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historyとtransportationに関するconsigliereのブックマーク (10)

  • 古代山陰道につづら折り、鳥取 急斜面、馬も上れるよう工夫:東京新聞 TOKYO Web

  • 錨の考古学

    ここで少し趣向を変えて、「錨」(いかり)の考古学を見ていきましょう。 実は水中で古代船や近代船の「錨」が見つかる事例は結構多いのです。現在使われている錨と違い、当時の錨はロープ(縄)で船に繋がれていました。なのでロープが海底に引っかかって切れてしまったり、錨自体が海底に挟まり回収できなくなると、ロープを船上で意図的に切断して出発していました。なので当時の船は沢山のスペアの錨をあらかじめ幾つも船に積んでおり、錨というものはいわば「消耗品」でした。なので港とや湾などの係留地では海底から沢山の錨が見つかることがあるのです。水中考古学では一つの沈没船を見つけられる前に、何十もの錨が見つかることの方が普通なのです。 しかし反対に考えれば、それほど錨というものは古代から船には欠かせないものでした。全ての船が錨を持っていたといっても過言ではありません。さらに錨は石や金属で造られていることも多く、海底が砂

    錨の考古学
  • 昭和12年の東急沿線案内 - まほろば

    このようなものを入手しました。 名称は「沿線案内 東横.目蒲.玉川電車」ということになりましょうか。 当時はまだ東急電鉄という名称はなかったかもしれません。 東横線はそのままですが、目蒲線は目黒線と名を変え、玉川電車(玉電)は新玉川線から田園都市線となりました。 小中高校の時代は玉電のお世話になり、大学以降は目蒲線のお世話になり、今は大井町線と目黒線のお世話になっている私ですので、つい手が出てしまいました。ローカルな路線です。 裏です。 字が小さいですが、沿線の名所案内、四季の見どころ、運賃表などが並んでいます。 渋谷駅付近。 東横百貨店がど~んと描かれています。 近隣の青山学院、國學院、赤十字病院よりもずっと巨大に。(^_^) さらに、「東横百貨店」の文字が赤字で、赤枠で囲われています。盛大にアピールしています。 東横のマーク、懐かしいです。 渋谷駅から斜め左上に延びているのは玉電です。

    昭和12年の東急沿線案内 - まほろば
  • フィンエアーの偉業

    JIC(ジェーアイシー) @twiJIC 今日、フィンエアーはヘルシンキから日へ飛びません。実は毎年のように12/24の日線は運休になるのです。フィンエアーは公式には口を閉ざしていますが、きっと今夜は長距離用の機材とパイロットが必要なんでしょう。世界へ向かうサンタクロースのために。 #フィンエアーの偉業 2017-12-24 18:07:26 JIC(ジェーアイシー) @twiJIC フィンエアーはいま、こんなルートを「北回り」と呼んでいます。でもちょっと待ってください。30代以上の方は覚えていらっしゃるでしょう。当の北回りルートはこんなものじゃなかったことを。そしてフィンエアーはその歴史に伝説的役割を果たしたことを。#フィンエアーの偉業 pic.twitter.com/epanjp0qHh 2017-12-24 21:31:49

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  • 岩倉こ線橋:撤去進む謎の橋 田んぼの中ポツン 愛知 | 毎日新聞

    愛知県岩倉市西市町で陸橋の撤去が進んでいる。田んぼの真ん中にあり「なぜ、ここに」と思わせるような奇妙な風景だった。陸橋に付いた銘板「名鉄線」「いわくらこせんきょう」が、ヒントだった。 県道名古屋江南線(旧名草線)が、県道浅野羽根岩倉線をまたぐための陸橋。種を明かすと、下の県道は元々旧名鉄一宮線で、廃線後に道路になった。 陸橋は1955(昭和30)年、一宮線の線路をまたぐ橋としてつくられた。当時の県道名草線は、車社会の発展とともに建設された名古屋と江南を結ぶ大動脈。交通を遮断しないため、踏切でなく橋で線路を越すことになった。

    岩倉こ線橋:撤去進む謎の橋 田んぼの中ポツン 愛知 | 毎日新聞
  • 東京新聞:「皇紀」刻んだレール発見 京急線で初めて 子安駅の支柱から:神奈川(TOKYO Web)

    京急線子安駅(横浜市神奈川区)で、西暦の代わりに「皇紀」を製造年として刻印した古いレールが見つかった。皇紀は、初代の神武天皇の即位年とされる紀元前660年を元年とし、戦時中は国威発揚のために盛んに使われた。京急によると、同社沿線で「皇紀」刻印のレールが見つかったのは初めてという。 (志村彰太) このレールは、同駅下りホームの屋根を支える柱のうちの一。京急によると高度成長期までは、摩耗して古くなったレールを支柱や柵などに再利用することがよくあり、京急では子安のほかに日ノ出町、川崎大師、追浜の各駅にもある。最も古いものは、一九〇〇年の英国製が日ノ出町駅にあるという。

  • 鈴鹿関の位置解明、国指定申請へ 10年かけ発掘調査:三重:中日新聞(CHUNICHI Web)

    古代の関所の一つ「鈴鹿関」の一部が、二〇〇五年度から十年間に及ぶ発掘調査の結果、亀山市関町の関宿西側に位置する観音山(関町新所)と城山(同)周辺にあることが分かった。当時の都から東国へ向かう際の正面に位置する西城壁の一部も判明。南北六百メートル以上はあることが確認され、当時日最大の関所だった可能性も高まっている。亀山市は調査結果をまとめた上で、国指定史跡の申請を検討している。 鈴鹿関は「不破関」(岐阜県)、「愛発(あらち)関」(福井県)とともに、律令三関(りつりょうさんげん)の一つと数えられ、八世紀の国の重要な防御施設の一つだった。七八九年に制度上廃止され、詳細な場所も分からなくなっていった。 謎の存在だった鈴鹿関を解明するきっかけになったのは、二〇〇五年度から市が旧関町内を対象に始めた遺跡の分布調査だった。合併を機に新たな遺跡地図を作るのが目的だったが、観音山の麓で土塁状の高まりから古

    鈴鹿関の位置解明、国指定申請へ 10年かけ発掘調査:三重:中日新聞(CHUNICHI Web)
  • 京成電鉄寛永寺坂駅:63年前廃止、駅舎など奇跡的に現存 | 毎日新聞

    東京・上野と成田空港を結ぶ京成電鉄(社・千葉県市川市)の63年前に廃止された地下駅の駅舎や階段が当時のまま残されていることが分かった。毎日新聞の取材を同社が特別に許可し、“タイムカプセル”が開いた。私企業の産業遺構は経済状況の変化で姿を消すのが一般的なため、奇跡的な事例だ。 遺構が確認されたのは東京都台東区の旧・寛永寺坂駅。1933(昭和8)年12月に日暮里−上野公園(現・京成上野)間2.1キロの開通に合わせ、地下区間に開業した。45年6月に日暮里−上野公…

    京成電鉄寛永寺坂駅:63年前廃止、駅舎など奇跡的に現存 | 毎日新聞
  • 零戦を牛や馬で運んだ? - 零戦を名古屋の工場から岐阜の飛行場まで牛や馬で運んだって本当ですか?もしそうなら工場の近くに飛行場を造... - Yahoo!知恵袋

    ほんとだよ。 ゼロ戦については、昭和14年3月、試作1号機と2号機の組み立てが完成、岐阜県各務原飛行場でテスト飛行が行われることになった。名古屋市内の三菱工場から各務原飛行場まで、曲がりくねった砂利道で約48km。機体を二分割し、牛車で24時間かけて運搬。なぜ牛車を使ったかについては、トラックも使われたことがあるが、舗装もなく道路状態が悪く機体が振動で破損したこともあり、運搬中に牛が暴れないことを理由として選ばれた。 牛車による飛行機運搬は、九六式艦戦の生産時期以降、戦争中も続いた。最新鋭のジュラルミン製戦闘機を時速3km以下でのんびりと牛車が運搬。 多くの機体が生産されるようになると、温和で力の強い東北・北海道産ペルシュロン馬を用いて搬送時間を12時間と半分になった。しかし、戦局の悪化によって酷使され、見る影もなくやせ細っていったそうです。 ペルシュロン馬を購入する際に、三菱は通常の2倍

    零戦を牛や馬で運んだ? - 零戦を名古屋の工場から岐阜の飛行場まで牛や馬で運んだって本当ですか?もしそうなら工場の近くに飛行場を造... - Yahoo!知恵袋
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