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ブックマーク / mubou.seesaa.net (20)

  • 漫画だろうが絵本だろうが制限しないで、本を読みやすい環境さえ整えておけば、子どもは勝手に本好きになるような気がします: 不倒城

    漫画だって絵だって立派な読書だ、と私は思うわけなんですよ。 という話を以前していたら、「子どもが漫画ばっか読むようになりそうで心配」といわれまして。勿論人それぞれだろうとは思うんですが、 ・色んなに触れることの出来る環境だけ用意しておいてあげる ・親が「そんな読むな」「こういう読め」という制限や押し付けをしない この二つにだけ気をつけておいてあげれば、知識欲の趣くままに、子どもは勝手に色んなもの読むようになる、ような気がします。 まず先に、しんざき家の家族構成を明示しておきます。しんざき、しんざき奥様はいずれも30代中盤。長男は8歳、小学二年生。長女・次女は3歳の双子。絶賛おしゃべり期で、ここ最近は豚が石鹸う絵がお気に入り。 これはある程度一般化出来ると思うんですが、子どもって基的には「知りたがり」なんですよね。とにかく色んな知識や情報に触れたがる。別に新しいものでなくても、

  • 「文章力」とかいう正体不明の存在を身に付けようとする前に: 不倒城

    以前も似たようなことを書いた記憶がありますが、ちょっともう一度書かせて下さい。 いわゆる文章力というものには、大雑把に考えると二つの方向性があります。ざっくり「語彙力・表現力」という意味に近いものと、ざっくり「整理力・構成力」という意味に近いものです。 前者は、様々な単語や熟語、レトリックを使いこなして、きらびやかな、豊かな文章を作る能力。 後者は、文章の構造や論点をきちんと整理して、言いたいことを過不足なく、分かりやすく、読む人に伝える能力です。 この二つ、別に相互矛盾するわけではないですし、共存出来ないものでもないんですが、一方に特化すると、もう一方は発揮しにくくなる傾向があります。「表現が豊かで、しかも簡潔で分かりやすい」という文章はなかなか書きにくいんですね。短文であればあるほどそうです。 つまり、「表現力に近い文章力」と「整理力に近い文章力」をいっぺんに身につけるのは、不可能とは

    delayedresolve
    delayedresolve 2013/03/14
    『「表現力に近い文章力」と「整理力に近い文章力」をいっぺんに身につけるのは、不可能とは言いませんが案外難しい』
  • 「今日、幼稚園で何があった?」という質問が息子に嫌がられていた理由: 不倒城

    長男(幼稚園年中)と話していた際、ふと気付いたこと。よく考えてみればごく当然のことだったのだが、今まではっきりと認識出来ていなかったので、ちょっと書きとめておきたくなった。 子供たちや奥様と一緒に、風呂に入った時の話である。 我が家の風呂は、比較的早風呂である。とはいえ、風呂に入りながらも色々と話す。 息子さんとばしゃばしゃお湯をいじりながら、私はなんとはなしに、「今日、幼稚園で何があったー?」と聞いた。この時、彼は「もう、そんなにいろいろ聞かないでよー」という嫌がり方をしたのである。 ん、色々? 私が聞いたのは、「幼稚園でどんなことが起きたか」という一点だけであり、別に「色々な質問」をした訳ではない。そして、この質問をする前にしていた話は、お風呂で遊ぶおもちゃについての話であり、特段何か質問をした訳でもない。 実は、この質問に対して息子さんが難色を示すのは、初めてのことではない。いつもは

    delayedresolve
    delayedresolve 2013/02/27
    ブコメ→『読書感想文が大嫌いだった理由が今さらわかった。』
  • 自分が思った通りに自分の言葉が伝わるというのは、とても幸福な偶然なんだと思う: 不倒城

    テーマはタイトルだけで、文は殆ど、補足。 ちょっと、とあるTwitterの発言を見て思ったこと。といっても、発言自体はトリガーであって、内容については私の意見はないのだけど。 言葉って伝わらないですね。津波警報と電車の運休をイコールで結んでいいのかという疑問を呈したのです。安全第一というのは当然ですが、運行責任、経済的な責任も片方にあるはずで、そういうルールが不完全と言いたかったのです。tomtsubo氏のPOSTより引用 津波の話は一旦忘れて頂きたい。実際のところ、坪田先生のこの前後の発言が批判されるべき発言なのか、妥当な発言なのか、そういう点について私の意見はない。興味もあんまりない。 「言葉って伝わらないですね」というのは、言わずもがなというか、端的にいって当然の前提だと思う。言葉を使って生活されている方がご存知ない訳はないので、ただの感慨なのだとは思うけど。 言葉は伝わらない。そ

  • 「批判」が求める最低条件。: 不倒城

    確実にいえるのは、「何かを批判するのなら、その「何か」について出来うる限り知っておくべき」だということ。 大して読んでもいないを、殆ど遊んでもいないゲームを、ちらっと見ただけのエントリーを、自分の想像で勝手に補って批判するのはとても礼を失した行為であるということ。聞きかじっただけのソースで、大部分を脳内補完してDisを展開するのは凄く危険な行為であるということ。 けど、「批判したいもの」というのは、第一感で「キライなもの」「気に入らないもの」であることが多いから、それを多く知ろうとする行為にはある種の苦痛が伴う。その苦痛を乗り越えるのは大変に難しい。ドラゴンズレアというゲームを批判する為に、ドラゴンズレアというゲームを最後までクリアしようとする行為にも似る(勿論、ドラゴンズレアというゲームが非常に入りにくいことは確かであって、その「入りにくさ」を批判するというのは無根拠な批判ではない。そ

  • ネット上では「誰も有名人である必要はない」: 不倒城

    まあ理想論なんだろうけど。 ネットでは「誰もが有名人」である 先日、Twitter上で有名人 vs 自称非有名人という構図のバトルが発生しました。自称非有名人であるユーザが有名人に対して批判的な意見を「個人的なつぶやき」としてTwitterに書き込んだ事が発端でした。この批判的な意見は有名人に届き、有名人はTwitterで反論を行いました。 反論された自称非有名人は「テレビに出てる人に文句言ってる感覚」という感想とともに謝罪を行いつつ、有名人が反論するのは「大人げない」と不満をTwitterやブログに書き込みました。それらの推移を多くのネットユーザが見つつ、様々な意見が様々な人々によって様々な媒体を使ってネット上に吐き出されました。 今回の件のように「引っ張り出される」という状況は、ネットのフラットさが生んだ現象なのかも知れません。現在のWebの世界は善くも悪くもフラットな一面を持っていま

  • とある飲み会で、「面白いこといえる様になりたい」っていう人と話したのだが: 不倒城

    なんだか聞いていると、「面白くないこと」を言うことを凄く恐れている様だった。 そもそも「面白いことを言える様になりたい」という発想自体がよく分からないっちゃ分からない。別にネタ芸人やって生きてる訳じゃあるまいし、静かに飲む酒にも味がある。彼は確かにあまり口数の多い方ではないし、私は彼と静かにぽつりぽつりと飲むのも割と好きなので、むしろそういう欲求を彼が持っていることの方に意外さを感じた。身勝手な意外さなのだろう。 ただ、敢えて「面白いことを言う」ということについて考えてみると。話が面白い人ってそこまで面白くないことも実はたくさん言っていて、でもそれを全然恐れていないから、結果的に「面白い言葉」が映えている様な気がした。 「面白い話をする人」は、多分純度100%で面白い訳ではないのだ。ただ、彼らは「面白くないことを言うこと」を恐れない。 多分色んな理由があるんだと思う。数うちゃ当たる的な側面

    delayedresolve
    delayedresolve 2009/08/25
    『「面白くないこと」を言うことを凄く恐れている/話す以上と同じくらい重要、というか難易度の比重が高いのは「流す技術」の様な気がする』
  • 「自分には楽しめないことを楽しんでいる人にいちいちケチをつけたくなる症候群」: 不倒城

    に名前をつけたい。何だろう、局外者シンドローム? まあ、なんというんでしょう、自分や他の誰かに何かしらの被害が及ばない限り、たくさんの人が楽しそうなのは基的にいいことなんじゃないかと思うんです。 勿論、「自分は何故楽しくないのか」を分析することは重要な思考法だし、それを外に向かって投げるのも自由だと思いますが。 ただ、わざわざ皆が楽しんでいるところに突っ込んでいって、楽しんでいる人達に向かって全力で水をぶっかけたがる人を見ると、ぬるま湯精神の保有者としては、何もそこまで特攻精神に溢れんでも、とか思わないでもない訳です。特攻戦法に士気使い過ぎだと思わないでもない訳です。Rホウ徳ですか君は。 ということで、しんざきはあんまり興味がないことはがんがんスルーしますけど、お祭り自体はもう幾らでも発生するといいんじゃないかと思いますよ。火事にならない程度に。

  • 「必死に書く人」は、記事の通風孔を塞ぎ過ぎてしまう: 不倒城

    のではないか、とちょっと思った。 twitter茂木センセーがおかしくなっちゃったのは、必死で書いたがぜんぜん売れないのに、テキトーに書いたやテキトーな対談が馬鹿売れしてしまったからだと思う。「バカ売れ」までいくとどうなのか分からないが。 必死に書いたが全く売れないのに、テキトーに書いたが何故かそこそこ売れてしまう、という事象は、実は全然珍しいことではない。よくある。 また、ブログに置き換えてみると、必死に書いた記事が全く顧みられないのに、テキトーに書いた記事にブクマがつきまくる、というのも、おそらくそれ程珍しいことではない。 多分、理由は単純だ。これは、「必死に書く」が「穴を塞ぐ」と結びついた時に発生する現象だと思う。 よく言われることだが、いいスピーチの要件の一つに「内容を深める質問が出ること」というものがある。「あれ、ここはどうなんだろう」という、ポジティブな形での疑問を聴

  • ところで、「感想文を評価する側」はどうなのよ?: 不倒城

    ちょっと斜め上の話になるかも知れないが。 子供にも広がるコピペ症候群~『考える』の空洞化(2) 子供にも広がるコピペ症候群…読書感想文を公開・学校提出用に丸写しを公然と認めるコピペ推奨サイトまで出現 学生のレポートや読書感想文にコピペが蔓延している、というお話。見た感じネット批判テンプレの延長に見えるが、まあそれについては今更だしどうでもいいや。 この手の話をする時、「評価する側」のスキルについて触れられているのを見たことがないんだけど、その辺どうなんだろうな。 当たり前だけれど、「書く」ことと同程度、あるいはそれ以上に、「書かれたものを評価する」ことは難しい。「文章について妥当な評価をする」スキルを身につけることは、「整然とした文章を書く」スキルを身につけることより、多分遥かに難しい。 知り合いの編集者さんから聞いた話なのだが。「ある作家さんが売れるかどうか」を評価することは、当たり前だ

  • 「笑い声」という演出の傲慢。: 不倒城

    よく言われることなのかも知れないが、バラエティ番組の背景音として流される「笑い声」は、番組制作者が視聴者及び出演者を信頼していないということの一つの端的な例である様に思った。 背景音として笑い声を挿入するということは、「笑うポイント」というものを明示するということである。視聴者に「ここは笑うところですよ」という点を伝え、誘導する。音声による笑いの雰囲気作り。いや、効果的な演出といえばその通りなのだが。 意地の悪い見方をすれば、これには二つの意味が含まれる。 ・笑うポイントを明示する必要がある→笑うポイントを読解出来ない視聴者が大多数である、と製作者が判断しているという意味。 ・笑うポイントを明示する必要がある→出演者の技量では、音声抜きでの笑いを引き出すことは出来ないであろうと製作者が判断している、という意味。 正直、あまりいい印象がない。製作者には、演出抜きでも笑わせてやるという自信、あ

    delayedresolve
    delayedresolve 2009/04/04
    『制限されるが故のエネルギー』
  • 誤読に関する誰かの言葉。: 不倒城

    誤読されてるって、君の記事が? ・・・あー。レスポンスが返ってきたはいいが、君が意図した内容と全然違ったってか。 それどころか全然違うテーマの話を始められたって?あはは。 誤読かあ。そうかも知れないけど、多分そうじゃないと思う。君の言いたいことは言いたいことでちゃんと伝わってると思うよ。何言ってるのか分からない記事って、そもそもあんまり反応返ってこないから。 読んでる人は、ちゃんと君の記事から「読みたいこと」や「反応したいこと」を拾い上げてるんだよ。ただ、それが君の「言いたいこと」とピタっと重なる保証はどこにもないってこと。 回りくどいか。 なんていうんだろうな。君の言いたいことを100%拾って、それに沿って考えなくちゃいけないなんてルールはどこにもないっていうか。 イヤな言い方になるかも知れないけど、君の言いたいことは、別に読む人が読みたいことじゃないんだ。 読む人が読みたいことっていう

    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/11
    『君の言いたいことを100%拾ってそれに沿って考えなくちゃいけないなんてルールはどこにもない/君の言いたいことは別に読む人が読みたいことじゃない/読む人が読みたいことっていうのは大体の場合既にあって』
  • 本当に公平に相手の意見を評価したいなら、その人のことを知ってはいけないのかも知れない: 不倒城

    極論として。 あなたが嫌いな人でも妥当なことを言うことはあるし、あなたが好きな人でも間違ったことを言うことはある。あなたはそれを受け入れられるだろうか。 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を排除するのは当に難しい。その逆も然りである。「話者が誰か」というバイアスは、どんな人にも強烈に作用するものだし、しかもその作用を明確に意識するのはかなり難しい。 という様なことを考えた。発端はこちらの記事だ。 失言問題と「マスゴミ」論と医療費問題ここで注意したいのは、「マスゴミ」バイアスがかかっている場合、逆にあるものが正しく思えがちになってしまうこと。あくまで発端であって、こちらで書かれている論とは大分外れてしまうとは思うけれど。 正直私は、失言問題自体には殆ど興味がない。その為、以下の話は完全に一般論であり、現在盛り上がっている話題とは一切関係ない、ということは先に書き添えておきたい。 例として分かり

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    delayedresolve 2008/12/01
    『違うのだ。信頼されるのは、その人が「今まで発した言葉」でなくてはならない。その人が「これから発するだろう言葉」であってはならない。それではただの宗教になってしまう。』
  • 結婚式とは、人生最大にして、多くの人にとっては唯一のコスプレ会場である: 不倒城

    軽くマジレスしてみる。 結婚式って何のためにするの? 一回やれば、「うん、そんなに何度もするものじゃないな」と思って夫婦共にリトライする気をなくせるからやっとけばいいと思うよ!思うよ! というのはまあ置いといて。 新婦は、きれいなドレスを着飾って、自分が主役になれる事が満足なのかもしれない。日常生活で輝いている彼女だから、結婚式で見せかけだけの主役になりたいなんて考えてるはずないと思ってた。見せかけだろうがなんだろうが、パートナーを「主役」にしてあげるのはもう一人の仕事だと思うんだけれど、この増田結婚式以上に「奥様が主役になれる場面」を作ってあげる自信があるんだろうか? 自意識がどうとか面倒な話は抜きにして、やっぱり、相手が胸を張れるステージを作ってあげることって大事だと思うよ。胸を張っていられる、胸を張っていられた記憶があるっていうのは幸せの重要な要件の一つだもの。内助の功とか古臭い言

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    delayedresolve 2008/11/26
    『"因習"の裏には色んな意味があるって事("記号"の大事さ)が分かってない/多くの儀式は一種の記号セットだ/通過儀礼は伊達じゃない/"彼女と彼女の親は喜ぶだろうな"ってこれだけで十分だろ何いってんだこの増田は』
  • 水伝とか代替医療について、思ったこと。: 不倒城

    気になったことが幾つか。メモ的に書く。 まず最初に。 関東地区女性校長会が激しくやばい件 『教育現場に水のメッセージを』(『Hado』9月号) 「水からの伝言」とか波動の人が女性校長先生集団に講演、更にホメオパシーのコンボ、とか字面だけ読むと脊髄反射でうわちゃあとか思うけど、うわちゃあの先には色々と考えなくてはいけないことがある気がする。 ここで思ったのは、例えばこういう講演を聞いて「いい話だなあ」と感じる人(どれくらいいるのか知らないが)は、「科学的な視点からの反論」に対してどう感じるのかな、ということである。 メッセージの届き方にもよるのだが、「(悪い意味での)科学至上主義者がなんかうるさいこと言ってる」という風にとられてしまう向きがありはしないか、と。(参照:Wikipedia:ノート:千島学説) 思考の方向というか、意識の決定的なずれがどこかにある様な気がする。 別のエントリーを読

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    delayedresolve 2008/09/19
    『ベースに「オーソドックスな医療への不信感」があるが故に、ホメオパシーの様な代替医療に傾倒するというのは分かりやすい話だ。信じるものが他になければ、傾倒している対象から戻る理由がない。』
  • いい加減な評論家というのは、恐るべき高スキルの職業だと思う。: 不倒城

    だって、彼らは自分の唯一の売り物である「いい加減な評論」をお金に換えなくてはいけないのですよ?こりゃすげえ。ドラクエでいえばひのきの棒一でだいまじんと向かい合う様なもんで、少なくとも私には無理だ。 いい加減な評論と鋭い評論、普通に考えれば前者の方が価値が低いのは当たり前の話であり、いい加減な評論の売り手は「価値の低さ」を何か別の所で補わなくてはいけない。それが例えば人脈であり、コネな訳であって、大抵の場合「人脈や立場を生かす力」が高い評論家の方が、「鋭い文章を書く力」が高い評論家よりも遥かに収入が多い。これが評論家という職業のダメなところであり、恐ろしいところでもある。ちなみに、野球の解説もそれに準ずる。 最低映画評論家の福次郎 見映画評論 私は福次郎という人をよく知らないが、この人の評論が上記エントリーで挙げられている通りダメなものだとしたら、この評論でお金を得ているというのはある

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    delayedresolve 2008/08/27
    『評論の中身が時として軽視されがちになる理由というのは評論という物が本質的に抱えている弱点/作品をどう受け取るかは人それぞれという前提が加わると「いい評論,悪い評論」という物は極端に評価しにくくなる』
  • 「共感すること」と「共感を表現すること」は全くの別会計じゃなかろうか: 不倒城

    批判とかではないけれど、ふと思ったことを書く。 女性の「共感したい」って感覚が謎な件一緒に泣くとか、「わかるわかる」って言い合いたいとか。 もう、意味が分からない。 なんで? それ、何が面白いの? 共感してどうしたいの??女性って・・・謎だ・・・まず、「女性」で一般化すると色々な弊害が出てくるから避けた方が無難じゃないかな、とは思う。「共感したい人」は女性に限らないし、そもそも性差がこういうところに存在するかどうかが凄く疑問である。 その上で。「共感」っていう単語は、実際に示している意味と字面が微妙にずれてきている様な気がする。 共感というものは、基的には自己主張の変形である。 自分の感覚というか、「主張したいこと」「潜在的に自分も主張していること」と合致する言葉や立場を見た時に、「私もそう思っていた!!」という形での「共感」が発生する。この際重要なのは「思っていた」という部分であって、

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    delayedresolve 2008/08/23
    『自分の感覚というか、「主張したいこと」「潜在的に自分も主張していること」と合致する言葉や立場を見た時に…「他人の言葉」をトリガーとして発生する自己主張が「共感」なのだ。』
  • 「生き方の一般化」が無理過ぎる話: 不倒城

    要は、勇気がないんでしょ? [悪意]id:guri_2という、こいつが生きているからこの世界は駄目なんだというような糞野郎を、このリルリルが貴重な時間を浪費して罵倒してあげる この辺を見ていて、ふと思ったこと。 ここしばらく、「ポジティブ vs ネガティブ」であるとか、「生き方強者 vs 非生き方強者」という様な論争を頻繁に見る。 まず第一に。当たり前の結論から先に言うと、こういった「生き方」的なものを一般化することは来不可能である。 人間の人生というのは、生まれた瞬間から扇形に枝分かれしていく。生まれた当時は同じ赤ん坊でも、「ある人の十年」と「他のある人の十年」が同じである可能性は、当たり前だが皆無である。 経済状況から現在の環境、好み、人間関係、果ては思考から性格まで無限のパターンが存在するのに、「ある人にとって適した生き方」が「他の人にとっても適した生き方」である可能性が、一体どれ

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    delayedresolve 2008/03/19
    『「自分だけの自分にとっての理想のスタンス」が他人にとっても理想のスタンスである筈だと考える人は意外なことに割といる様なのだ…それに対して受信者の側にも「わかっている人」と「わかっていない人」が…』
  • 沈黙というメッセージは届かない: 不倒城

    ちょっとひとり語りをする。 昨日のエントリーを書いてから、また別の幾つかのエントリーを読んで、色々考えた。 十年来の知人がいる。まあ、「親友」というラベルをぺたりと貼っても、凄く嫌そうな顔をしつつもまあ勘弁はしてくれるかな、という感じの仲である。 私と彼は、多分割と相談事を持ち込まれる、あるいは愚痴を聞かされる方だと思う。 「彼の自己評価」と、「私の彼に対する評価」が一致しているかどうかは分からない。というか、まあ、おそらく違っているだろう。ただ、私自身は、彼と私の相談事の聞き方は結構違っている様な気がしている。私に愚痴を聞かせる人と、彼に相談ごとをする人は、求めているものが大分異なっている様な、そんな気がしている。 昨日のエントリーでも書いたが、「つらそうな人」の言葉を聞く時、私は何も言わない、というか何も言えないことが多い。言ったとしても、一見関係がなさそうで実はありそうで、でもよく考

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    delayedresolve 2007/11/09
    『「つらそうな人の言葉を聞いて、それに被せて自分の話をすること」があんまり好きではない。そして、自分の話をして相手を励ました気になっている人も、同じくあんまり好きではない。』
  • 「個人的な問題でも一般化したい病」について: 不倒城

    症候群、といってもいい気がする。 恋愛論とか最たるものなんだけど。世の中には、「どう考えても特殊な状況における個人的な問題なんだけど、それを一般的な問題にしたい、凄くしたい」という病気にかかっている人がたくさんいる。そりゃもう数限りなくいる。 新聞やテレビといったマスメディアが、例えば特殊な事件をネタにしてWebやオタク、アニメやゲームといったものを一般的に叩くことに憤る人は多い。が、翻ってみると、「特殊なネタ→一般化」を駆使する病というのは、マスメディアに限らずあたり一面に蔓延しているのである。もうこれは風土病などというレベルの騒ぎではない。数十年も前から発生している、思考的疾患のアウトブレイクである。 かく言う私も「一般化病」を長年患っている患者の一人である。筋金入りの患者といってもいい。病気自慢を貫徹する為にも、ひとつこの病気について一般化を行ってみよう。一般化病患者の辞書に「自己撞

    delayedresolve
    delayedresolve 2007/10/16
    『一般化した場合の結論が綺麗にまとまり過ぎて、ついつい無理な題材でも一般化したくなってしまう』
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