ここで少し趣向を変えて、「錨」(いかり)の考古学を見ていきましょう。 実は水中で古代船や近代船の「錨」が見つかる事例は結構多いのです。現在使われている錨と違い、当時の錨はロープ(縄)で船に繋がれていました。なのでロープが海底に引っかかって切れてしまったり、錨自体が海底に挟まり回収できなくなると、ロープを船上で意図的に切断して出発していました。なので当時の船は沢山のスペアの錨をあらかじめ幾つも船に積んでおり、錨というものはいわば「消耗品」でした。なので港とや湾などの係留地では海底から沢山の錨が見つかることがあるのです。水中考古学では一つの沈没船を見つけられる前に、何十もの錨が見つかることの方が普通なのです。 しかし反対に考えれば、それほど錨というものは古代から船には欠かせないものでした。全ての船が錨を持っていたといっても過言ではありません。さらに錨は石や金属で造られていることも多く、海底が砂
このようなものを入手しました。 名称は「沿線案内 東横.目蒲.玉川電車」ということになりましょうか。 当時はまだ東急電鉄という名称はなかったかもしれません。 東横線はそのままですが、目蒲線は目黒線と名を変え、玉川電車(玉電)は新玉川線から田園都市線となりました。 小中高校の時代は玉電のお世話になり、大学以降は目蒲線のお世話になり、今は大井町線と目黒線のお世話になっている私ですので、つい手が出てしまいました。ローカルな路線です。 裏です。 字が小さいですが、沿線の名所案内、四季の見どころ、運賃表などが並んでいます。 渋谷駅付近。 東横百貨店がど~んと描かれています。 近隣の青山学院、國學院、赤十字病院よりもずっと巨大に。(^_^) さらに、「東横百貨店」の文字が赤字で、赤枠で囲われています。盛大にアピールしています。 東横のマーク、懐かしいです。 渋谷駅から斜め左上に延びているのは玉電です。
JIC(ジェーアイシー) @twiJIC 今日、フィンエアーはヘルシンキから日本へ飛びません。実は毎年のように12/24の日本線は運休になるのです。フィンエアーは公式には口を閉ざしていますが、きっと今夜は長距離用の機材とパイロットが必要なんでしょう。世界へ向かうサンタクロースのために。 #フィンエアーの偉業 2017-12-24 18:07:26 JIC(ジェーアイシー) @twiJIC フィンエアーはいま、こんなルートを「北回り」と呼んでいます。でもちょっと待ってください。30代以上の方は覚えていらっしゃるでしょう。本当の北回りルートはこんなものじゃなかったことを。そしてフィンエアーはその歴史に伝説的役割を果たしたことを。#フィンエアーの偉業 pic.twitter.com/epanjp0qHh 2017-12-24 21:31:49
古代の関所の一つ「鈴鹿関」の一部が、二〇〇五年度から十年間に及ぶ発掘調査の結果、亀山市関町の関宿西側に位置する観音山(関町新所)と城山(同)周辺にあることが分かった。当時の都から東国へ向かう際の正面に位置する西城壁の一部も判明。南北六百メートル以上はあることが確認され、当時日本最大の関所だった可能性も高まっている。亀山市は調査結果をまとめた上で、国指定史跡の申請を検討している。 鈴鹿関は「不破関」(岐阜県)、「愛発(あらち)関」(福井県)とともに、律令三関(りつりょうさんげん)の一つと数えられ、八世紀の国の重要な防御施設の一つだった。七八九年に制度上廃止され、詳細な場所も分からなくなっていった。 謎の存在だった鈴鹿関を解明するきっかけになったのは、二〇〇五年度から市が旧関町内を対象に始めた遺跡の分布調査だった。合併を機に新たな遺跡地図を作るのが目的だったが、観音山の麓で土塁状の高まりから古
東京・上野と成田空港を結ぶ京成電鉄(本社・千葉県市川市)の63年前に廃止された地下駅の駅舎や階段が当時のまま残されていることが分かった。毎日新聞の取材を同社が特別に許可し、“タイムカプセル”が開いた。私企業の産業遺構は経済状況の変化で姿を消すのが一般的なため、奇跡的な事例だ。 遺構が確認されたのは東京都台東区の旧・寛永寺坂駅。1933(昭和8)年12月に日暮里−上野公園(現・京成上野)間2.1キロの開通に合わせ、地下区間に開業した。45年6月に日暮里−上野公…
ほんとだよ。 ゼロ戦については、昭和14年3月、試作1号機と2号機の組み立てが完成、岐阜県各務原飛行場でテスト飛行が行われることになった。名古屋市内の三菱工場から各務原飛行場まで、曲がりくねった砂利道で約48km。機体を二分割し、牛車で24時間かけて運搬。なぜ牛車を使ったかについては、トラックも使われたことがあるが、舗装もなく道路状態が悪く機体が振動で破損したこともあり、運搬中に牛が暴れないことを理由として選ばれた。 牛車による飛行機運搬は、九六式艦戦の生産時期以降、戦争中も続いた。最新鋭のジュラルミン製戦闘機を時速3km以下でのんびりと牛車が運搬。 多くの機体が生産されるようになると、温和で力の強い東北・北海道産ペルシュロン馬を用いて搬送時間を12時間と半分になった。しかし、戦局の悪化によって酷使され、見る影もなくやせ細っていったそうです。 ペルシュロン馬を購入する際に、三菱は通常の2倍
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