地方行政・選挙 全国・海外 動画・写真 オピニオン

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    ビールとポップコーンと映画 ラストマイルを見た。良い映画だった。 映画館でべそべそ泣いて、鼻を啜りながら車で帰った。感想はこのブログでは書かない。みんな映画館に行って感じてみてほしい。 帰ってからツイッターで感想を漁り、うんうん、わかるわかる、そうだよね、とまた映画を思い出して…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
  • 主張/「満州事変」80年/戦争の誤り繰り返さないため

    1931年(昭和6年)9月18日の深夜でした。当時「満州」と呼ばれた中国東北部の奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)で、南満州鉄道の線路を日軍(「関東軍」)が爆破、中国軍の仕業だとでっち上げて軍事行動を始め、満州全土の制圧に乗り出したのです。 「満州事変」は、日中全面戦争やアジア・太平洋戦争につながる十五年戦争のきっかけであり、第2次世界大戦にも道を開く侵略戦争です。80年の節目を迎え、二度と誤りを繰り返さない、歴史の教訓をくみ出すことが重要です。 国際的に孤立した日 「満州事変」が、「満州」から内モンゴルにかけ、当時「満蒙」と呼ばれた中国の領土を武力で占領しようとした、日軍の計画的な軍事行動だったことは明白です。「満州」の南部に駐留していた日軍は当初「満蒙」の併合を目指しましたが、国際社会の批判をかわすために「自治独立運動」を偽装、翌32年に、かいらい国家「満州国」を

    comzoo
    comzoo 2011/09/19
    “「満州国独立支持」の共同宣言(32年)まで出したマスメディアの責任は深刻”<「批判的な事書くと特高にしょっ引かれる」時勢だった事も併せて伝えていかねば。その上で「仕方無かった」で済ませてはならない。
  • 満州事変80周年の集い:中国残留孤児の小原さんと中原さん、強く訴え /高知 - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇あの現状を決して忘れない 二度と繰り返さないように 満州事変の発端となった柳条湖事件(1931年9月18日)から80年。中国残留孤児らの当時の体験を聞く講演会「満州事変80周年の集い」が17日、高知市町5の高知市民図書館であり、高知市在住の小原茂さん(78)と中原民子さん(78)が「あの厳しい現状を決して忘れることはできない。二度と繰り返さないようにお願いします」と強く訴えた。【黄在龍】 高知大人文学部3年の佐々木美鶴さん(20)▽上田隆太郎さん(20)▽高井詠子さん(21)が09年に結成したグループ「EMIRY」が主催。残留孤児問題を風化させないため始めた。 小原さんは8歳の時、両親ときょうだい4人で旧満州へ渡ったが、すぐに母を病気で亡くし、兄と父を軍隊にとられた。父が召集された翌日、突然「避難せよ」という騒動が起きた。開拓団と一緒に、妹(当時10歳)と弟(同7歳)の手を引き、訳も分

  • 大正100年:歴史に探る日本の針路 児童がつづった朝鮮人虐殺 - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇「デマ」の事実、継承されず 関東大震災から88年後の今月1日、横浜市南区の宝生寺に、喪服を着た男女50人が集まった。セミしぐれが響き、むせかえるような残暑の中、参列者が線香を手向けたのは朝鮮人犠牲者の慰霊碑。地震が発生した午前11時58分をはさみ、佐伯真魚(まお)住職(40)の読経は30分間続いた。 関東大震災の後、日人によって朝鮮人が虐殺されたことはよく知られている。「朝鮮人が襲ってくる」「井戸に毒を入れた」といった根拠のない流言が飛び交い、悲劇を拡大させた。横浜も虐殺の現場だった。同寺の法要は、震災の翌1924(大正13)年から毎年開かれている。 当時、在日朝鮮人の同胞団体を主宰していた李誠七氏(故人)が、朝鮮人の供養をしてくれる寺を探したがことごとく断られ、宝生寺だけが引き受けたという。現在は在日大韓民国民団(民団)が開催している。南区でも虐殺が記録されているだけに、佐伯住職は

  • Dutch Court Orders Compensation Related to 1947 Massacre in Indonesia (Published 2011)

    A Dutch court ordered the government on Wednesday to compensate the widows of seven villagers who were summarily executed and a man wounded in a notorious 1947 massacre during Indonesia’s battle for independence from colonial rule. The landmark ruling was the first time the Dutch government has been held responsible by a court for the massacre. The Hague Civil Court said it was “unreasonable” for

    Dutch Court Orders Compensation Related to 1947 Massacre in Indonesia (Published 2011)
  • 47NEWS(よんななニュース)

    「帰りたかったが、あきらめた」3年たっても帰還2割、土石流被災地・熱海の遠い復興 工事の遅れや行政との軋轢・・・それでも住民は「新しい伊豆山」のために奔走する

    47NEWS(よんななニュース)
  • NHK 戦争証言プロジェクト

    戦争証言プロジェクト NHKは太平洋回線70年の2011年を目指して戦争証言を集めます。未来に伝えるために。3月28日(土)19時00分~19時43分 BShi 東部ニューギニア 絶望の密林戦(仮題) 再放送 3月26日(木)18時00分~18時43分 BShi 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~ 太平洋戦争が終結して63年。戦争を体験された方々の高齢化が進んでいます。あの時代、戦場で、或いは日々の生活の中で、人々は何を思い、どう行動したのか。NHKでは、これまで放送してきた「証言記録 兵士たちの戦争」に加え、年夏から銃後の体験を「証言記録 市民たちの戦争」として放送。さらに取材で得られた数々の証言を「NHK戦争証言アーカイブス」として記録してゆきます。 未来へ伝えるために。

  • 野田新首相は自らの主張に従うか? - Apeman’s diary

    今年の8月15日には「A級戦犯は戦争犯罪人ではない」という主張を維持していると発言していた野田新首相は、代表選勝利後の記者会見では「私は政府の立場なので(政府の)答弁書を踏まえて対応したい」と語った、とされています(時事の記事)。これは予想された対応です。吉田裕は1950年代の日で、戦争責任問題に関する「ダブルスタンダード」が成立したと指摘しています。 (……)対外的には講和条約の第一一条で東京裁判の判決を受諾するという形で必要最小限度の戦争責任を認めることによってアメリカの同盟者としての地位を獲得する、しかし、国内においては戦争責任の問題を事実上、否定する、あるいは不問に付す、というように、対外的な姿勢と国内的な取り扱いを意識的にせよ無意識的にせよ、使い分けるような問題の処理の仕方がそれである。 (『日人の戦争観』、岩波現代文庫、91ページ) 冷戦の終結に代表されるような国際環境の変

    野田新首相は自らの主張に従うか? - Apeman’s diary