鎌倉の小町通りに、「奈可川」という小料理の店がある。小林秀雄先生行きつけの店のひとつで、私たちも何度も連れていってもらったが、この店で先生のいちばんの目当ては「菊千歳」という灘の酒だった。先生は、この「菊千歳」が飲みたい一心で「奈可川」を贔屓にしたといってもいいほどの惚れこみようだった。 その「菊千歳」を飲みながら、日本酒についてのあれこれもたびたび聞かせてもらった。何事であれ、すべて先生を模倣すると決めていた私は、酒の飲み方も可能なかぎり先生に倣おうとした。先生とはちがって勤め人であったから、午後はいっさい水分をとらないといったところまでは真似しきれなかったが、先生が、これはいいと言われる日本酒の味は、しっかり舌に覚えこまそうと気を張った。こうして「菊千歳」は、私が最もなじんだ酒になった。 そのうちすぐさま勢いがつき、「菊千歳」に鍛えてもらった自分の舌を試そうと、二十代から三十代、四十代